「若者」って今どこにいるの?(日本の食と農をめぐる考察。) | 本橋ユウコの部屋

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(※写真はあんま関係ないかもです。すいません)
朝(といってももうすぐ昼。笑)起きたら、懐かしいテーマ曲とともにNHK「新日本紀行ふたたび選~阿蘇・野焼きの頃」をやっていたので、ほんの軽い気持ちで見始めたら思わず最後までみっちり見てしまった☆

春になると、阿蘇の広大なすすき野原を、放牧の牛が食べる下草が良く生えるように、秋から冬にかけて茂りまくったすすきをいっせいに焼き払うんですよ。

野焼きは、人手を火付けと火消しの組に分けて、火を燃え上がらせると同時に、炎が予定の範囲から出ないようにその縁をほうき?でバシバシはたいてすぐさま消していくという作業をみんなで一緒にやる。
ごうごうと燃え上がる炎の帯の映像は見ているだけでも圧倒されるんですが、その大規模な事業を遂行する為にこれまた大掛かりな人数が必要なわけで。

かつては、野焼きはだだっ広い放牧地を取り囲む阿蘇六町六村の農民が総出で、綿密な合同計画のもとに一気に行うものだったのですが、高度成長期をはさんで農村人口は減少の一途をたどり、ついにある放牧地で村人だけでは野焼きが出来なくなったことから、今では県内全域から集まった有志のボランティアの手を借りて伝統の野焼きが続けられています。

始めこそ、「土地の者でない人間にはたして出来るのか…?」みたいな懸念もあってボランティアの受け入れには消極的だったようですが、それでも応募してきたボランティアの人達が本当に熱心なことと、阿蘇の自然を愛して、伝統の野焼きを絶やしてはいけないという気持ちを自分らに負けないくらい強く持っていることが伝わってからは、徐々にボランティアを頼む地元放牧組合が増えているそうですね。

こういうの、もちろん火を扱う危険を伴う作業ですから何でも良いとは言えないでしょうが、でも、貴重な活動だと思います。
介護とか家庭レベルのことでもそうなんだけど、身内だけで抱え込むことには限界があるから。
うまい具合に外からの活力を入れることは必要だし、結果的に良くなることが多いと思うんですよ。

ただ、ちょっとだけ私が気になって心にひっかかった光景がありました。

ある地形的に難しい放牧地を野焼きしていた時のこと。十分注意はしていたのですが、風が強くなって運悪く近くの林に飛び火してしまったのですね。
すわ山火事の危機!というのでみんな大急ぎで給水タンクを引っ張ったトラクターを呼んできて、監督責任者の熟練ボランティアの男性が先頭切って急な斜面(ほとんど崖と言っても良いような…)を駆け上がってホースを林の中の火元まで持って行った。一瞬サルかと思うほどの敏捷さで!(すいません。笑)

連絡を受けた地元の消防団も駆けつけて現場は一時騒然となりかけたのですが、でもその現場監督さんの迅速な処置の甲斐あって火は無事に消し止められました。

うっすらとまだ煙の残る崖の上の林から、監督のおじさんが明らかにホッとした様子でよろよろと降りて来る様子をカメラは映し出しました。
最初にホースを引いて火元に駆けつけた時の俊敏な動作からはまるで気づけなかったのですが、その人はよく考えたら、50は軽く超えているはずの、つまり立派な「中高年の男性」でした。
あんなに猛烈な崖ダッシュをしてしまったら、明日の朝は筋肉痛で起き上がれないでしょう。(年いったら二日後に来るって噂もあるが)既にもう、足元がふらついて転げ落ちるんじゃないかとみんながヒヤヒヤして見てた感じなので。

その時私は、自分でも予想しなかったくらい強く、思っていたのです。
…ああ。ここに、かつての同じ番組のアーカイブ映像に出ていた「村の若い衆」のような、身軽で頑丈そうな、ちょうど「30代くらい」の働き盛りの壮健な若者がいてくれたら。
こんな急な斜面を駆け上がるのは、本当は中高年のやる仕事じゃないんだ…。
そう思うと、のどかな番組の映像が急に物寂しいものに見えて、何だかやるせなくなったのでした。


