バイツァダストは自分を守るために発現されたわけだが
これを現実社会のルーティーンにあてはめてみよう。
cf. 終わりなき日常
トムクルーズ主演の『オールユーニードイズキル』もそうだが
同じことが繰り返される世界。
自分を守るために作り出された環境だから安全だ。
自己維持欲求が能力として顕在化した結果とも言えるだろう。
たんなるアンチや抵抗には自分がない。
反発している力の影に過ぎない。
だが、抽象度を高めて
生きるということを考えた場合
生きることは抗いなのではないかと思う。
抗うというのは抽象度の低い反抗という意味ではない。
何に対する抗いかはいろいろあるだろう。
自分の力ではどうすることもできないこと。
究極は死ではないか。
つまり、死に抗うことが生きることだとすれば
抗うことをしなくなったとき
それは死を意味していることになる。
もちろん、生物学的な死ではないから
再生、蘇生は可能だ。
なぜ、今、多くの若者がうつになるのだろうか。
抗うことができなくなったからか。
抗う力とは何か。
ただ暴力的に反発することが抗うことではないことは述べたが
では何を持って抗うとすればいいのか。
抗う力が生きる力なのであれば
それを奪っているものは何か。
バイツァダストの世界は安全を約束する。
ただ、生きるために生きるための力を削がれるとしたら
こんな皮肉はない。
二律背反になるかもしれないが
自分でバイツァダストという絶対的安全世界を作り出し
同時にそれに抗う。
自分に挑戦するとはそういうことなのか。
もしかしたら、それは楽しいことなのかもしれない。