「事に仕える」と書いて仕事と読むのです | 本橋ユウコの部屋

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この言葉を、もぐは誰から教えられたのか覚えていないのですが。
自叙伝とかインタビュー記事とか、もぐがこの人すごいなぁ、と感じて興味を抱いた職業人の多くがこれと似た言葉を話しておられた気がします…。

「事に仕える」。

自分の仕事に尊敬と誠実さを持って、全力を尽くす。そんな意味でしょうか。
今の若い人には、ちょっと時代チックな匂いがして敬遠されそうな言い回しではありますが…。
でも、もぐは嫌いじゃないです、この言葉(若くないから?笑)。

最近、お役所だの企業だのの最低な不祥事が頻発しすぎて、まるで群発地震多発地帯に住んでいてあまりにも慣れてしまったために回数を数えることすらしなくなった火山島の住人の気分です(苦笑)。
ホント、多すぎ。。
これらは果たして今、急に起こり始めてきたことなのか、いやいや、ずっと表に出なかったことが明るみに出てしまっただけのことだ、といろいろ見方はあるかと思いますがね。

どっちであろうが、最低なことに変わりはないです。
もちろん人が働いてお金をもらって生きて行く上では、綺麗な理想ばかりでは済まなくて、薄汚いことや反吐が出そうなこと、誰かをぶっ殺したくなること、自分が死にたくなること、色々あるのはもぐだってさすがにもうコドモじゃないから知っています。

今はまだそんなには無いと思うけど、私だって置かれた状況によってはそういう綺麗とは言えないことをする可能性は大いにあります。何かを守るためにそれが不可避であるならば。
でも、それが本当に守る価値のあるものなら、という限定つきです。私の場合は、ですが。


大きな企業不祥事が起こるたびに、私がいくらか悲しい気持ちで思い出すのは数年前まで期間アルバイトとして働いていたある食品製造メーカーの工場での体験です。
別に悪い意味ではなくて、ここでもぐは非常に多くのことを教わりました。

そこはかなり全国区で名を知られた、有名な食品メーカーの首都圏の製造拠点の一つだったと思うのですが、繁忙期には大勢の学生アルバイトとかを雇うので結構知り合いが働いてたりもしました。
もぐも近所のお姉さんから教わって応募したのです。時給980円だったかな?は田舎では高額でした。

その工場はもう何十年も前からそこで操業しているそうで、準社員的な仕事をしている古株のパートさんが何人もいて、そういう人は大抵、近くの農家のおばさんの兼業だったりしました。
(会社自体の創業は江戸時代で、多くの人がその事を誇りに思っていたようです)
もぐは、そこで一年にちょっと足りないくらいの間、ライン作業をしてました。

工場には、一番上に工場長(本社から来た社員)がいて、その下に次長(既に定年したんだけど嘱託)がいて、あとは部長とか係長とか主任とか班長?すいません、バイトだったんで良くわからないや(笑)。
とにかく、製造工場なので事務とわずかな現場社員を除けばほとんどがもぐのような期間工アルバイトか、何年も勤めているパートさん、という人員構成でした。

地域的には高額、なだけに、配属されたラインの作業は、慣れるまでは想像以上にキツイものでした。
実際、同じ時期に入った人達の中には一週間持たずに辞めていく人が何人もいました。
そりゃラインといっても食品ですから、自動車なんかに比べれば軽作業です。でもそのラインの速度が、初めて経験する若者にとっては物凄く速く感じるわけですよ。文字通り目が回るくらいに。
そして、お昼と、午前と午後一回ずつのトイレ休憩以外、全く休みというものが無い!!
腹痛くて倒れそうになっても人員はギリギリで代わりはいないし(もぐは両手腱鞘炎になりました)。

まず作業台となるラインがセットされ、一番川上と川下、あと重要な二、三箇所には必ず古手の熟練したパートのおばさんが配されます。その間に挟まるように経験の浅い学生アルバイトとかが不安げに立つ。
これは、若いのがラインの作業スピードについていけなくて箱が詰まって来た時に両サイドのパートさんが助けられるように(無論、自分の仕事はしながら)との配慮からです。

一番川上で製品が詰められる箱を流す人が、全体を見回しながらラインの速度を調節する。
中ほどで製品を詰める人は(両手に六個とか十個持って、一度で完璧に決める!)常に自分の前後または向かいの人までを観察し、必要であれば手助けしてラインの遅滞を防ぐ。
後ろの方、敷き紙を合わせてシールを貼ったり、箱にビニールテープを巻く機械を操作する人達はまるで魔法のように、紙の上から、閉まった箱の上から手で触っただけで「これ、一個足りないよ」とか瞬時に判断し、品数のチェックも兼ねていたりする。
一番川下で箱詰めされた製品を配送用のダンボールに収めて結束する人は、それより上流で遅滞が起こった場合に速やかにあふれた箱をよける手伝いに行ったりもする(ここは重いので割と重労働です)。