この何日か前に、同じくNHKで非常に気になる報道を見かけました。

それは今度は海辺の漁村の話で、例えばアワビやなんかの高級食材になる海産物は、日本では各地域の取り決めで漁の期間を限定したりして、そうやって限りある資源を取り尽くしてしまわないように大切に守りつつ漁が行われていたのですね。

その豊富な漁場が、今、横行する密漁団の格好の標的になっているという。
村人たちが大事に稚貝から育ててきたアワビとかを、後先のことなどお構いなしの密漁団はそれこそ後に何も残らないくらいの勢いで、壮絶に、根こそぎに奪い去ってしまう。
「これじゃもうやっていけないよ」と言った地元の年配の漁師さんの悲しげな表情が胸に刺さりました。

密漁団はじつは暴力団がバックについていて、相当大規模なルートを駆使して密漁した海産物を、富裕層が増えて安全な日本産の高級食材の消費が伸びているお隣中国の市場に流していたのです。
暴力団から流れ込む豊富な資金で高性能エンジンなどで文字通り「武装」した密漁団の船を取り締まろうにも、低予算にあえぐ地元自治体では対策に回す資金は削られる一方で、事実上野放し状態です。
住民達は自ら資金を出し合って警備船を導入し、自衛を図っていますが、それでも相手は暴力団がらみの密漁団ですから、警察権力でもない一般の人がうかつに近づく事もできません。(現に何者かによるいやがらせとかも横行してます)

聞いているだけで腹立たしい話ですが。
この前、その大規模な密漁団の一端が珍しく摘発されたということで番組で解説していましたが、それを聞いて私は余計に、救いの無い、暗澹たる気分に叩き落されました。

無法きわまる悪質な密漁団の手先となって働いていた人間たち、それは地元漁村のすぐそばの、別の地域(でも恐らくは同じように漁村であるはずの…)出身の「仕事がない若者たち」だったのです…。

これを「絶望」と呼ばずして何と呼べばいいのか?

本来であれば地域の次代を担うはずの若者たちが、その地域を崩壊の縁に追い詰めている。
彼ら自身に恐らくその自覚は乏しく、いやむしろ高値で売れる海産物を漁業制限によって「囲い込む」自分たちより年上の人々が、彼らには唾棄すべき「既得権益集団」とでも映っているのかも知れない…。
若者たちは若者たちで、自分たちを極度の貧困に留めているものの存在を感じ取ってもいて、そこから「奪う」行為には何らの罪悪感も感じないような精神構造を作り上げているのだろう。
アルバイト感覚で「振り込め詐欺」などの詐欺犯罪に手を染める心理と全く同じように。

こんな悲しい光景が、今この日本中のいたるところに溢れているのだ。



「金が無い」
そのみじめさは痛いほどよくわかる。

しかし、いつからこの国では、生きること自体にそんなに金がかかるようになってしまったのか?
例えば田舎に住んでいると、びっくりするくらい金を使わなかったりする。
採れすぎた野菜をあげっこしたり。肉もチーズもパスタも食わなくてもあまり気にならない。
情報も、今はネットがあるから都会に住んでいるのと大差なく手に入るし。
東京のような都会に住んでいると、息をする(つまり居住することそのものが)だけでも十万からの金が必要だというのに。


かといって私は農業を実際にやっている人でもないし、偉そうな事なんかは一切言えない。
ただ、「自分が本質的に生存を支える何をも生み出してはいない人間だ」という、ある種の後ろめたさは持ち続けなければいけないように思う。
それは、昔ながらの、食卓に並ぶ食べ物に感謝するってことと同じく。


どこかで、これらの食べ物を苦しみながら、日々絶望と格闘しながら、「誰か」達が作ってくれているのだということを思い出し続けること。

それが、「農」や、「食」をめぐるこの国の置かれた現実の姿なのだから。