コリンヤーガーの哲学の別荘

コリンヤーガーの哲学の別荘

30年温めてきた哲学を世に問う、哲学と音楽と語学に関する勝手な独り言。

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 バッハの作品には、バルティータと名付けられた作品として、チェンバロ、ヴァイオリン、フルートの作品があり、いづれも独奏(ソロ)作品である。バルティータとは、元々は「変奏曲」の意味であったが、バッハの時代にはいわいる「組曲」の意味となった。しかし今日バッハ以外の作品にこの名はほとんど認められない。モーツァルトのセレナード第10番 変ロ長調 KV-361、にモーツァアルト自信が自筆譜に「大組曲(グラン・パルティータ  Gran Partita)」と書いたと言われているが、その他には、かなりマイナーな作曲家の作品にしかバルティータという名は登場しない。バルティータという名の作品はほとんどバッハの独壇場である。

 では、バッハ自身は、組曲(Suite)とバルティータ(Partita)の性格の違いを定義していたかというと、そうでもなくむしろほとんど同じ意味であったようだ。

 バルティータがすなわち組曲であるとするならば、複数の曲からなる作品であるということになる。バッハにおいては多くの場合、複数の舞曲からなる作品構成をとる。

 また、バッハは器楽曲においては「パルティータ」と「ソナタ」を明確に構成を区別している。バルティータは序曲を含む場合はあるが、作品の各曲はすべて、サラバンド、アルマンド、シャコンヌなどの舞曲名がつけられている。これに対してソナタはアンダンテ、アレグロなどの速度を表す表記か、フーガなどの形式が使用されている。「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ」や「フルートとチェンバロのためのソナタ」と「無伴奏フルートのためのバルティータ」では、この区別は統一されている。すなわちソナタは後のモーツァルトの時代と同じ構成を持つのに対して、バルティータは基本的に舞曲を構成する組曲の中の1曲である。

 

 第2曲に有名な「G線上のアリア」を配する『管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068』の5曲の構成は、序曲とエール以外の第3~5曲は、いずれもバロック時代の舞曲形式である。

 

 1.序曲

 2.エール

 3.ガヴォット

 4.ブーレ 

 5.ジーク 

 

 当記事のタイトルにある「アルマンド」も舞曲の一種である。

 

 引用

 

 16世紀のフランスでは「地面に足をつけた中庸の遅さ」(トワノ・アルボ「オルケゾグラフィOrchésographie」1589年)の2拍子のダンスで、組になった男女が列を作って進みながら踊るダンスであった。パヴァーヌに似ているが、それよりは若干速いとされる。この時代のアルマンドのダンスは、アルマンド本体、retourと呼ばれる同じリズムの部分、それに続き拍が3分割されるクーラントと呼ばれる部分で構成されていた。イタリアに移入されたこのダンスも、同じようにアルマンド本体と3拍子のコレンテ、またはサルタレロなどが組になっていた。

 17世紀には作曲家によってアルマンドはテンポにある程度の自由度がある4拍子の舞曲にされた。

 その後の作曲家たちは自由な発想でアルマンドをとらえ、対位法を取り入れたり、さまざまな幅のテンポのものが作曲された。

 18世紀後期、拍子が3分割されるアルマンドが編み出された。ただし、アルマンドの拍子の3分割は、その起源から見られる。これはワルツの前身とも考えることができる。ただし、ワルツの起源はポワトゥーと呼ばれるブランルの一種から来るマズルカが起源と言う説が有力。

 

Wikipediaより

 

 この解説を読む限り、アルマンドは特定の形式というより、様々な変遷を遂げてきたようである。

 

 実はもう40年も前から、わたしはずっと疑問に思っていたことがあって、今回それについてかなり調べた。というのは、わたしがフルートで最も得意にしているレパートリーがアルマンド=バッハの『無伴奏フルートのためのバルティータ イ短調 BWV1031』の第1曲のアルマンドなのだが、この作品の記譜上の書法も、演奏する際のアクセントのつけ方も、『無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007』の第1曲に非常に良く似ているのであるが(比較のため両作品の1ページ目を譜例1.2に示す)、チェロの方は、「アルマンド」ではなく「プレリュード」となっているからである。

  

 

譜例.1

J・S・バッハ 無伴奏フルートのためのバルティータ

第1曲 アルマンド

 

 

譜例.2

J・S・バッハ 無伴奏チェロ組曲

第1曲 プレリュード

 

 

 一見しても分かるように、両作品の楽譜は非常に良く似ている。(チェロの方に記載されているスラー、強弱記号などは、出版編集者の解釈に基づいたもので、バッハの自筆譜はフルートの方のように本来何も指定されていないと考えられる。) 両作品とも書かれている音符はほとんど全部と言っていいほど16分音符のオンパレードである。

 

