「鎖国」と聞くと、皆さんはどんなイメージを抱くでしょうか?

「日本が世界から孤立し、発展が遅れた時代」と思われがちかもしれません。

しかし、本当にそうだったのでしょうか?

江戸時代の「鎖国」は、単なる閉鎖政策ではなく、当時の日本が厳しい国際情勢の中で生き残るために編み出した、巧妙な国際戦略だったと考えると、その見方は一変します。

この謎多き「鎖国」の背景には、いくつかの複雑な要因が絡み合っています。

 

秀吉の遺産とキリスト教への警戒

 

物語は、豊臣秀吉の時代に遡ります。

彼が天下統一を成し遂げた後、日本に急速に広まったのがキリスト教でした。

南蛮貿易によってもたらされた異国の文化は、日本の人々に大きな影響を与えます。

 

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しかし、布教活動と並行して行われた人身売買といった問題や、キリスト教徒の団結力が既存の秩序を揺るがしかねないという懸念が、時の為政者に芽生え始めます。

 

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秀吉の死後、徳川家康が江戸時代を開くと、この警戒感はさらに強まります。

キリスト教が、スペインやポルトガルといった欧州列強の侵略の足がかりとなり、日本が植民地化されるのではないかという危機感が募っていったのです。

実際に、フィリピンなどが欧州諸国の支配下にあったことを考えると、この懸念は決して杞憂ではありませんでした。

 

弾圧と「踏絵」の導入

 

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幕府はキリスト教の禁教を徹底し、信徒への弾圧を強化していきます。その象徴的な存在が「踏絵」でした。

キリストやマリアの像を踏ませることで、信仰の有無を確認するという、現代から見れば信じられないような行為が行われたのです。

これにより、多くのキリスト教徒が殉教し、日本におけるキリスト教は地下に潜ることとなります。

 

唯一の窓口「出島」と情報収集

 

しかし、だからといって日本が完全に世界との外交関係を断ち切ったわけではありませんでした。

「鎖国」という言葉から想像されるような完全な断絶は、実は存在しなかったのです。長崎出島には、唯一の貿易相手としてオランダ人が常駐することを許されました。

 

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彼らはキリスト教を布教しないプロテスタントであったため、幕府は危険性が低いと判断したのです。

南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)との貿易は制限され、オランダ人のみが特別に許可された背景には、彼らがキリスト教の布教を目的としていなかったことが大きく影響しています。

オランダ人たちは、日本の物産を輸出するだけでなく、世界中の最新情報をもたらす重要な役割を担っていました。

彼らからもたらされる情報は、幕府が世界の情勢を把握し、日本の安全保障政策を練る上で不可欠だったのです。

この「出島」こそが、江戸時代の日本が持つ「世界の窓」でした。

 

なぜ「鎖国」は続けられたのか?

 

「鎖国」が200年以上も続いたのは、幕府が日本の安定と独立を何よりも重視した結果でした。

外来の思想や文化によって国内が混乱することを防ぎ、欧米列強の侵略から国を守る。

そのためには、限られた窓口を通じて情報を得つつ、基本的には国内の秩序維持を優先する、という選択をしたのです。

もちろん、この政策には功罪両面があります。

国際的な交流が制限されたことで、科学技術や産業の発展において欧米諸国に後れを取ったという側面は否定できません。

そして、19世紀半ば、黒船を率いたペリーが来航し、開国を迫ったことで、200年以上続いた「鎖国」の時代は終焉を迎えることになります。

 

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そして、日本は今までの武家社会の文化は幕を閉じ、次へと時代に改革が起きました。

「鎖国」は、単なる閉鎖政策ではなく、当時の国際情勢の中で日本が生き残るための、戦略的な選択だったのかもしれません。

歴史を多角的に見つめ直すことで、新たな発見があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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