やっと僕が一番好きな本であるジル・ドゥルーズが書いた『スピノザと表現の問題』という本を読んでノートを取ってレビューを書き終えた。
読むのは3度目で、去年スピノザのアラビア語辞典みたいなものらしい著作以外の全著作を読んだから漸くしっかり理解できたと思う。とても難解で深い書物。
10年以上前に初めて読んだ時、表現の問題とは突き詰めればソシュールが研究して解き明かせなかったラングの問題にぶつかる。当時スピノザをほぼ知らなかったし、平行論という概念と脱構築を突破しようとするドゥルーズの意志を見て感動した。その後の僕の思考の流れを作った、そのきっかけを与えてくれた本。
ソシュールからの結論は非常に強力で自然本来的にそれとしてあるものなど一切無いのであり、全ての認識は人が産出したものということになる。しかし平行論が適用できるのなら、例えば命など自然本来的にはそれとして存在しないけれど、人間が尊いと思う様なものを含んでいる一にして不可分なる有が実在していて、命という概念を当てはめてその部分を他と恣意的に区別して認識するということは可能になる。それは虚構でも幻想でもない。
思えばこの本、僕の大好きなドゥルーズが僕の大好きなスピノザの哲学をもって僕の大好きなソシュールに繋がる問題に挑むという、まるできゅぴはわきゅんが揃った様な本。それは大好きになる訳だと思うw
元々1968年にドゥルーズが哲学の博士号を取得する為の論文を書いて、その副論文として書いたのが本書なのだとか。主論文の方も読んだけど僕はこの本の方が好き。
今回かなり苦戦しつつしっかりがっつり読み込んでノートを取ってレビューを書いたのでアメブロにも投稿しておきたかった。ジャンル的に学問であり教科書の読書みたいなものだからね、すいすいーっとやって、ちょっと前だけどリュウジさんのコラボ商品食べた時の写真とか、すくすくと綺麗に根を張った水耕栽培のヒヤシンスの今写真とか張ったのでそれだけでも見ていってほしいよ!
ヒア・ウィー・ゴー!

