おはようございます。本日だけは卑屈な言葉から始めるのはやめましょう。
昨日の我が熊本は朝から薄曇りの空。私は朝から雨が降る前にと近所をぶらりお散歩。そして、久方ぶりにロッテリアにて朝食(喫煙室があるのでね)をとりました。
ニュースでは、シリアで化学兵器が使用疑惑(猛毒のサリンか?…子どもを含む72人が亡くなった)で国連安保理が昨夜の23時から議論。(シリア政府は反政府勢力が所持していたものが空爆で悲惨した…と無論、ロシアも否定しただろう)
そして、北朝鮮がまた飛しょう体を発射した。 中国の習近平主席と米国のトランプ大統領が会談が始まる前に何の意図があって発射したのだろう。
トランプ大統領は怒り、北朝鮮を保護してきた(北朝鮮)中国の習近平主席の立場は弱くることだろう。核実験も近くするとされている。
(米国の貿易最大の赤字国である中国、為替や南沙諸島の問題もある。中国では北朝鮮より石炭輸入を今年一杯中止しているらしいが、他の制裁を徹底するようトランプ大統領は要求することだろう)
我が日本と韓国では国家安全保障閣僚会合(ISC)が開催された。安倍首相は「国民と財産を守る」とのこと。米国下院が北朝鮮をテロ支援国家に指定決議し、ミサイル防衛を担う米戦略軍ハイテン司令官が議会で「北朝鮮は何をするかわからないし、発射のたびどうなるかわからず予測不可能」と発言して数時間後に弾道ミサイルを発射し雲行きが怪しい。
隣国の挑戦半島で何が起きてもおかしくないし、隣国の我が日本にも何か余波が無いかと心配している。
政府もJアラートの使用示唆にも言及するなど米国がもしかすると先制攻撃をするやもしれない。
(Jアラートとは人工衛星と市町村の防災無線を利用して緊急情報を伝える。全国瞬時警報システムの通称だ。弾道ミサイルの発射や地震や津波等に直ぐに国から住民に直接速やかに情報を知らせるシステムだ。アラーム音は一度聴いてみた方がよいと思います)
さて、本日は不気味なお話から始めたので本日は「恋」「愛」「好き」についてお話いたしましょう。
【恋と愛がわかる辞典では…!】
「恋」は自分本位で、「愛」は相手本位。「恋」は一時的で、「愛」は永遠とある。
「恋」はときめきで、「愛」は信頼。
「恋」は心配で、「愛」は安心。
「恋愛」とは言っても、「愛恋」とは言わないように、恋は先にあり愛情(愛)へと変わる。
(ぺぺ爺談。「亦」訓読みでは、「また」音読みでは「エキ」だ、訓読みの「また」に下に「心」があるので、数々の恋をする可能性があることになる)
恋と愛の違いを挙げたら数え切れないほどある。文学や哲学・芸術などのテーマにもされるものだが、どれも人それぞれの考えであって明確な定義ではない。
恋愛に長けていない人(私もそうです)が「恋と愛の違いは」などと語り、どちらにも当てはまるのか? 「恋と愛」の違いはとして挙げられるが、多くの意見に共通するのは、「恋」よりも「愛」の方が深い情を表すということだろう。
(爺、異性に対して「恋」は片側通行も有り得るが「愛」は相思相愛が原則だろう)
このような違いが生じた理由は、言葉の歴史から見えてくる。
「愛」は中国から仏教用語として入った言葉で、元々は「強い欲望」を意味するが、日本では「おもひ(思い)」に相当する言葉としても用いられた。
明治時代には、英語の「love(ラブ)」やフランス語の「amour(アムール)」の概念に当てはめられ、現代ではこの意味が強くなった。
また、キリスト教でいう愛は、神が自らを犠牲にして人類を慈しみ、幸福を与えることである。
「愛」は家族愛や人類愛、動物や自然に対する愛など、愛という言葉は対象が広く、恋よりも大きく包み込んだり、深いものという印象を持たれるようになった。
恋は古くからある和語で、愛が日本に入る以前は、恋が「おもひ」に当たる言葉であった。
ただし、恋が意味した「おもひ」は、植物や季節などに寄せる思いも表したが、主に、男女間の情の交わりをいうものであった。
