一つ一つは小さくても積み重ねで大きな力になる!
まずはみんなで節電しましょう:)



【エアコン】(2.2kWエアコン(6畳用)の場合)
○暖房時に設定温度を1℃調整することにより、10%の消費電力を削減できる。
なお、フィルター目詰まりが無い場合、ある場合に比べて暖房時6%の消費電力を削減できる。


【温水洗浄便座】
○ふたを閉めることによる省エネ効果は大きく、貯湯式で11%、瞬間式で19%の削減効果がある。ふたが開いている場合は、ふたが閉まっている場合に比べて、便座表面温度も低くなり、冬期には貯湯式で平均2.4℃、瞬間式では平均3℃の差が生じている。
○便座部及び加熱部の両設定を中から低にすると、貯湯式で14%、瞬間式で12%の消費電力量を削減できる。
○節電モード(一定時間消費電力量が制御部のみとなる節電機能)を最大限利用すると、消費電力量を貯湯式で29%、瞬間式で25%削減することができる。これに設定温度の変更を組み合わせると、貯湯式で38%、瞬間式で33%の消費電力量を削減できる。


【冷蔵庫】(400 リットルクラス冷蔵庫の場合)
○冷蔵強度を強から中に変更したときの省エネ効果は、平均で11%。このとき、冷蔵室温度は1~2℃、冷凍室温度は2~2.5℃上昇する。
○冷蔵庫いっぱいに詰め込んだ場合に比べ、1/2 詰め込んだ場合詰め込み直後の電力は平均で8%削減できる。


【PC およびインターネット接続機器】
○PC 不使用時にコンセントを抜くと、デスクトップ/ノートブックPC でそれぞれ14%、24%省エネとなる。
○低電力機能として、モニタ電源オフではなくシステムスタンバイ、システム休止を使用すると、デスクトップ/ノートブックPC でそれぞれ14~15%、8~9%省エネとなる。
○PC の電源を常時オンしている場合、低電力機能をモニタ電源オフからシステムスタンバイやシステム休止に変更すると、70~90%省エネとなる。不使用時に電源をオフすると、80~90%近く省エネとなる。
○インターネット接続機器を使用する場合、PC 使用時のみ電源を入れると9 割以上省エネとなる。


【電気衣類乾燥機】(6kg ドラム式洗濯乾燥機及び5kg 独立型乾燥機)
○独立乾燥機において容量100%の標準ケースと容量変更ケース(80%、60%、40%)で乾燥運転を実施した結果、容量100%の運転が一番効率的。
○独立乾燥機において40%容量で2 回乾燥機を使用する場合に比べて、80%容量で1 回乾燥機を使用する場合は、消費電力量を年間で10%程度削減できる。
○独立乾燥機において目詰まりを除去した場合、フィルタ1/2 を目詰まりさせた場合に比べてエネルギー消費量を7%削減できる。
○年平均条件で自然乾燥試験を行った結果、8 時間後にまだ乾燥していないのは、バスタオル、パジャマ、ブリーフであった。これら3 種類の模擬洗濯物について、自然乾燥8 時間後の補助乾燥運転を行った。運転モードとして自動運転する場合と、単位運転時間ずつサイクル運転する場合を比較すると、自動運転よりも単位時間ずつのサイクル運転の方が消費電力量を半分程度に抑えられた。乾燥機のみで乾燥する場合に比べて、自然乾燥を併用する場合、消費電力量を7~8 割程度削減できる。


【ガス温水機器、TV等映像・音響機器等】
○家庭の消費電力量のうち約6%が待機電力消費。このうちガス温水機器など給湯機器の待機電力消費が約30%を占め、また上記のパソコンなどのほか、テレビやHDD/DVDプレーヤーなど映像・音響機器の待機消費電力も約25%を占める。こうした給湯機器、映像・音響機器についても使用するときにのみ電源を入れるようにすると大きな省エネ効果がある。


【照明】(60W 形電球形蛍光ランプ、白熱電球の場合)
○立ち上がりの影響による消費電力量増加は非常に小さく、再点灯までの時間が1分でも、一度消灯するほうが省エネとなる。


引用:内閣府ホームページ「各種家電製品の省エネ対策による効果試算」



とっても久しぶりの更新になってしまいました。


皆さん、MOAは元気ですよ!