本書を読むのは3度目になる。アラビア語綱要以外のスピノザの全著作権を通読して漸く本書の理解に至った様に思う。
ドゥルーズは「表現」という概念に注目する。表現とは説明であり、創造であり、産出でもある。
スピノザはエティカ第一部定義六で、神とは絶対無限の存在者、言い換えればその各々が永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成りたつ実体であると定めた。このスピノザ哲学がドゥルーズの強度の哲学の礎ともなる。
全ては実体の思惟する力と存在し活動する力の表れであるとしてドゥルーズはスピノザを解説する。しかし力の表現としての世界、表現そのものである生を理解するには難解な表現の体系を追っていかなければならない。
本書はスピノザの主著エティカを順に解説する形で大きく3部に分かれ、第一部実体の三つ組、第二部平行論と内在性、第三部有限様態について、とあり随所でもう一人の表現の概念の提唱者でもあるライプニッツとスピノザの比較を行い、同時代の二人の反デカルト主義の元としてデカルト哲学にも言及し、その他スコラ哲学の伝統にも触れつつスピノザ哲学をドゥルーズ独自の力の哲学として再構築していく。
第一部において先ず始めに事物の数的区別と実在的区別とを区別する論理から始まり、表現の体系を実体・属性・本質として其々の項を区別しつつ一なる有として捉える。
唯一の実体は思惟(精神的)と延長(物理的)の2属性において自らを表現して諸様態へと様態化する。人間はその二属性でできている為、実体が有するその他の属性を知ることはできない。
事物の定義や本質とはその事物を説明し、その事物の原因を含むものでなければならない。そうでないものは事物の本質ではなく特質であり、特質とは本質そのものではなくその本質について言われる形容詞である。神について言われる全知や永遠は神の特質であり、神はそれらなしに神ではありえないだろうけど、それらによって神であるのではない。特質は理性の有であり数的に区別されても実在的には区別されない非実在的なものである。
表現の三つ組、実体の三つ組は力の概念に置き換えられて更に異なる視点による他の2つの三つ組としても捉えられる。いずれにしても実体は属性を通して様態化していて、諸様態は実体を表現する限定された存在である。
ただし、他の箇所にも見られるがドゥルーズは必ずしもスピノザ哲学に忠実ではない。例えば実体は無限であるが実在的に分割される構成要素を持たないので、スピノザにおいて実体の属性は実在的に区別されない。しかしドゥルーズは属性を実在的に区別し、それは実体を分割するものではなく、一なるものの分割を伴わない形相的区別としての実在的区別ということにする。ドゥルーズには存在を生成する秩序としての差異を数的区別としない為に属性を実在的に区別しておく必要があった。
理性の有と数的区別は同一ではないが、スピノザのテキスト自体も問題を含み些末になるのでここでは省く。
第二部において有名な平行論とそれを成立させる内在的な体系が説明される。
思惟と延長は其々独立した属性であり互いに干渉を持たないか、思惟の様態である観念と延長の様態である事物は完全な対応関係を持つ。属性は異なる視点で等しく実体を表す等価性であり優劣を持たない。ある十全な観念が有るのにそれに対応する事物は欠けているということなどなく、逆にある十全な事物があるのにその観念は欠けているということはない。一方の属性においてある存在が表されるならそれに等しく他方の属性もその存在を表す。二属性は思弁的にしか区別されないものであり、存在論的には紙の表と裏の様に一つの存在に対する形相の違いである。
人の精神は思惟の様態の一つであるが、人間が事物の認識を誤るとしてもそれは厳密には誤った観念を持つからではない。存在しない事物の観念と思われているものは、実際に存在する観念の複合体である。大きな翼と白い馬は実在するが、大きな翼を生やす馬は実在しない。人はその様に観念の混乱した複合体を一つの事物として見てしまうから認識を誤るということが起こる。この意味で人の過ちは事物を正確な名で呼ばないことに基づく、というスピノザの言葉は正しい。
スピノザにおいて精神とは身体が外部からの刺激に対して起こす変様の観念と、その観念に対する観念、そうした観念の複合体である。諸様態は常に外部の原因によって変様する。この外部とは自己自身のみを十全な原因とするもの以外の記憶や想像を含む全てであり、極論的には対象とはその対象が身体に及ぼす影響の結果にすぎず、そもそも私というものは対象が身体に及ぼす影響の観念にすぎず、人は外部の対象を含まない自己自身のみを認識することはできない。この意味で精神とは精神的自動機械の様なものであり、人は必然的に受動的な存在者である。
第三部において個々の人を含む有限様態について解説される。様態の存在の秩序、その体系と、身体はなにをなしうるのかについて。
存在する様態の本質は様態の存在とは区別される。本質は存在を含まないし、存在は本質を含まない。しかし本質と存在は実在的に区別されるものではなく、属性において同一である。本質は個別に様態化して存在を持つまでは属性のうちにその属性の無限様態と区別されずに存在していて、個別の本質として他と区別されることはない。属性の無限様態とは直接と間接無限様態が有り、延長のそれは運動と静止の秩序と実在する世界。思惟のそれは直接無限様態としては無限知性とされるがスピノザが間接について語っていないので、恐らく実在する世界の観念の全てだとされている。ドゥルーズは様態化する以前も以後も本質は永遠に実在していて属性に包み込まれていると記述するが、用語の使用に無理が有ると言える。厳密にはその様に実在し得るのは本質それ自体ではなく個別の本質を構成する秩序としての無限様態だと言える。諸様態の本質となる秩序としての差異を含む属性の無限様態。