そして、これらライン内の作業からは独立して、というか、一見何もせずにまわりをうろうろしている人というのがいます。でも実はこの人こそ、そのラインで最も重要な仕事をしていて、それだけに上と下の双方から信頼の厚い、”デキる”パートさん(または準社員…でもおばさん)が付いていました。
この人は役職上そのラインを監督している社員の係長(男)とかより余程重要視されているのでした。
彼女らが、最終的な製品の仕上がり数や、その日のラインの人員配置、作業量なんかを長年の経験や作業する人間への観察力、などに基づいて決めていたからです。

工場で働いてつくづく思ったことは、役職の上で偉いのは男の社員だけど、実はそういう給料も高い人達よりよっぽど働いて、会社のために尽くしているのはパートさん達とかだよなあ、てことで。

長期バイトに三ヶ月ほど耐えられた頃くらいから、おばさんたちは私を仲間と認めてくれたのか、色々なことを話してくれるようになりました。
中でも興味深かったのが工場の”伝説的人物”の話です。

例えば、定年しても嘱託として働いてる次長さん。年齢は七十は軽く超えていそうな…。
真っ黒に日焼けした顔に、赤い一本線が入った真っ白な作業帽が印象的なタフガイお爺さん?でした。
この人は工場の生き字引であり、実質的な工場のヌシと言っても過言ではないような人らしくて。
工場長ですら何かあったときは真っ先にこの人に相談するのだそうです。
この次長さん。会社の近くに住んでいて、ある年のお正月休み、無人の工場で原因不明の火事が起こった時に、真っ先に駆けつけて消火にあたったのがこの人だったとか。
その話を、古株のパートさんたちはまるで郷土の英雄のように尊敬を込めて話していました。

それから「○○さーん」といつも工場のどっかから呼ばれて駆け回っていた、物凄く背の小さいパートのおばあちゃん。頭がもぐの肋骨くらいまでしかなくて、「あんた可愛いね~ウチの子になってよ!」とかふざけてもぐを抱っこした時、回した腕と頭がもぐのお腹より下にあったのを覚えています。
…この人のことは忘れられません。
年末の、一番忙しい時に突然、脳梗塞で倒れて集中治療室に入ってしまって、それきりもぐがアルバイトを辞める日まで一度も会えなかったからです。

その人は「は~忙しい忙しい」が口癖で、年末向けに大量に採用した全然使えないアルバイトの若者達を指導監督するために、ほとんど休み無しでシフトに入っていました。
やっぱり農家の奥さんでしたが、旦那さんは随分前に亡くなっていて、子供がいなかったので養子を貰ったけど都会に出て行って戻ってこなくなってしまったとか…、もぐにもよくおしゃべりしていました。
みんなが「あの人、働きすぎだよ」と心配しつつ、でも、どうしようもありませんでした。

たぶん、あのおばあちゃんは仕事が辛くても、長年勤めた工場が本当に好き、だったのだろうから。

他にも、年齢が行ってても働き続けていたパートさん達に共通してもぐが感じた印象があります。
それは彼らが、まるで会社を「自然現象」のように感じているらしい、と言うこと。

山や、川や、畑に降る雨、のように、会社の毎年の予定について話す。
勤務が終わって退社する時には、畑仕事の後みたいにみんなで茶飲み話をしに”寄りこんだり”して。
「お金なんか小遣いにもなりゃしない」と愚痴を言いながら、楽しそうにおしゃべりしながら働く。

長年の仕事の中で、おめでたいことや不幸なことが起こり、それを皆が心の中で共有している。

これは何だろう、と考えました。
それで、前述の感想に行き着いたわけです。
この人たちにとって会社が、工場が、自然と同じような重さで、人生の一部なのだと。

もぐは、ただ通りすがった旅人のようでした。
それでもひどく感動したりもしました。
…ちょっと、もぐの見方が感傷的に過ぎるのかもしれないですが。

働くことは、こういうことなのだなぁ、と思ったのです。
ミレーが絵の中で描いた敬虔な田園の農夫たち、…程に美しくは無いけれど。
でも、誠実な人生だなと思えた。


だから、もぐは企業不祥事で顔を出す社長なんかが四の五の自己弁護するのを見るのが嫌いです。
たとえその人なりに守らなければならない物があったとしても。
消費者のみならず、現場で汗まみれになって働くああいう人たちをも裏切っていると思うからです。

山や川や畑のように、毎日まじめに会社や工場にやってきて、陰日向無く仕事をする。
そういう人たちの誠実な生き方を、嘲笑っているようにしか思えないから。

だから、最低だと言うのです。