『グランドトリノ』は所詮、言語世界の産物に過ぎない人種差別をもたらす社会の違和感(気持ち悪さ)や虚構をクソな人間など現実を介してあぶり出しそうじゃない答えを提示している。
クリントイーストウッドに言わせれば世の中1+1=2じゃないと。
だけどそれを理屈(頭)だけで理解しようとするとやっぱり1+1=2の世界から抜け出せない。
まさに劇中の主人公はその問題で葛藤していてそのことを若い神父に指摘されている。
自分の中にある信念は頭だけでは自分のものにすることができない。
知識だけでは実現できないもの。
それが彼の抱いている葛藤であり罪であり生き方(魂)だった。
自分自身が実践しなきゃなんない。
自律(自力)だ。
自分のことは自分でする。
この映画の全編に漂うメンタリティ。
しかし、どうやって彼は自分の中にある矛盾を体現すればいいのだろうか?
戦争を体験したことのない神父に対して
死を知らない(つまり、人を殺したことのない)あんたが死を語れないと言った。
そう言われた神父にあなたは死に詳しいようだが生の側面はよく知らないと返される。
図星だった。
死と生は対極であり別々のものだと。
死と密に繋がれば繋がっているほど生から離れていく。
そこへ現れたのがタオだった。
少年との関係性を通して主人公は自分の中で切り離されていた生と死が
完全に1つのものとなる。
少年が主人公から大人になるためのイロハを学ぶが同時に主人公も学んでいたのだ。
いや、学ぶというよりむしろ癒し(カタルシス)と言える。
肩の荷を下ろしたときに生への眼差しが生まれた。
自分自身を許す救いはタオがもたらした。
タオは目的的に何かを得ようとするが結局得られないその他大勢の人間たちと異なり
結果として得られてしまう人間の象徴になっている。
ウォルトとタオの間には友情(信頼)が芽生えていた。
絆は目的的に結果を得ようとするのではなく結果として何かを得られるものだ。
目的的に何かを得ようとする現代社会のベースに1+1=2の言語世界がある。
とはいえ、実際計算通りになるのは一部の特権的な人たちだったりする。
こういった現実に対する別のアプローチのイメージがタオだった。
リッチだが過去の亡霊(まさに1+1=2の直進的時間性を絶対視した世界で繁栄してきた)に
過ぎない親族より進むべき未来を予感させてくれる道を選択したイーストウッドのスピリット。
新しい(フレッシュ)とは何か。
新しいことをするのに年齢も人種の違いも関係ない。
新しいことをやった、フレッシュでいれる人間が常に新しい。
常に新しくいること、それが生きるということ。
ただ生きているだけ、時間を積み重ねることだけが生きるということではない。
ウォルトは自分の罪の意識そのものだった死を通して初めて生を掴むことができた。
そういうメッセージが宿った映画、それが私にとっての『グラントリノ』だった。