近年、ヒーリング音楽に代表されるような、「癒し」を名乗る音楽をよく見かけるようになった。

これを例に、芸術における「癒し」について、考えてみたい。 


 確かに、このような音楽をきっかけに、よく使われているクラッシック曲などを知った人も少なくはないだろう。 

しかし、「癒し」という名のもとに受動的な音楽鑑賞を強制するという点で、問題がある。


 そもそも、芸術における「癒し」とは、「反復と追体験」である。


 例えば、東日本大震災や阪神・淡路大震災での被災地において、子供たちは「津波ごっこ」や「地震ごっこ」をして遊んでいたという調査結果があるが、子供たちはこのような地震の追体験的・反復的な遊びをすることで、悲しさや寂しさを癒していたのだろう。

 また、第一次世界大戦においても、プロコフィエフなどの作曲家は、戦争を連想させるような音楽を作り、戦争の「追体験と反復」をすることで癒しを得ていたのではないだろうか。


 それにもかかわらず、もし現代の作曲家が災害や戦争を連想させる曲を作ってそれを「癒し」であると表明でもしたら、大炎上になってしまうのだ。

そして、α波や音楽の流れに呆然と身を任せることのみが「癒し」とされ、受動的な鑑賞を強いられることになるのだ。 


 以上のことから、ヒーリング音楽に見られるような「癒し」の概念は、受動的な音楽鑑賞を強制し、本来の芸術の「癒し」である「反復と追体験」という概念を排除し得る点で好ましくないと考える。