ナマケモノ・グータラ主婦が起業します。
すでに、日の丸が貼ってある時点で、
ミセスMは「右翼派」かと思う人もいるだろう。
しかし、ミセスMにそういう思想はない。
右翼でも左翼でもないと言っておく。
日本では国旗を掲げると、右翼かと疑われるか。
しかし、正しく「日の丸」を理解すれば、
右翼とか左翼など、無関係とわかるはずだ。
そもそも、「右翼」とは?
右翼思想というと、
「日本人は日本人らしくあるために、
伝統や文化を大切にしよう」というものと
考えられる。
「保守的」とも言うかもしれない。
「左翼」とは?
左翼的思想というと、
「古い考えは捨てて、日本と外国の境界をなくして
まったく新しい国にしまえばいい」というものと
考えられる。
「革新」とも言うかもしれない。
考え方、思想の違いだから、それほど毛嫌いすることもない。
街宣車で、軍歌を流すだけが右翼じゃない。
それに、ヤ○ザを右翼と思っているなら、
右翼派に失礼かもしれない。
ヤさんたちに、そういう思想的背景があるとは
思えないからだ。
左翼派の人も、「デモ行進」したりしている。
ただ、見かけが、受け入れやすいか否か。
ですが、マスコミが取り上げるのは、極端なものばかり。
マスコミがすべて正しいとは限らないので、要注意。
映像や原稿は客観的であるべきだが、
作り手の思想が反映されやすいからだ。
右翼も左翼も思想だから、どっちも間違いではないと思う。
両方とも、それぞれの主義主張があり、
一方だけが、正しいことを言っているわけではない。
過去の古い日本に良いところがなかったわけではなし、
新しい日本に良いところがないわけでもない。
保守と革新の調和が取れることが、必要だと思う。
どちらが正しい、間違っていると完全に割り切れない。
日本の伝統を守りながら、それを基礎として
新しい日本をより良く導く考えがまともだと思う。
単なる正論を述べているだけだから、
ここまで読んで、ガッカリした人には
申し訳ない。
次回「日の丸について知ろう」(予定)
日本に野球が伝来したのは、明治5年(1872)。
意外と早い時期に伝わってきたようだ。
第一大学区第一番中学
のちの開成学校、現在の東京大学の
アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンにより
「baseball」(ベースボール)が伝えられた。
本格的野球チームの結成は、明治11年(1878)。
アメリカから帰国した平岡という人が
「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
ミセスMは、現在の会員制テニスクラブのように
会員同士で試合をしただろうと想像する。
クラブ内での野球を楽しんだと考える。
明治27年(1894)になって初めて、
中馬庚により「ベースボール」が
「野球」と訳される。
正岡子規が「野球」と
初めて訳したとされるのは誤りらしい。
明治36年(1903)に早慶戦が始まる。
早慶戦というのは、本当に歴史があるようだ。
チーム同士の対戦というのは、これが始まりと思われる。
大正4年(1915)、
全国中等学校優勝野球大会
現在の夏の甲子園大会が始まった。
大正9年(1920)に、
最初のプロ野球チーム
「日本運動協会(芝浦協会)」が誕生。
関東大震災の後、関西へ移り「宝塚協会」となったが、
残念なことに、昭和4年(1929)に解散。
大正13年(1924)、甲子園球場が竣工し、
全国選抜中等学校野球大会
現在の春の甲子園大会が開始。
大正14年(1925)、
東大の加盟で東京六大学リーグ戦が始まる。
東京では早慶戦の復活や
東京六大学野球連盟結成などにより
大正15年1月に明治神宮球場が誕生した。
昭和2年(1927)、都市対抗野球大会が始まる。
社会人に学生野球経験者が増えていったからなのか。
昭和6年(1931)に
ルー・ゲーリッグら米大リーグを含む選抜チームが来日。
戦績は、17戦全敗。
対戦相手は、早稲田大学を皮切りに、
慶応、東京クラブ、横浜連合、神戸連合など合計17試合。
昭和9年(1934)には
ベーブ・ルースら米大リーグチームが来日。
Yヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスの2球団が
「世界一周野球団」として
ヨーロッパや東洋を回る一環として来日した。
日本では、3試合行われ、そのうちの2試合は、
ジャイアンツ対ホワイトソックスでホワイトソックスが2勝。
別試合がアメリカ連合軍対慶応大学で16-3と連合軍圧勝。
このとき対戦した日本チームのメンバーが中心になって、
大日本東京野球倶楽部
現在の読売ジャイアンツが誕生。
今につながるプロ野球チームの誕生だ。
対戦相手は、前述の最初のプロ野球チーム
「宝塚協会」(日本運動協会(芝浦協会))しか、
いなかったのではないだろうか。
ここは調査不足である。
昭和11年(1936)になると、