諸様態の存在はその本質と、その本質に関係づけられる現実的な外延的諸部分と、常に外部の原因に対して変様する変様の能力(その様な力能そのものとしての形相的個体、つまり身体など)の三つ組として把握される。よって諸様態の本質はその諸様態自体のものではなく、実体の属性に基づいてその唯一の実体に帰せられる。スピノザであればこのことから人が自分は自分の力のみで存在していると思う様な誤った傲りを持たずに全ての存在とその作用との原因である神を知る様にとの勧告にもなるが、ドゥルーズはここに強度の哲学を構築する。スピノザ哲学が難解である主な理由の一つはスピノザがこの様な難解な本質についてそれが何なのか具体的には何も示さなかったことが挙げられるだろう。ドゥルーズはこの本質を唯一の実体の二属性が表す実体の思惟する力と存在し活動する力の度合い、その強度だと明確に示した。諸様態、その一個の存在は無限に多くの単純物質の集合から成る諸部分で構成されている。その外的諸部分が運動と静止の秩序により必然的にある力の強度に関係づけられて個的存在を構成し、構成された様態は常に外部の他の様態との関連の中で変様しつつ存続する。一個の存在とはその一個の存在の構成関係それ自体でもある。人の死とはその一人の人間を構成する構成関係に関係づけられていた諸部分がその関係を維持できないレベルで分解され、それら分解された諸部分が他の存在の構成関係に関係づけられて他の存在を成すことである。
ものを食べるということがそうである様に、諸様態とはそうした構成と分解を絶え間なく続ける関係の連関の中にある一様態に過ぎない。
だからこそ身体はなにをなしうるのかについて知ることが重要になる。身体は外部の原因に応じる変様の力能の表れでもある。人が身体を認識するのはその変様の観念によってでしかない。善いとは様態にとっての活動力の増大であり喜びの感情であり、悪いとは活動力の減退であり悲しみの感情に属するものである。理性によって受動感情を選別し、善いものと出会い、悪いものとの出会いを避ける様に自分が出会うものを組織する努力をしなければならない。その様な努力が可能になる力能として理性を育むのは人間社会があればこそである。自我や人格的主体性は虚構であっても自己の活動力の増大、良い生の為に他者との共存は必要不可欠である。ドゥルーズやスピノザがそう明言する訳ではないが、他者との共存の為の営みが人間性を築くとも言える。人間らしさとは本質的な属性ではなく行為によって生じるものであり、その源泉は個人の外部にあるとも言えるだろう。
諸様態は実体の思惟する力、存在し活動する力を表す存在であり、認識し理解する力、行為を成す力を有している。自己と事物との共通概念の理解から実体としての神の認識に至ること。十全な認識による十全な自己の精神のみを原因とする十全な観念を認識する時、それは全ての存在とその作用の原因であり秩序である神のうちにあるがままの喜び、愛を得ることになる。それこそ至福と呼ぶに相応しい。
これらの点においてスピノザの哲学とドゥルーズの哲学は合致する。
スピノザは自らに実体の変様であり共存すべき存在である人間の無力さを嘆いたり貶したりすることを禁じた。ドゥルーズもその生の哲学とか肯定の哲学と呼ばれる哲学の中で構造主義哲学の著作にありがちな蔑視や恨みを基本的に見せない。「そのほか多く言い古された欠点」をそう口にする必要は無い。そうした二人を見習いたい。
しかし本書の本編の最後にてドゥルーズはスピノザに比べて論理的に不備があるとしてきたライプニッツの哲学との差異と、ポスト・デカルト的な哲学を基礎づけるために表現の概念に訴えたという二人の共通性とで、そのどちらが重要であるかとは言えないとして本書を終える。
スピノザが神と呼ぶ唯一の実体をドゥルーズは後に器官なき身体と呼ぶことになる。
それでも本書はとても有意義であり、知りたいことを教えてくれた。難解だけれど名著だと思う。

リュウジさんのファミマコラボ商品!角煮まんも有った。確か2コンプしたし、一番はかなり尖ったスパイス唐揚げ弁当かな。白米と一緒に食べるのが凄く美味しかった!

ほっかほっか亭ともコラボしてスパイス唐揚げ弁当出ているので食べてみた。揚げているから唐揚げとしてはこちらの方が美味しいのだろうけれど、ファミマのに比べると控えめな味で、僕はファミマの尖具合の方が好み。美味しかったけれどね!

SNSでバスっていた鍋スープ。食べ比べした。しっかりピリ辛旨味のキムチ鍋と、斬新なスパイス感あるすっきり鶏山椒鍋。僅差で後者かな。美味しかった!

綺麗。
11月に入ってから水に着けたから2か月目。毎日水を替えている。根を完全に水につけてはダメで息をさせないといけない。今日はどこまで水を入れるかと毎回ちょっと悩むw

天ぷらそば、と書いているからかき揚げでも天ぷらを乗せて食べたと主張して何も問題ない筈w

そのままでも美味しいけれどローストポークをトッピングすると尚美味しい。柔らかチャーシュー的なね。
美味しそう?美味しかったよw
