今晩わ。
今年も変わらず、超デブで白髪の禿げチョビンでキモメンを隠す為に黒縁の眼鏡をしているぺぺ爺でございます。

本日も昨日同様、夜勤(21時〜翌朝9時)です。
(明後日は24時間勤務です。朝9時〜翌朝9時迄)

最近ではドトールコーヒーでアイスティーを飲みながらブログを更新しています。

さて、本日は時代劇でお馴染みの水戸黄門(水戸光圀)をご紹介しましょう。
(黄門様は実は7名もいたが、本日は名高い水戸光圀を)

テレビでは20時43分くらいに「格さん、もう良いでしょう」と印籠を見せる。「はっはっ~」と皆を平伏す瞬間はたまらない。

水戸光圀の出生は必ずしも幸福なものではなかった。父親の初代水戸藩主、徳川頼房が歓迎しなかったのだ。

母親の名前は、谷久子といい水戸藩に仕える武士の娘で水戸城の奥づとめの侍女。

父親の頼房に愛され光圀を身篭ったが、頼房は「生まれてきた子供は間引き(命を絶て)せよ」と言われいた。

しかし、頼房が信頼する家臣、三木仁兵衛という人物が心温かい家臣で内緒で光圀を育てた。

三木仁兵衛には光圀より前にも兄(後の四国高松藩主、松平頼重)も同様、父である頼房に内緒で育てていた。

この兄の存在が後の光圀に影響を与える。光圀は幼名を「長丸」といい、その後「千代松」とかわる。

やがて父である頼房に認知され三男ながら世子となり、時の三代将軍、徳川家光から一字とり「光国」となる。

しかし、幼少⇒青年⇒跡取りとなる間、父頼房が自分を殺すよう命じたことを知り、現在でいう不良少年となった。

「どうせ自分は元々はいらない人間」と思っていて遊郭にも行き大喧嘩もしたという。

でも頭が鋭く理不尽なことには追求した。そのうちに中国の文献(孔子・孟子)に目を通すようになり「史記」を読みはじめた。

父頼房が死に光国が水戸徳川家の二代目となった。跡目を継ぎ最初に命じたのが「殉死禁止令」。当時は藩主が死ぬと忠義深い家臣が後を追い切腹していたのを禁止したのだ。

その後、光圀(国⇒圀に変更したのは50歳を越えてから)は、自分の政策を発表。

①農民の暮らしを政治的に豊にする。
②大日本史の編集・制作。
③領内の水道を建設。
④変な宗教禁止。
⑤雑税をいくつか廃止して農民の負担軽減。
⑥今後の相続はは四国高松の松平家と交代で行う。(兄、松平頼重の存在があったから)

またこんな事実もあった。五代将軍綱吉の「生類憐みの令」の悪政を咎めるために藩主を松平家から綱条を養子として迎えて隠居。

隠居した光圀は現茨城県太田に「西山荘」と名付けた隠居所に移る。

自分の号を「梅里」と名づけ、身近に「大日本史」を作成するために有名な学者を二人置く。

それが介三郎さん(佐々宗淳)と覚さん(安積澹泊)いずれも通称名。これが後の「助さん」「格さん」に発展?

「水戸黄門漫遊記」はフィクション。光圀が歩いたのは領地の近隣のみ。実際には佐々・安積が歩いたのが漫遊記になった?

光圀は73歳で亡くなった。黄門というのは官位で中納言。中納言であれば誰もが黄門さま。黄門さまは光圀の専売特許ではないが水戸黄門といえば「徳川光圀」。やはりテレビと彼の人徳だろう。

光圀は「自分で心の痛みを知り、他人の心の痛みを理解」した。弱い人間へ優しく、思いやる気持ちをもった黄門さまだったのだろう。


さて、本日は木曜日ですかね。本日も明日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。

本日も明日も皆様に少しの幸せが訪れることをお祈り致しております。

ぺぺ爺。
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幸せが飛んで来るカモ…メ?
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幸せがよせて来る…?
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一陽来復…悪い日ばかりは続かない。きっと明日は素晴らしい一日だ。
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どんな時も波を乗り越えて進もう。