『目指すのは腕の良い工房です。』と題するDODAの求人広告はほとんどが僕が書いたものだ。
ライターさんがきれいにまとめたものを書いてくれていたのだが、僕の言葉で伝えたい
と思って悪いがほとんど書き直させてもらった。しかし、その文を見た小学校の
先生をしている友人には駄目だしされ、こういうものを書く時はレビューしてやるから
一回自分を通せと言われたぐらい(笑)で、文章は稚拙だと思う。
ありがたいので、大事な原稿を書く機会があれば本当にレビューをお願いしようと思うが、
このブログもレビューしてもらっているわけではないので、稚拙な文ではあると思っているが、
そこはご了承願いたい。

しかし文章力を抜きにしても、あそこに書いた内容を読んでもピンとこない人がほとんどだと想像している。
話すと長くなるし、たぶん一緒にやっていって徐々に言いたいことが伝えられるかなぁぐらいに思っているが、それでも言葉は足りていないと思うので、ちょっとここに書き足しておきたい。

例えば以下のようなことを書いている。

『轆轤(ろくろ)をひいて器を作る職人さんや吹きガラス職人さんを見たことがありますか?それも作品を作る有名な作家さんではなくて普段使いの物づくりをする無名の職人達の姿を。少しでも見たことがあるという方はひたむきに仕事に打ち込む姿が目に浮かぶと思います。同じような日々の繰り返しの積み重ねの中で美しいものが生み出されていく、弊社が目指すのはそこなのです。』

こんなことを言われて分かれと言われても無理だと思うが、一応僕なりの理由がある。

これを話すには過去にさかのぼって自己紹介を含めて話をしなければ
ならないのだが、応募を検討して頂いているのなら、僕がどんな人間で
何をやってきて、どんなことを考えていてこれから何をしよう(したい)と考えているのか、
知っておいて頂いたほうが良いと思うので、そこから話をしたいと思う。

僕は大学は日大の芸術学部を出ている。音楽学科で専攻は作曲だ。
高校は桐光学園という進学校に通っていたのだが、勉強はできないし
好きじゃなくて、音楽が好きだったので、それを将来仕事にしたかった。

たまたまピアノを小1ぐらいからずっと弾いていてそれをいかせないかなと
思ったのと、何かを作ることは好きだったので、なんとなく
曲が作れたらかっこいいなぁと思い、普通の大学ではなくて
日芸というちょっと特殊な学校を受けることにした。

それで高校の時から大学の先生に毎週作曲を習うようになったのだが、
ちなみにその時にほぼ同じタイミングで作曲をその先生に習いはじめ、
同じ時間帯にレッスンに来ていたのがJazztronikというアーティスト名で今活躍している。
大学時代も同じ音楽学科作曲専攻で先生も同じだった。
大学を出た頃はしばらく会っていなかったけど、最近また時々会ったりしている。
ライブやクラブにもたまに行っているが、赤坂ブリッツを満員にしているのを
みるとすごいなと思う。

大学で学んだことはクラシックや現代音楽の作曲なのだが、
不勉強な生徒でほとんど曲を作ったことが無い。
1曲だけピアノの曲て鋼鉄都市という曲を作ったのだが、
それだけはその時に後輩もああいう曲好きですと言ってくれたし、
すごいのは今会う大学の友達が、確かこんな曲だったよねと口ずさめる。
インパクトだけはあったようだ。
大学の先生にもほとんどほめられたためしはなかったが、
たしかそれだけは面白いと言ってくれたような気がする。

そんなで音楽の勉強をしていたと言ってもほとんど身になっていない。
ただ当時考えていて今につながっていることが一つある。
それは日本の音楽って言えるものはあるのだろうか?という疑問だ。
なんとなくピアノを弾いてきたが、クラシック。西洋の音楽だ。
若者の聞く音楽だって皆欧米の影響を受けているし、
当時はやっていたラップなんてまんまだった。黒人に生まれてこなくて
残念だったねと思ってしまうくらい。
ファッションもそう。日本って真似しかできない国なんだろうか?
日本のカルチャーって何?日本人って何?
まぁ世の中のことを何も知らない大学生が思っていたことではあるけれど。

