大人にとって勉強とは | 本橋ユウコの部屋

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べつにヤラシイ内容じゃないですよ?残念ですが(笑)。

ある自治体が主催する講習会に出る機会があって、そのときのことです。

三十人も入ったら一杯になるくらいの会議室に、あとはホワイトボードと説明用のビデオ機材があるだけで、参加者は入り口で資料を受け取って、座り心地の悪いパイプ椅子に座って話を聞いていました。

一番後ろの、私の右斜め後ろの席に二歳と一歳半?くらいの幼い子供を連れたお母さんが来ていました。

若いという程でもないその母親は、子供のことが気になったのか職員に確認を取ったりしていました。
別に子連れ不可とも書かれていなかったので、ごく普通に入れてもらっていたようです。

説明が始まって間もなく、二人の子供が騒ぎ出しました。
それはそうです。まだ聞き分けも出来ないような小さい子供に、おもちゃ一つない無機質な空間で二時間以上もじっとおとなしく我慢していろなんていうのは。…案の定、それは無理なことでした。

大きい子は動物めいた奇声をあげて笑いながら、会議室を前へ後ろへと歩き回る。
小さい子は、これまた意味の分からないことを叫びながらハイハイで椅子の下に潜ろうとする。
そのたびにお母さんは服の襟首をひっ捕らえて席へ引き戻すのですが、そうしているうちにまたもう片方がうろちょろ出て行ってしまうという状態で。収拾がつきません。

始め「子供はしょうがないなぁ」的な寛容なムードが室内にはあって、ボードのところまで這って行ってしまったおちびさんを職員があわてて抱っこして戻る、というほのぼのマンガのような光景に笑いさえ起こっていたのです。

しかし、その牧歌的な世界は長くは続きませんでした。

というのもその講習会は、少なからぬ額の”お金”が関係したものだったからです。

説明が進んで金額の細かい数字や、銀行、法律に関わる難しい用語なども出てくるようになると、俄然、聞いている大人たちの顔つきが真剣な、厳しいものに変わってきました。
それと同時に、相変わらず騒いでいる幼児たちに対する視線が、当初の寛容から、明らかに敵意すらこもった非難がましいものへと変質したのです。

お母さんはそれに気づかず、いえ、気づいていて知らぬ振りをするしかなかったのかもしれない…だって彼女にもそれはどうしても必要な情報であっただろうから…とにかく、頑張って動き回る子供を引き戻しながら、その場に居続けました。居座ろうと努力したのでした。

しかし、説明用のビデオの音声が二人の子供の嬌声にかき消され、職員が必死の形相でいくら音量を上げてもほとんど意味が聞き取れない状態になって、とうとう限界が来てしまいました。

職員が母親の席に近づき、小声で、しかしはっきりと子供を連れて退去するように要請したのです。

自治体のイベント等でこういう光景はあまり見かけないのでちょっと驚きました。
役所の人というのは、腹のうちはどうあれ押しなべて低姿勢であって、サービスを受ける権利のある市民を職員が帰らせることなどはほぼありえないのだと、ぼんやりと思っていましたから。
(勿論、あとで個別に対応したとは思いますが…)

が、この時、他の人と全く同じように講習を受ける権利を有するはずの子連れの女性が退去を命じられていても、それをおかしいと思ったり、止めようとする人間は、会場にただの一人も居ませんでした。

だって、みんながそれを望んでいたから。

職員は会場中からのその無言の圧力に従っただけとも言えるのです。

全ての理由は、そこに多額のお金が絡んでいたことで説明がつくと思います。
職員の口から説明される法律用語や銀行関係や、役所の手続きに必要な全ての事柄を、その場のわれわれ全員が、絶対に、一字一句聞き漏らすことはできなかったからです。

そうすることで自分たちが大変な不利益をこうむる可能性が現実にあって、何としてもそれを避けなければならなかったから。それぞれが、自分のため、あるいは「生計を一にする」家族のために…。
職員にとっても、説明が聞き取れなかったことで会場の人が受けるかもしれない損失を、全て役所で保障することは出来ません(大変な金額になりますから)。そのことで訴えられるリスクすらあり得ます。

結局、その母親と子供がその場から立ち去ることが一番話が早かったのです。

これを「最大多数の最大幸福」、とでも言いましょうか…。



この時、私が思い出したのは、少し前から耳にする学力低下とか学級崩壊とかのニュースでした。
(会議室を荒れる教室に見立ててみた、というわけでもないのですが。。)

勉強についていけない子や教師に反抗的な子が、あからさまな大声での私語や立ち歩きなどの行為で故意に授業を妨害し、社会問題にまでなっているという。しかし公立校では児童・生徒の退学や出席停止など強硬な措置は取れないことになっているので…うんぬん。

