埼玉の実家に来ています。
これは、うちの母が何の手入れもせずに(笑)バケツで毎年育てている、蓮の花。
(遠景にちょろっと写ってるのは猫のココちゃん。。)
綺麗ですねぇ……と、言ってみてから何て月並みな感想。。まこと凡夫じゃのう…(泣)。
これが咲くと、平々凡々たる我が家の庭が一時、高貴なたたずまいに感じられたりもします。一瞬ね♪
蓮の花でいつも思うのは、何であんなにも真っ黒い、濁り切った泥水の中から、これほどまでに可憐な花が咲き出るのか?という素朴な疑問でして。
普通、黒いもの吸って育ったら、当然、上も黒くなりそうなもんじゃないですか??
でも、こんな澄んだ桃色…じゃないレンゲ色?…とにかく、ほんのりと優しいこの淡紅色。
やはりこれは、この花がただの地上の自然物としての花ではなく、天界の御仏の愛でる華である、という所に由来しているんでしょうかね。。などと感傷入ってみる…。
疑り深い考え方をすると、神も仏もじつは人がつくったものじゃないか、という意見もある。
けれども、その考え方ではこの蓮の花が真っ黒な濁りの中にあって、なお清らかに明るく咲くことの説明が、全くつかない。化学式をひろげて説明されたところで人間は、心底は納得がいかない。
だから、神や仏のことを考える。
このように美しいものが地上にも在ることを許されるのならば、これほどまで罪深く、汚らわしい自らの生あることの理由も、少しは説明がつくのではないか?
絶望のまっ只中にあって、わずかに未来を夢見ることの矛盾も頷けるじゃないか…と。
人間は、目に映る全てのことに自分を重ねてしまえる傲岸不遜な生物だから。
神も仏も自分と同じ姿であると勝手に想定して、その似姿であるという理由の後付けから、自分達にだけはありとあらゆることが許されているという我儘なルールを作り上げた。
その結果、自ら深い深い底無しの不安に陥ることになり。
だから、非の打ちどころなく美しいものを前に恥じ入るしかないのでしょう、我々は。
この漆黒の水面に咲く一輪の蓮の華のように。
その無垢で完璧な天上の美と、俗世のこの穢れた身との隔たりの、無情なまでの遠さを想うから…。