手を洗っても、落ちない香りということを、初めて知った。

はちみつをいれたホットミルクを飲んでも、消えない苦みを知った。

 

雨で、気持ちがばらばらで、とにかくどうにかしたかった。

傘をさして、それでも濡れながら歩いた。

 

思い付きで、どうしようもなく子どもっぽい、純粋な衝動だったと思う。

 

悪いことをしていると、誰かに怒られたかったのかもしれない。

寂しかったんだね、と抱きしめてほしかったのかもしれない。

 

初めて、自分で煙草を買った。

PeaceのAROMA Royal。

 

 

前に付き合っていた人がPeaceを吸っていた。

当時は吸わせてほしいとねだっても、ことごとく断られていた。

いわく、身体を大事にしてほしい、と。

それでもことあるごとに頼んだ。

 

お酒の席で、バイトの休憩中で、セックスのあとで。

ことあるごとに吸っていた。

たまらない、やめられないのだ、と。

大好きな人の好きなものなら試してみたかった。

セックスのあとにわたしを置いて、満足げに気だるげに吸うそれは、どんな味なのだと。

 

ことごとく断られた。

彼はしっかりしていた。

彼の周りの友だちにこっそり頼んでも、だめだと言われた。

怒られるから、と。あいつには吸わせたくない、と。

 

確認したかったのだと思う。

自分は大切にされている、愛されているのだ、と。

二十歳を過ぎてもねだり続けたのは、そういう理由だと思う。

 

 

別れてから、まるで仕返しをするみたいに、同じ友だちに頼んでもらった。

もう誰もとめてくれる人はいなかった。

 

それでも自分で買うことはなかった。

友だちが吸っているのを、ねだって一口もらう、それで何かが満たされていた。

 

 

仕事で限界を迎えた。

付き合ってる彼氏には、それでも今は頼れない、弱いところを見せられなかった。

午後休をもらって家に帰って布団にもぐりこむ。

身体を丸めて自分の体温を感じる。

それでも人肌が恋しかった。

会いたいけど会えない、言えない。

 

ふっ、と、Peaceが浮かんだ。

煙草の煙と共に、大切にされていた、愛されていた記憶。

 

濡れるとわかっていたけれど、歩きを選んだ

 

慣れない注文。

ライターの位置もわからず、店員さんに聞いた。

合法的に買えるのに、なぜかひどく、ドキドキした。

悪いことをしているようだった。

 

出てすぐに、傘の中で、人目を避けるように封を開けた。

元彼がしていたように、スムーズに取り出せない。

それでも、開けた瞬間の、甘い香りに驚いた。

火をつける前はこんな香りなのだと初めて知った。

 

火はすぐにつけれた。

ドキドキしていて何も確認せずに買ったそれは、10mgと強めだった。

吸う。一呼吸おいて、吐き出す。

その煙は懐かしい香り、元彼のにおいだった。

むせる。

それでも嬉しくて、傘の中、人目を避けて、ゆっくり煙を吐きながら歩いた。

 

雨の夜道、一人だけど一人じゃない、不思議な感覚。

 

帰り着いて、手に、服にうつったにおいを何度も嗅いだ。

脳裏に浮かぶのは、不器用に、それでもわたしを愛してくれたあの元彼だ。

 

ふと気づいた。

その元彼は初めての彼氏で、そのあと何人か付き合ったが、

煙草を吸っていたのはその元彼ただ一人なのだ。

だから煙草を、Peaceを見て思い出すのはその彼一人なのだと、ようやく気づいた。

 

元彼に会いたいとか、今の彼氏に不満があるとか、そういうわけではない。

ただ、単にあの頃の時間がひどく懐かしくなって、

それを共有できる人とは、きっと連絡を取らない方がよくて、

どうしようもなくなって、寂しくて、泣きたくて、泣けなくて。

 

 

 

こんな形で煙草を買うことになるとは思っていなかった。

セックスのあとにわたしから彼を奪う、絶対に勝てない相手だったのに。

 

それでも今日、わたしはこの小さな冒険に救われた。

 

煙草を吸っていた彼の、気持ちが少し、わかった気がした。