話がそれてしまったが、一応それでもずうずうしく音楽で
食べていきたいとは思っていて、大学の時からカラオケの
BGMを作っている会社でアルバイトをはじめた。
スタジオミュージシャンなどが耳コピして打ち込みで作った
MIDIデータをチェックして直したりミキシングする仕事だ。
クリエイティブとは言えないかもしれないが、それにつながる仕事で
仕事自体は好きだったし、曲づくりは打ち込みの時代になって
いたから将来の役に立つと思った。

結局就職活動もせず、そのままアルバイトを続けたが、
だんだん会社の雲行きがあやしくなっていた。
社長は雲隠れし、MIDIデータを納品したミュージシャンが
振り込みが無いと言ってよく事務所に押しかけて来るようになった。
皆普段はいい人ばかりだったが、その時ばかりは怖い人になっていた。
当たり前だ。生活がかかっている。
僕はその頃ただのバイトだったので、対応したのは
別の社員だ。僕より年下だったと思う。

どういう経緯だったかよく思い出せないが、
結局その会社は名前を変えて存続することになった。
社長は電通出身だったか、やり手の人という印象を当時はもっていた。
で、その会社の契約社員となった。契約金は15万円/月。
しかも機材類は全て持ち込み。
パソコンと音源、シーケンサーとかヘッドフォンは親から
お金を借りて購入したもの。これを揃えるのに当時で30万円以上はした。
音楽関係の小さな制作会社ってそんなものだった。

よく泊まり込みで仕事をしていた。
ただ、出入りしている人にそれなりに業界で活躍している人もいたので、
そこに入れば何とかなるかもしれないと思っていた。
しかしそれは甘く、この会社もだんだんあやしくなっていった。
給与がだんだん減っていって、1ヶ月働いて2万円とか3万円を
手渡しされるだけになった。
先にミュージシャンのほうに支払いをしなければならないので、
来月まで待ってくれと。それじゃ生活できないのだが、
実家にいたので食えてはいた。後はクレジットカード。
ア○ムには随分世話になった。カード会社さんからは
よく督促があって、ア○ムの取立ては怖いと聞いていたし、
ブラックがついていないかなど心配は尽きなかったが
無いものは無い。

あと奥さんともその時既に付き合っていたが、
いろいろと出してもらっていたのじゃないかと思う。
当時看護師をしていた奥さんははぶりが良かった。

で、何が直接の原因だったかは覚えていないが、
最後は上司に『ぶた野郎!』と言ってやめることになった。

そして後日友達にも手伝ってもらって一緒に持ち込み機材
を取り返しに行った。
雨の日のことでよく覚えている。

給与も結局全部は支払われなかった。

それが22歳の時。

音楽はお金がかかるので、高校の時から毎月の高いレッスン料
を出してもらい、高い大学の授業料や機材費まで出してもらって
おきながら大学を出てまともに稼いでいない。焦りがあった。
その後まともな職につきたいと思ってはじめて社員となったのが
音楽放送事業をおこなっている会社。
まともな会社で社員になるということが先決だった。
(当時はまともとは言えなかったけど。)
あと、関係ないけど今覚えばその時に見た求人情報はanじゃなかったか。
転職でなくてアルバイト専門の雑誌だ。
就活さえしたことなく、目標も定まらず、何も知らない世間知らずの人間だった。

個人宅営業部隊と言われるチームで全国に出張をし、
TUTAYAとかドンキホーテの店先を借りて
黄色いパラソルをたてて勧誘する。場所や営業にもよるが、
昼間よりも夜のほうがあたりがいいとか言って、出張先だと
昼間は皆で遊んだりどっか行ったりして午後から夜中まで仕事をする。
ノルマを達成できないと東京に戻ることが出来ない。

あまり成績は良くなくていつもノルマぎりぎり。
壁に貼られているグラフの僕のところはすかすかで見るのが嫌だった。

成績が悪い原因は明白で嫌々仕事をしていた。
もともと営業を目指していたわけではなかった。
それにその時サーフィンなんかもやっていてプライベートも大事とか
考えていて、必死で働いてお金を稼ぐことに意味を見出せなかった。
自由人に見える人達のような生き方をしたいと思っていた。
そんな中途半端な人間が仕事を取れるわけも無い。

横浜の支店に移ってからは営業する場所がある程度限られてしまうので、
余計につまらなくなってきた。

後輩とはよくみなとみらいに車をとめてさぼった。(夜中まで営業活動するから一応休憩。)
後輩が空き缶をけろうとして靴まで飛ばして海にポチャッと入った。
そんな夕方の切ないシーンを今でもはっきりと記憶している。

