おはようございます。デブで白髪、頭の天辺は地肌が丸出し、馬鹿丸出しのぺぺ爺でございます。
今朝は午前3時半頃から雷鳴と共に激しい雨が降り大雨洪水警報が出ている我が熊本です。
昨日は朝のうちは曇り空でしたが仕事場へ初出勤して仕事のレクチャーを受けているうちに15時頃からは青空も見えた。
(天気予報では午後から雷雨の予想でしたので、私自慢のグラスファイバー製で80㎝の傘を持参したのですが結局は使用しませんでした)
帰宅時は自宅にて夕食を作る余力がなかったので上熊本駅前の食堂(まるきん食堂…久方ぶりでした)にて夕食を取りました。
(本当はお酒は駄目なのですが誘惑に負け、ビールを一本飲んでしまいました…お酒と若い女性には弱いぺぺ爺です。豆腐の心の持ち主ですね。)
さて、本日は徳川家康が江戸城を建てた頃の豪商ののし上りをご紹介いたしましょう。
1590年8月、徳川家康が江戸城へ入ると同時に、大急ぎで家康が欲したのは兵糧と武器である。そこで諸大名に提供させた人夫を使い、神田山を崩して前面の海を埋め立てて日本橋を中心に商店街を造って商人を集めた。
(家康は江戸城天守閣より鯨を見た記録がある)
しかし、江戸へ下る者が少なかったので、埋め立て地を無償で分譲した。さすがに、この政策は人も集まり、家康ゆかりの三河・駿河、それに近江・伊勢の商売上手な商人が続々とやってきた。江戸商人の始まりである。
したがって、商人には江戸色はなく、商売の基盤作りに必死だった。江戸商人と言われるようになったのは、文字どおり江戸が八百八町として栄えた1673〜1681年のことである。
その後、江戸の商人は200年ほどの間に紀伊国屋文左衛門がミカン輸送で巨万の富を築き、吉原の遊女を買い切って大門を三度も閉めさせたという豪快さだった。
(大門⇨おおもん…遊郭の正面入り口の門。江戸新吉原遊郭は有名…遊郭は本来、街道の出口近くの宿場にあったものだが吉原は別。)
紀伊国屋文左衛門のライバルといえば、木材商の奈良屋茂左衛門である。
(深川黒船町に御殿を建て酒宴をした)
その後、1764〜1780年頃には地方から出てきた商人(三河屋・駿河屋等)などが出身地を屋号とする大店(おおだな)に発展して莫大な資産を築いたのである。
幕末には武士は身分(社会的地位)を失ったが、商人達は金権をバックに世を動かした。
(江戸時代に殿様が商人に渡した借金証文が数多く残っている)
さて、本日は早起きして何とかブログを記述することが出来ましたね。
本日は水曜日。本日も朝から仕事のぺぺ爺ですが、皆様には「明るく」「元気に」「笑顔で」お過ごしくださいね。
本日も皆様に少しの幸せが訪れる事をお祈りいたしております。
今から仕事へ出発です。雷が落ちて死ねれば良いのですが…?
ぺぺ爺。
昨夜の夕食のメイン。ちゃんぽん。半分食べた後に写真を…!