ふと我に返り、街や自然を眺めてみると

ただビルは建っていて

ただ蝶は飛んでいて

ただ人は自転車をこぎ

ただ自分は学校に向かい行動する

ただ雲は流れ

ただ言葉を放つ

そこにはなんの意味もない、自分が生きている意味すらない

そう思っていた高校時代。


今は違う

物事のそれ自体には意味がないのは事実

だが、だからこそ人は意味をつけていく

意味をつけるからこそ変化が存在する


町中にあるベンチ
それはただのベンチ
ただそこにあるだけ

しかし

よく共に座った彼女と別れたら、それは思いでのベンチに変わり

野宿を強いられそこにたどり着いた人には寝床に変わり

製作者、設置者にとっては仕事の商品に変わり

公園のデザイナーにとっては風景に変わる

写真家にとっては道具で

清掃員にとっては職場で

お年寄りにとっては最適な休憩所で

友達との待ち合わせ場所で

そうやって、人によって意味が加えられて意味を持つ


だから、

昨日まで大好きだった人を今日嫌いになる

最近まで心地のよかった居場所が突然できるだけ関わりたくない場所になる

どちらも同じ人、同じ場所

でも何かのできごとに、自分で意味を加えて変化する


昨日まで目もくれなかった人と同僚になりお酒を飲みに行くようになる

知り合いに本を進められてやりたいことが変わる

どちらもただの人、ただの本

でも、その物事に自分で意味を加えて変化する


すべては自分で決めている

ただ、意味をつけ加えられているケースが多いと最近思う。

お前は頭が悪い

あんたは最低

世の中は暗い


それを信じるのは自分


頭は比較するからいい悪いが決まる

最低かどうかの判断基準がない

世の中は存在してるだけ


みんながお互いに意味をつけあっている

だからやっぱり思う。

いい意味をつけられる人は単純に毎日が楽しい

生きる意味なんて人の数以上にある

というかどんな意味をつけたって自由だ



今日の本気が未来を描く