タウンページを今日はここからここまでと決めて片っ端からテレアポしたり、
マンションを片端からピンポンしたりもした。
他の営業はドアを開けたら閉められないようにまず足を入れると言っていたが、僕には出来なかった。
関内のソープランドにも行ったことがある。
もちろん客としてではなくて営業で。半分度胸試しみたいなものだった。
もともと人一倍内気で全てに受身ではあったが、少しずつずぶとさは出ていた。
こういうところの人は意外と親切で、ここに行ってみたら?
と言ってソープランド協会みたいなところを教えてくれる。
行かなかったけど。。

しかし一番嫌だったのは何も用事がなくても遅くまでいなければならないと
いう雰囲気につつまれていたことで、それが耐えがたかった。
無理矢理帰ろうとすると部長にヘビのような目でにらまれ、
こう言われる。『お前今月何件取った?』
ノルマに届いていないので渋々デスクに戻る。。
普段は営業は机にいるな、外に出ろというくせに、
夜は遅くまでオフィスにいろという。


ただ、転機はめぐってきて、時代はPC、インターネットの普及が
はじまっていて、会社もそこに乗っかろうとしていた。
当時ノートパソコンを持ち歩いて仕事をしているのは営業の中でも唯一僕だけで、
そっちに強いと思われていたこともあり、インターネット課というものが出来た時に
そこにまわされた。
好きなものはやる気が違う。最初は結構苦労したが、
あるインターネット系の商材でモールに加盟店を入れるという営業では、
全国のトップ営業に躍り出た。それもダントツの。僕ともう1名の負けず嫌いの
先輩がいて『今ちゃんには負けない』という負けず根性を全面にだして
少しでも僕がグラフを延ばすとすぐに追いつき、追い抜かしてきた。
支店の営業成績をトップクラスに導いた。その時ばかりは。
やり方は簡単で、楽天の加盟店にメール営業と電話フォローしただけ。
みな電話営業、飛び込み営業の人ばかりだから、メールを営業ツールに
使うということを知らなかった。それを一番先にやったのが僕だった。
グラフのマスが天井まで全てピンクに塗られて足らずに2列、3列になっていた。
1割バッターがイチローになった瞬間。
こうなると少し仕事は面白くなるのだが、営業の世界は過酷でこうなると妬まれたりする。。

あとは独学でホームページの作り方を覚えてこれをサービスとして営業したりもした。
これも非常に効果的ということが分かったが作れるのは僕しかいなかったので、
途中から制作専門になった。それとはじめてホームページ制作の
ディレクションのようなことをやった時もこの時で、
あるすっぽんとふぐの料亭のホームページを少しお金をかけて作ることを
提案したが、開設後にはその店の売上は倍になった(もっとだっけ?)。
店主は大喜びで僕は1食2万はするふぐとスッポンのコースを何度かふるまってもらったし、
彼女も連れて来いと言ってくれて一緒にご馳走になった。
店はその後改装までした。
少し営業で件数を取っても誰からも感謝されることは無かったが、
この時は大感謝をされたわけで、当然嬉しかった。
しかし、僕は良くても会社には一切利益にならないことで、
そこまで喜べなかった。
会社に取っては一つのクライアントに丁寧にフォローしている
よりは、どんどん取ってくる営業のほうが嬉しい。
僕はお荷物的な存在だったと思うし、僕もそう感じていた。
僕は会社の歯車にさえなっていない。僕1人がいなくても
会社は何も困らない。

そんなこんなで何とかやってはいたが、先が見えなかった。
なんかいきあたりばったりでやはり辞めることばかりを考えていた。

そんな状態なのに奥さんが結婚を意識するようになった。
ゼクシィを持ってきて結婚するか別れるか選べと言う。

お金も持っていなかったし、これで結婚しても良いのかなと
思っていたが、結婚すればもう少し将来を真剣に考えるように
なるかもと思って結婚した。そしてその後すぐその会社をやめ
1年間休業期間を作った。

(この続きはまた。書きはじめたら長くなってしまって、こんなつもりでは
なかったが、いい機会なので書いてしまおう。応募してくれる人に向けて
とも思ったが、僕の棚卸しにもなっている。)