今回は日本国民が心を痛めた出来事について
MOAの体験と心の内を綴りたいと思います。


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「東北地方太平洋沖地震」

2011年3月11日14時46分
マグニチュード:9.0
震源:三陸沖
震度:震度7  宮城県栗原市
   震度6強 宮城県、福島県、茨城県、栃木県
   震度5強 東京、ほか
揺れ:6分以上
破壊断層:南北に400キロ、東西に200キロ
     4つの震源領域で3つの地震が連動発生
     断層の滑り量は最大20メートル

余震:震度4以上80回

死者行方不明者:2万8343人
避難所生活者: 18万1000人

(データ:3月28日21時現在)
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【11日14時56分】

東京に住んでいる私は、5弱の地震を体験し、
恐怖感に包まれていたが、慌ててつけたテレビ
ニュース速報を見て愕然とした。

「震度7 宮城県栗原市」
「震度6強 宮城県、茨城県。。。」

中学・高校時代、家族と共に住んでいた仙台市。
また父の転勤で移り住んでいる実家は茨城県。

急いで家族に電話しても繋がらない。
とりあえず家族全員に無事の連絡メールを一斉送信。

少し経ってメールが届いた。
父と上の弟はそれぞれの会社から外に避難。
母は出先から車で家に帰ろうとするが、
家屋の崩壊や信号機がストップして道が
とんでもない事になっているという。。

家には祖母と下の弟の二人だけ。。。

とにかく私は、家族間の情報共有メールを作成して
それぞれの状況を皆に把握できるようにした。

余震が続く。

東京もあちこちで火災が起きている。
自宅外は消防車や救急車の音、
近所の慌ただしい声が途絶えない。


【15時50分~夜】

携帯の電波状況が混乱していてうまく連絡のやりとりが
出来ず不安な中、テレビニュースを見つめている私は
一気に血の気が引いた。

津波が私の知っている街を飲み込んでいく。。。

宮城県にいる友人・知人、もちろん電話は繋がらない。

なんでこんなことに。。。

津波襲来後、無惨に街の姿を消した瓦礫と
大規模な火災発生の光景。
もうニュースは見たくない。。。

幾度と繰り返される余震のたびに恐怖心に包まれる。
揺れている感覚が止まらない。

茨城の実家とは連絡を取る事ができなくなってしまった。

帰宅ラッシュの時間。
東京は交通機関の混乱で帰宅難民が溢れ
大パニックになっていた。

これからどうなってしまうのだろう。。。

私は一人、東京で、
暗闇の布団の中で無事を祈るばかりだった。


【数日後】

家族は皆無事だったが、ライフラインが滞り、
数日間避難生活を余儀なくされた。
ガス、電気が復旧し始め、一週間後に水道が復旧したらしい。

友人知人のほとんどは無事安否が確認できたが、
「実家や親戚、友人宅が流された。亡くなった。」
という悲しい知らせをいくつか聞いた。


スーパーでの品不足
ガソリンスタンドの大行列
福島第一原子力発電所事故
計画停電
放射能検出


問題がどんどん溢れてくる。

余震は止む事を知らない。


【28日23時】

今、私は自宅のパソコンでここに綴っている。

今回の地震は、
1900年以降では世界4番目の地震規模と観測され、
これによって生じた津波や原発事故の大惨事は、
今や世界中が注目し、世界の人々が日本のために
手を差し伸べている。

国内では民間の支援活動の輪が広がり、
いま一つになろうとしている。

あれからの私は。。。

遺体が映っている被災地の写真を見て、
希望の光さえも見失ってしまいそうなくらい
本当に悔やみきれない気持ちと、
自分自身と向き合って生と死に対して自問自答を繰り返す。