東京巨人、大阪タイガース、
阪急、名古屋金鯱、名古屋、大東京、
東京セネタースの7球団が揃い、
日本職業野球連盟が創立された。
日本に野球が伝わってから60年余、
現在のプロ野球の下地ができた。
昭和12年(1937)には、西宮、後楽園の両球場が完成。
後楽園イーグルスが加わり8チームに。
昭和13年(1938)に南海が加わり9チームに。
そして、昭和14年(1939)、
日本職業野球連盟は日本野球連盟と改称。
戦争中は、敵性語が禁止されたため、
野球用語もストライクが「よし」とか
ユニホームは国民服といった具合だったそうだ。
戦争が終わり、昭和20年(1945)、
神宮で全早大対全慶大戦が、
プロ野球も11月に東西対抗戦が行われた。
意外と早い時期に、野球は再開している。
GHQにとって、野球は憎むものではなかったようだ。
昭和21年(1946)、
学生野球、社会人野球、プロ野球が待望の復活。
既存の6チームであった
グレートリング(旧南海)、巨人、大阪、阪急、
中部日本(旧名古屋)、パシフィック(旧大東京))に加え、
セネタースとゴールドスターを加えた8チームにより、
株式会社形式で連盟が再結成された。
昭和23年(1948)には、
横浜ゲーリッグ球場(横浜スタジアム)で、
プロ野球の初ナイター戦が行われたり、
昭和23年(1949)には、
サンフランシスコ・シールズ(3A)が
戦後初のアメリカプロ野球チームとして来日したり、
プロ野球は益々盛んになっていった。
昭和25年(1950)に、
大洋ホエールズ、広島カープ、西日本パイレーツ、
国鉄スワローズ、毎日オリオンズ、西鉄クリッパース、
近鉄パールスが新たに加わり、
現在のセントラル野球連盟(セントラルリーグ)、
太平洋野球連盟(パシフィックリーグ)の
2リーグ制が始まった。
セントラル野球連盟(セ・リーグ):
読売ジャイアンツ(旧東京巨人)
中日ドラゴンズ(旧中部日本)
大陽ロビンス(旧パシフィック)
大阪タイガース
大洋ホエールズ
広島カープ(ここにカープの登場)
西日本パイレーツ
国鉄スワローズ
太平洋野球連盟(パ・リーグ)
阪急ブレーブス
南海ホークス
東急フライヤーズ(旧セネタース)
大映スターズ(旧ゴールドスター)
毎日オリオンズ
西鉄クリッパース
近鉄パールス
昭和25年に、広島カープは誕生。
広島の選手で、広島のための野球チームをという
無謀とも思える県民の願いは実現し、
セントラルリーム連盟に所属する球団として生まれた。
そして、広島の復興を支える希望となった。
見落としていたことがありました。
漢字も旧字体があるということ。
戦前の漢字は、今と違います。
「書く」が「畫く」とか、「恋」が「戀」など。
それを知らないと、筆談は成立しません。
近代日本の漢字が読めないことが考えられます。
戦国時代の漢字がどのようであったかは、
わかりませんが、漢字が読めるかどうか。
昔の掛け軸など、読めない漢字が多いです。
私たちがよく使う「明朝体」とは
中国の明代(1368―1644)の
木版印刷にあらわれた書体で、
「清朝体」もあるそうです。
「過渡期明朝体」を経て、
上海・美華書館の「明朝体活字」が
長崎・崎陽新塾活字製造所にもたらされ、
その活字をもとに「活字母型」を製造したのが、
「わが国の明朝体活字」のはじまりで、
現在まで引き継がれているそうです。
公家言葉と武士言葉が全く通じないように、
同じ時代でも、京と江戸では言葉が違い、
通じないこともあったでしょう。
森鴎外や夏目漱石の小説なども、
現代語訳になっていないものは、
「いわゆる」はかならず「所謂」と書いてあります。
「しょせん」かなと思う方もあるでしょう。
古典日本語「いはゆる」
<「いふ」(言う)の未然形+「ゆ」
「ゆ」(上代の受け身の助動詞)の連体形
よりきたものだそうです。
(注)連体形とは? 用言・助動詞の活用形の一。六活用形のうち第四番目に置かれる。
ひらがなも、昔とは書き方が違います。
「いわゆる」ではなく、昔は「いはゆる」ですから。
「てふてふ」が、「蝶」だと知らなければ、
ひらがなが読めても、意味はわかりません。
通じるという人も通じないという人もありますが、
ミセスMの意見としては、
通じないと言わざるを得ません。
相手が誰かということにもよりますし、
どの地方かにもよるでしょう。
筆談も、昔の漢字が読み書きできないと
無理ということになります。
どの時代に、どの中国王朝の文字が
伝来しているかによるでしょう。
近年、中国に何度か行きました。
行ったとき、筆談できるかと思いましたが、
中国の現代漢字は簡略化されすぎて、
意味がわかりませんでした。
飛行場も「机場」みたいな漢字で、
「場」も簡略化されているので、
タクシーの運転手に、
飛行場と書いてもダメだったのですが、
理解してくれました。
余談です。
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