音楽でも聴きながらご覧ください。
おはようございます鉄太郎です。
本日で7月(文月)も終了である。
しかし、まだまだクソ暑いというより、めちゃくちゃ熱いの方が適当な感じである。
明日から8月(葉月)である。8月と言えば終戦記念日を思い浮かべる。
我が父親は第二次世界大戦で兵隊として満州で戦いロシアの捕虜となった。極寒の地であったと聞いていた。
(既に父親は私が18歳の時に他界している)
さて、本日のお話は「零戦」をご紹介いたしましょう。
零戦と言っても私が見た模型は鹿児島県の知覧だ。(特攻隊の日本最南端の発進地である)
私は戦後生まれなので詳しくは分からない。母から聴くとB29が焼夷弾を落とすので防空壕へ走って逃げたと言っている。
(鹿児島県知覧...戦争の悲惨さが広島や長崎同様に伝わってきますよ。特に特攻前日に書かれた特攻隊員の手紙等を読むと涙が溢れ出します。特攻隊の皆様が達筆です。知覧は武家屋敷やお茶もありますので是非一度皆様広島や長崎同様足を運んで下さい)
昔、会社勤めをしていた頃、新入社員にB29って知っているかと訪ねたら、鉛筆の濃さですかと...揶揄され答えられたことがある。
「零戦」とは零式艦上戦闘機の略称で日本海軍が日中戦争から太平洋戦争(1941〜1945年)を通じて使用した艦上戦闘機のことである。
日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)、三菱重工業が開発に着手。
2年後、試作機が完成し日本初の艦上戦闘機が岐阜県各務ケ原飛行場(かがみがはらひこうじょう)を飛び立った。
試験飛行を終えた操縦士はブレーキの不良を訴えたものの、その他は全て良好と興奮した面持ちで報告したそうだ。
それもそのはず、航続距離(1回の燃料で飛行できる性能)、最大速度、空中戦の性能のいずれもが当時としては世界最高だったというから素晴らしいが、最後は悲惨なものだった。
翌年7月24日、海軍の制式兵器として採用され、このときに零式艦上戦闘機と命名されたのだが、零式の零とは1940年(昭和15年)が皇紀でいうと紀元2600年にあたるため、末尾の「0」をとってなづけられたそうだ。
「0」は日本では「零」の字を当てている。
したがって略称も「れいしき」と言ったのだが、アメリカ軍が「ゼロ・ファイター」と呼んだため、戦争末期から戦後には「ゼロ戦」という言い方が広まり定着したのだそうだ。
戦時中は敵語として英語の使用が禁止されたのにもかかわらず、一般に浸透していったのだ。
「ゼロ」が英語であるという感覚が当時の日本人には希薄だったからだろう。
知覧の特攻隊基地そばに富屋食堂があった。
そこに鳥浜トメという女性がいた。
知覧は鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧で出撃を待つ特攻隊員たちはこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメを母親のように慕っていたそうだ。
明日は死に行く少年たちのために出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせてやるしかない、
そう思ったトメさんは私財をなげうって、特攻隊員たちに尽くされました。
今は平和の祭典のパリオリンピックの開催中である。
7月29日の我が日本選手は、体操の男子団体で2大会ぶりに金メダル。また、馬術の総合馬術の団体で日本が銅メダルを獲得するなど活躍されている。
このほか、スケートボードの男子ストリートで、堀米雄斗選手が2大会連続の金メダルを獲得。
本日は水曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。
本日も皆様に少しの幸せが届くことを心よりお祈りいたしております。
鉄太郎。