『主のみこころ必ずは成る』という事。
いずれこうなると分かっていた。

霊的には気付いていた。
整わないままスタートした毎週リハ…心に平安がなかった。
『主のみこころじゃない』と霊的な胸騒ぎでは気付いてはいるけど、目に見える形では『みこころじゃない事の理由』が現れてないので、何ともいえない。
霊的な事(感じる事)って時として言葉で説明できなかったり、人間的には『愛がない』と思われるような事だったりする。
一時的な事象だけみたら、悪いような事だったりする。

イエス様は、
“わたしがこの世に来られたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである。(ヨハネ9:39)”
と言っている。

救われる事もそうだが、救われた後についての信仰生活においても言える。
今までのこの世の価値観から御国の価値観へと転換するために、私たちを変えるために神様は私たちを懲らしめ、試練を与える。
見えなかった罪が見え、悔い改める事によって新たにされるのだ。
もちろん、それは『愛ゆえ』に。
神様がその人にそういう状況を与え、神様のみこころが現実化すれば共に祈り、励ます事ができる。
でも、現実化する前にその人に対しての神様のみこころがこうなんだと預言的に何となく気付いていても、私は神様じゃないし、預言者じゃないし、どうする事もできない。

神様のみこころ=人間の思いとなる事が全てではなくて…神様のみこころと人間の思いとが大きく離れている事も多い。

『神様はこの人にこうなってほしい、そのためにこういう試練を与えようとしておられる』というみこころに気付いていて…その深い主の思いに気付かないと、人間的には『悪い状況』であってそれを伝えたら『愛のない行為』だと思ってしまう。

でも、私は嘘がつけなくて…主のみこころに反する事がどうにも許せなく、辛くて…相手に伝わってしまう。
主のみこころに従うのは時としてこの世から孤立してしまう。
でも、主は決して孤児にはしないと言って下さるが。

教会にはいろんな人が来る。その人たちに対していかにして傷つけないように愛をもって主のみこころを伝えるかが、訓練だなと感じている。
その人に対する、その状況に対する『主のみこころ』感じる、示される事が私に与えられているならば、その人に試練が与えられた時に主のみこころを伝え、その根底にある主の愛に気付いてもらえるように導き、その試練の先にある祝福を一緒に望みつつ、共に居て共に祈る事ができるのではないか…。
それをしているのが牧師であり、伝道師であるのだと思う。
自分は本当足りない事だらけだ。
もっと訓練され、もっと練られなければならない。

本当にそう思い、それを心から主に願った…今日です。
聖会メッセージです。

(伊藤博 師@泉福音キリスト教会牧師)

《Ⅰコリント9:19-22》

今日の3つの聖会の内容。
①イエス様の宣教の姿。
②初代教会、パウロとシラスの迫害と祈りの姿勢。

③パウロの宣教の姿勢。
(何とかして幾人かでも救うため~魂をキリストの救いに導くには~)

霊的なこどもを持っているか?
失われた魂のためにどれだけ涙を流し、どれだけ重荷をもっているか?
何かを学び、どんなプログラムをするかではなく、私たちが変えられる事が必要。

イエス様がこの世に来られたのは失われた者を救うため。

パウロの思い、パウロの人生の目標…『何とかして、幾人かでも救うため』。

私たちの奉仕活動の目標…何のためにやっているのか?人が救われる事にフォーカスを当てる。

9:23“福音のために、わたしはどんな事でもする。”

優先順位を決める。

L.19“わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。”

宣教者は身を低くし、仕える者でなければならない。
これは十字架で死なれたイエス様の姿。
(ピリピ2:6-8)

パウロはイエス様の宣教の姿に生きた。
人々に仕え、身を低くするしもべの姿でなければならない。

様々な人が教会に来る。

Ⅰコリント11:1
“わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。”

パウロはイエス様の心を持ち、宣教のために働いた。
私たちクリスチャンもイエス様の心を持ち、変えられるように。

宣教者は仕える者であると共に、燃え上がる情熱が必要。

パウロの宣教への情熱。
ローマ9:3
“わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。”

サッカーのサポーターくらいの情熱が私たちにあるだろうか?
『魂のサポーター』となる。
宣教の情熱が移ってくるくらいに…。

失われた魂への情熱を求める。
聖霊による熱情はいつまでも失われる事はない。


☆宣教者は祈りの人でなけるばならない。

初代教会は祈りの教会であった、パウロは祈りの人であった。

ローマ12:11-12
熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。


エペソ6:(10)19-20
絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。


宣教と救いは神様の領域。神様が働かれる時、救いが起こる。

祈りを何とかして幾人かでも救いたいという思いにフォーカスする。

Ⅰコリント12:3
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

ゼカリヤ4:6
万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
世の中的には祝日で、GWが今日から始まりという人もいる中…わたくしはいつも以上に病棟を走り回り、疲れきっておりました。

しかーし、仕事が終わり、急いでお家へ。
懸命に仕事モードからOFFモードに切り替え、出発。
教団の聖会に向かいました。
途中、人身事故が二軒と道に迷うという妨げにあいながらも…何とか到着しました。

仕事上がりの駆け付けで渇いてたせいか、なんか、すごく満たされた。聖霊が満ち満ちた空間では、導かれるいつまでも祈れるね。導かれるままに、祈りまくった。気がつくと声が枯れてるw
主との交わりはこの世の何ものにも優る喜びだ。
この喜びはどんな言葉でも表現できない喜びだ。

救われてよかった。
イエス様に出会ってよかった。
生きていてよかった。
心からそう思う。

このような聖霊が満ち満ちた空間はゴスペルでもあるけど、『聖会』ってやっぱ違う。

来ている人たちがみな、主に求め、主に期待している。
その思いに主は応え、祝福を与えておられる。
天が開く感じが違っていた。
人の頑張りではない。
誰かの賜物が優れているではない。

人々の思いが主に向かい、その思いが一致する時にそこに主の栄光が現される。

これだよ、この感覚だよ。私はこのような集会がしたい。
私はこのような人々ミニストリーに携わりたい。

今日はなんか大切な思いが与えられた。

祈ろう。
備えよう。
主を待ち望もう。