私はVYのMOAとして、
ひとりの人間として、
いま私にできること。
これから先私がすべきこと。

人の幸せを祈りながら、
人のために生きる。

心の傷、痛みは計り知れないけれど、
より多くの人々の力に、
これからの日本復興のために
力になると心に誓い、実行し始めている。


さあ皆さん、一緒に立ち上がりましょう。


一日も早く安心できる日が来ますように。


亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、
被災された皆様には心からお見舞いを申し上げます。


MOA


『インドネシア共和国』


首都:ジャカルタ
人口:約2億3000万人 (世界第4位)
面積:約189万平方Km (日本の約5倍)



約17,000以上の島々から成り立つ世界最大の島嶼国家。

約490の民族集団がそれぞれの多様な民族文化を継承している。



貧困と富が混在し、経済発展しビル群が立ち並ぶ裏には

スラム街やストリートチルドレン、物乞いがまだ多く存在する。




時間は、ゆったり、ゆったり、流れている。

インドネシア人はとても人懐っこく暖かい。




私は表も裏も知っている。








私がインドネシア語やマレー語を話すのは

知っている方も多いと思います。


私の第二の故郷。


向こうにも私の大切な家族(ママ、パパ、兄弟)がいて

沢山の友達や音楽仲間もいる。




もう何年も行っていないけれど

インドネシア関連のものを見たり聴いたりすると血が騒ぐ。

そして想いが込み上げてなぜか涙が出てくる。。。


みんなに逢いたいな。








いま私はある時を思い出しています。。。




ちょうど97年のアジア通貨危機後

ジャカルタの暴動が勃発した頃、

連日、学生デモ等で多くの人が亡くなり、

暴動によって街が破壊されて行く様は、

日本でも毎日テレビニュースや新聞記事となって

悲鳴を埋めつくしていた。


住民と警官・軍隊が衝突し、

石や火炎瓶が人々や建物に放り投げられる。

住民はお店の窓を割って商品を持ち出して逃げて行く。

血を流している人。泣いている女性や子どもたち。


映し出される映像、記事に心が痛めつけられる。

私は全てを食い入るように見て、最愛の人を探していた。。。

私が小学校の頃からずっと尊敬し続ける最愛の人の安否は。。。



いくら手紙を送っても返事が来ない。

郵便機能さえ滞ってしまっているのか。

もしかしたら暴動に巻き込まれて死んでしまったのではないか。

デモに参加して牢屋に入れられてしまったのか。



心配でたまらない私は彼に手紙を書き続けた。

学校から帰って家のポストを見ては溜息の毎日。

どんなに待っただろう。。。



暴動が落ち着いて、

しばらく月日が経ったある日、一通のエアメールが届いた。

差出人の名をみると、なんと、彼の名前。。。

私の鼓動は高まり、急いで母の元に駆け寄り、手を震わせながら

母と一緒にその手紙を読んだのを覚えている。




彼は生きていた。

それどころか音楽業界の最先端で忙しく活躍していたとのこと。

こんなに心配させといて。。。

でも良かった。




間もなく、私と母はインドネシアの地へ。

暴動の跡が酷く残っていたが、彼と時間・音楽を共有した。



インドネシアを深く研究する為、大学で国際開発を学び、

マレーシアにも長期研修で幾度か訪れた。

学生だったけれども何年目かにはインドネシアの公立

中学校・高校でインドネシア語で日本文化を教えていた。


"Selamat siang, semuanya !"

”こんにちは、みなさん!"


授業を始める挨拶。




その傍ら、彼が持つスタジオや出演するテレビ番組に足を運び、

沢山の歌手やミュージシャン、ホストとも交流を図っていた。

もちろん大学の卒業論文はインドネシアの音楽業界について。






暖かい家族、パパ、ママ、兄弟、メイド達に囲まれて

インドネシア人として育ててもらった。

今でも、ママから「いつも思っています」との言葉に

私は愛されていると心から感じる。




2004年までのインドネシア・ライフ。

あの頃の思い出は、私の永遠の宝物。




そして、私はインドネシアに恩返しをする為に

動き出す。




Saya rindu Indonesia...


$MOA NYANYI ― 心こそ大切なれ