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おはようございます鉄太郎です。
昨日は帰宅時バスに乗車して終点の桜町バスターミナルまで行き、食べたかったラーメンを食して帰りました。
帰宅は20時頃、それから録画していたニュース等を見て眠りにつきましたが、寝相が悪いのか夜中ベッドより落ち頭を打ちました。たんこぶが出来ていますが、デブなので目立ちません。
さて、本日のお話は「ひとりぼっち」です。仲間や身寄りがない私のような孤独を「ひとりぼっち」または、「ひとりぽっち」という。
結論から記述すると「ぼっち」「ぽっち」は、「法師」が訛ったものだそうです。「ひとりぼっち」を漢字で書くと「独法師」となります。
法師とは「仏法を教え導く師」のこと。後世になると僧侶全般も指すようになった。また、中世以降には世過ぎのために僧形に扮した者も指すようになり、髪を剃り上げた幼子を「小法師」とよんだ。
(私は禿げて年寄りなので鉄太郎法師?良すぎます)
日本各地の昔話に「だいだらぼっち」という巨人の伝承がある。
日本各地の昔話に「だいだらぼっち」という巨人の伝承がある。
この説では、これを漢字で書くと「大太郎法師」となる。柳田国男が昭和2年にとりあげた「ダイダラ坊の足跡」では、山を作ったり足跡が湖なったりしている。
たとえば…。
①富士山は「だいだらぼっち」が甲州の土を使って富士山を作り、甲州には盆地が出来た。
たとえば…。
①富士山は「だいだらぼっち」が甲州の土を使って富士山を作り、甲州には盆地が出来た。
②赤城山に腰掛けて踏ん張ったときの足跡が赤沼...話などがある。
一寸法師も法師の名称がつけられているが、こちらは大太郎法師を生み出した発想とは真逆のものといえますね。
また、別の説では、「ぼっち」「ぽっち」は、言葉の指す状況からして、「独り身でぽつねん」という考え、「ぼっち」も「ぽっち」も小さい点を表す「ぽち」と関連している説もある。
これは、ボタンを押すときに「ポッチ」とかを使う。関西地方では祝儀やチップを「ぽち」ともいうが、これも「小さい」から来た言葉ではなかろうか?説です。お正月のお年玉袋は「ポチ袋」ですね。
「だいだらぼっち」や「一寸法師」等と「小さい」から、ひとりぼっちの「ぼっち」は来ていることになる。
昔話は夢があって良いですね。柳田国男さんではないが、私も「糞爺のだらぼっち」でも書いてみますかね? 面白いかも知れません。
☆鉄太郎談。
「人間にとって大切なのは、この世に何年生きているかということではない。この世どれだけ価値のあることをするかである」
上記の言葉はアメリカの小説家オー・ヘンリーの言葉である。彼は400編近い短編小説を残したが、市民の悲しみを表現したものが多かった。映画化されたものも少なくない。1862~1910年)
私は、何か価値のあるものを私自身は残しているだろうか?
今から価値のあるものを残さないといけない。
今から自分自身を見直して、価値のあるものをとは難しい。しかし、何にかは残したいものですね。
現在のままだとひとりぼっちで、四字熟語で鰥寡孤独(かんかこどく…身寄りのない独り者。また、身寄りのない寂しい暮らし)。
上記の言葉はアメリカの小説家オー・ヘンリーの言葉である。彼は400編近い短編小説を残したが、市民の悲しみを表現したものが多かった。映画化されたものも少なくない。1862~1910年)
私は、何か価値のあるものを私自身は残しているだろうか?
今から価値のあるものを残さないといけない。
今から自分自身を見直して、価値のあるものをとは難しい。しかし、何にかは残したいものですね。
現在のままだとひとりぼっちで、四字熟語で鰥寡孤独(かんかこどく…身寄りのない独り者。また、身寄りのない寂しい暮らし)。
しかし、四字熟語で既往不咎(きおうふきゅう…過去を振り返りより将来の方が大切)という言葉もある。過去を振り返ってもしょうがない。我が人生は今からだ思う鉄太郎でした。
本日は水曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。
本日も皆様に少しの幸せが訪れることをお祈りいたしております。
鉄太郎。(今からJR電車に乗ります)