学校の授業が退屈なのは、私にも覚えがあるし分かります。

先生が強く叱らないなら、甘やかされて育った現代の子供はいくらでも増長するだろうとも思います。
それでも、最終的には本人とその親が後年進路のことで勝手に悩めばすむことですし、赤の他人にとっては別にどっちでも良い事だ、とも言えます。


私がここで一つだけ言っておきたいのは、大人になっても”勉強”は続くものだ、ということです。


それどころか、大人になってから要求される勉強は、学校でいやいやさせられていたそれとは比べようもない程に難しく、学ぶのに意思も根気も山ほど要ります。
その難しさは、学校(大学まで含む)での長い年月に及ぶ勉強が、全て、今やっているこの勉強のための壮大な(そして、やや効率の悪い)”予習”であったのかとさえ思うほどです。
さらには、習得するまでに期限が切られていたりもします。
何度も試験を受け、自らお金を払って講習を受けたり教材を買ったりしなければなりません。

どんなに難しくても誰も助けてはくれない(助けられないのです)し、いくら嫌でも逃げられない場合がほとんどです。拒否すれば、あなたは今いる場所や、あなた自身の”夢”を失うだけのこと。

重要な説明の最中にもし他人の邪魔になるようなことをすれば、容赦なく退去させられる。
権利は、主張しても無駄でしょう。自分がその説明を聞く権利を、全く同じように他の人達も持っているのだから、その人達の権利を侵害したとして責めを負わされるのはこっち、ということになるでしょうし。法律的に正しいとか正しくないとかではないのだと思います。

「だったら、あんたがかわりにその金を全額払ってくれるのか」

といわれたら、普通は黙って引き下がるしかないでしょう?
大人になってからの勉強は、お金に直結しているだけに常にみんな真剣です。
それが”生存”そのものにも直結しているからです。

少しせちがらい話ではありますが…。



これを読んでいる中に、いま学校に通っている若い人がもしも居たら。

勉強はやっぱり頑張っておいた方が良いと思いますよ。。
それが、大人になっても続く本当の真剣勝負の勉強を、大いに助けてくれる可能性もあるからです。

会社に入って配属されたポジションで難しい機械を操作する必要があったとして、そのマニュアルの説明が、使われている日本語そのものからして理解できなかったとしたらどうなるでしょう?
誤作動した機械に腕や足を挟まれて切断される。
あるいは、ショートして爆発を引き起こす。
自分が命を落としたり、他人の命を奪ってしまう可能性もありますね。

お客さんと接する職業でも似たようなことは考えられます。
顧客に商品を薦める際、不用意に法律に触れるようなことをしてしまったとしたら?
それが原因で訴訟を起こされるかもしれませんし会社に大きな損害を与えれば、解雇、ひどい場合は損害賠償を請求されることもありえます。会社レベルで請求される金額というのはそれこそ桁が三つも四つも違うそうなので、その後の人生に重大な影響を与えかねません。

これらの中には、自分が勉強しておくことで避けられるはずの危機が数多くある、と思うのです。

別に大人は、本当のところ、自分にかかわりがない世間一般の子供に勉強してほしいとも、させようとも考えてはいません。どうでもいいとさえ思っています。

勉強は、あくまで自分自身のためにする行為で、それ以外のものではあり得ないのです。

では、どうして大人は勉強するのかというと…。
今より少しでも”幸せ”になるためです。私はそう考えています。


生きるために働く。

生きるため、働くために、勉強が必要なのだ、と、そう真面目に説明されても、じゃあ生きることに意味を見出せない人はどうすれば良いのか?となってしまいます。死んでしまえばいいのか、となる。

そうではなくて。
生きて、その過程で”幸せなこと”を一つでも見つけるために、その為にこそ働くし、勉強するのだと、私は今ではそう信じています。

私も、今の仕事をするために全然勉強しなかったということはありません。
高校でも大学でも、やれといわれたことはやりました。たとえうまく出来なかったとしても…。
それどころか現在も、少しでも絵が上手くなるようにそういう学校に自費で通っていますし、興味のあることは新聞やニュースで情報を集めたり、必要なら買って本も読みます。

でもそれらのことを別に苦しいとは思いません。

そうすることでもっと良い仕事が出来るなら、もっともっと頑張ろうと思えます。
たぶんそれは、私が仕事をして、自分の作品を見て喜んでくれる人がいると言うことを知って、そのことをとても幸せに感じるようになったからで…。
辛いはずの仕事が教えてくれたり、与えてくれる喜びや感動も確かにあるのだと思います。

大人になってからの勉強は、それは難しく、苦しいものです。
でも大人は、それをしなければならない理由も、なんとなくですが知っています。


例の講習会で、子供の騒ぐ声がうるさいといって強制退去させられた、あの若くもないお母さん。

きっと彼女も守らなければならないものの為に必死にしがみつこうとしていた筈なのです。
自分のかわいい子供たちと、普通に暮らすという”幸せ”の為に…。

そしてそれは、たぶん正しいことなのです。
恐らく、絶対的に。