彼が歩んでいた一本の細い道は、やがて断崖絶壁の淵に差し掛かっていた。
一旦は歩みを止めてみたものの、結局は前に進むという選択肢しかないことに気付き、再びゆっくりと歩を踏み出した。
しかし、愚かな彼は途中で足を踏み外してしまった。
咄嗟に何かにしがみつこうと手足をばたつかせた直後、腹部にズシンと重たい衝撃を受けた。
俯せの姿勢で落下していた彼は、切り立った岩肌からところどころ突き出ている木の枝の一本に腹を打ち付ける格好で留まっていた。
薄暗い下方を覗き見るが、視界に捉えられるのはほんの数メートル先までで、今いる位置がどれだけの高さなのかもわからなければ、下にどんな情景が広がっているのかもわからない。
決して恐怖を感じているわけではなかったが、内なる声は『落ちてはいけない』と告げていた。
彼は宙ぶらりんの格好のまま必死でしがみついていた。
が、それにも限界があった。
彼は、事あるごとに身に纏っている大切なものをひとつずつ捨てていった。
その都度、とてつもない切なさに襲われるが、やがて時が経てば、身軽になるために手放したものはただの執着であったのだと自らに言い聞かせることができた。
そんなことを繰り返すうち、もう身に纏っているものもなくなってしまった。
ついに意を決した彼は、力を込めていた両手を解放し、一思いに全身の力を抜いて奈落の底へ落下していった。

しかし、物語はここでは終わらない。
あの枝にしがみついていたところで、上に戻ることはもとより、何処へも進むことはできないのである。
彼は知っていた。
上に登りたければ、一旦下に落ちて、しっかりと地を踏み締めながら歩んでいく他ないということを…