昔から現代まで、「恋」は、異性に強く惹かれることで男女間の情のみを表すことが多く、慈しみや与えるものといった意味で使わないため、男女間の恋愛においても、「恋」は「愛」比較しても深くないものという印象だ。
【好きとは…】
男性は女性に比べれば喜怒哀楽の感情表現が下手で一見わかりづらい。 その分演技が下手なので言葉で嘘をついてもすぐしぐさでバレるし、カモフラージュするのが苦手です。
逆に言えば、男性の無意識のしぐさや態度、振る舞い、スキンシップなどの行動に本音や本心のサインが 必ず表れる法則がある。
男性は表情の変化が乏しく一見何を考えているかわからないかもしれませんが、 しっかり細かい行動を観察すれば心理の奥底が見えてくるらしい。
人間の本能から来る欲求は必ず体のどこかに動きとして表れるそうだ。
「目」「手」「足」「腰」の向きや角度、 最近の男性は言葉を発せず、コミュニケーション等から心理を読むことが女性に必要なスキルです。
女性は本心を隠し嘘をつくのが上手いと言われており、笑顔で嫌いな人と接したり、真顔で 嘘をついたりと八方美人で社交的なタイプだと心理が見極めづらいとのこと。
視線も嘘をつく時でも通常時でも相手の目を真っ直ぐ見られるそうです。
(女性には少し失礼かも知れませんね)
逆に男心は単純で簡単、恋愛心理学の法則から態度や行動に脈なしか脈ありかがサインとなって表れるので 嘘をついたらすぐにバレる。
好意を持っている気になる人がいるなら、ちょっと意識して 体の動きを見れば、その人の性格や今の気持ちまである程度予測し理解できるでしょう。
単純に視線と言っても状況によって様々な種類がありますが、 男性が女性に視線を注ぐ時は大抵は好意を持っている時といっても良いでしょう。
男性は女性よりも惚れっぽい生物です。顔や容姿が可愛いかったり綺麗な人、 体型やスタイルが抜群な美人などが横切ったら、彼女とデート中でも目で追ってしまいます。
私が使用してきた「好き」は幼稚園から始まる小中高大…と同じような意味で使用したような気がいたします。
社会人となり女性に「好き」だから付き合ってとお願いしたら、「いいよ」の返事だった。彼女も段々と醜い私を好きになってくれ、「恋愛」が始まり「愛情」と変わっていった。
最初は「好き」から始まり「恋愛」して「愛情」に変わり「失恋」ではなく「失愛」してからは、「愛情」への感覚が無くなったような気がいたします。
私はオマセだったので中学生時代に好きな相手に告白をして彼女になってもらって以来、キチンと告白をしてきた。
しかし、社会人になり愛情が芽生えるも相手の親に反対され愛情が結ばれることはなかった。(結婚のことだ)
それ以降、私は女性に対して恐怖心があり私からの告白はしなくなった。失愛以降も好きな女性は出来たのだが、勇気が出ず(臆病)に告白まで至らなくなった。
「失恋(失愛)」した相手は未だに当時の姿で夢みる。先日は「失愛」後に好きになった女性まで夢みるようにまでになり、落ちぶれてしまった。後悔なのだろうか…?
「好き」「恋」「愛」とはつくづく爺さんになっても難しいものだと思う。
私が「好き」になってもお付き合いする女性は一生いないだろう。ひとりぼっちで生活するのは寂しいがこれが私の運命だとおもいます。
☆ぺぺ爺談。
私は恋して「好き」なり、告白してお付き合いするようになり、デートの約束に待ち合わせ時間に遅刻して来た交際相手に苦情を言うのは「愛」ではないと思っている。
デートの約束時間に交際相手が遅刻すると心配(何か事故にでもあっていないか等)になる。私は気が長いのか最長で9時間待ったことがある。それが「恋」ではなく「愛」だと確信している。
今の時代は携帯電話で直ぐに連絡(LINE等)で取れるが…昔は無かったからかも知れない。
本日は木曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごしていきましょう。
本日も皆様には少しの幸せと心に春風が吹くことをお祈りいたしております。
ぺぺ爺。