 フルートもチェロも基本的に同時に複数の音は出せない。なるほど弦楽器であるチェロは、弦が4本あるから一定の和音を出すことはできるが、それはきわめて限られた「和音」でしかない。ピアノのような多彩な和音は不可能である。

 このように管楽器や弦楽器は基本的に「単音」しか出せない楽器である。

 しかし、単音しか出せないということが「2声」の音楽を奏でることができないということを意味しない。譜例3.4は、無伴奏フルートのためのバルティータと、無伴奏チェロ組曲のそれぞれ第1曲の最初の部分だが、赤丸の部分は基本的に「ベースライン」であって、続く青字で囲った箇所を「高音部」と記している部分がアルマンド(プレリュード)の「旋律的なパッセージ」に相当する。

 

 

譜例.3

無伴奏フルートのためのバルティータ

第1曲 アルマンド 最初の8小節

 

 

 

譜例.4

無伴奏チェロ組曲

第1曲 アルマンド 最初の6小節

 

 

 基本的に単音しか出せない楽器の独奏曲では、2声はこのように音符の時間差を利用して作曲される。

 本来ピアノで弾けば、インテンポでも自由に複数音を発することができるし、低音部は主に左手(右手の場合もある)で鍵盤を弾くことで簡単に得られるが、フルートやチェロではそういうわけにはいかない。このような単音の楽器の2声を演奏する時、もし16分音符を同じ強さ、同じ長さで奏でると退屈な演奏になってしまう、そこで低音部のベースラインの音だけにアクセントをつける。譜例5のチェロの楽譜は、上段に『無伴奏チェロ組曲』の最初の2小節で、下段は低音部だけを取り出しているが、この低音部の、E-E-E-E は、ピアノであれば16分音符ではなく、2分音符として1/2小節でフレーズの全体の終了まで持続させることができる(緑の線のように持続したい)が、そうした演奏はチェロでは不可能である。そこで低音部の16分音符だけにアクセントを掛ける。その方法は演奏者の解釈にもよるが、たとえば、低音部だけを強く弾く、または低音部だけを少し長く奏でるなどの方法があげられる。

 

 

 

譜例.5

無伴奏チェロ組曲

第1曲 アルマンド 最初の6小節

 

 

 

 バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007

 ピエール・フルニエ  チェロ

 

 

 フルートの場合も同様に、低音部を強く吹くか、若干長く吹く方法がある。しかしフルートにはもうひとつ問題がある。管楽器であるために息継ぎが必要であるということである。テンポを速くすればするほど、16分音符の連続の間(あいだ)に息継ぎを入れつつインテンポを維持するのは困難になる。

 これは、譜例.6 に示した最初の16分休符の部分に低音部分が配置されていることの意味を解釈すれば、この作品の拍が、強-弱-中-弱、の強、中の後ろの7つの16分音符をアウフタクトと看做すことができ、低音部はフレーズの先頭であるが、5小節目の、G♯ を先行する4小節(緑の長方形で囲った)のパッセージの「終止」(緑太矢印)と看做すことにより、息継ぎを、G♯ の後ろ(赤逆V字の位置)で行うことで自然と音楽が流れる。当然この、G♯ の後ろは他の16分音符の連なりとは違う、記譜上に現れない「休止」の時間が加わることになる。この作品の多くの演奏がこの、G♯ の後ろに相当する4小節に一回の息継ぎである。曲の流れで違う位置で息継ぎする箇所が2つだけあり、作品全体の前半部であれば、多くの奏者は13小節目第4拍の、H の後ろで息継ぎする。(譜例.7)

 

 

 

譜例.6

無伴奏フルートのためのバルティータ

第1曲 アルマンド 最初の5小節

 

譜例.7

無伴奏フルートのためのバルティータ

第1曲 アルマンド 13小節目

 

 

 

 バッハ 無伴奏フルートのためのバルティータ イ短調 BWV1031

 ペーター=ルーカス・グラーフ  フルート

 

 

 ところで、チェロ組曲の第1小節の第1拍は、フルートのバルティータの第1拍の休符ではなく16分音符である。だがこれはこの作品が低音部のべースラインの音から始まるのではなく、やはり第1拍と第2拍の先頭の16分音符の後ろの7つの16分音符がアウフタクトを成す作品であると見下すことができる。ゆえに多くのチェロ奏者は、作品の一番最初の16分音符を強めかつ長めに演奏する。フルートの場合、高音ほど容易にフォルテが出しやすく、低音を強調する音で開始するのは高度な技術であるし、その最初の音を聴き取ることも難しい。ところが作品が始まってしまうと、すべての低音部のアクセントが時間として長めになるのは「しつこく」聴こえてしまうので、作品が進むにつれて、このアクセントは限りなくインテンポに収斂していく。ただし、フルートの息継ぎの定位置は、どうしても時間が掛かる。この位置は実はチェロもリタルダンドすることが多い。これはフルートの息継ぎの位置は、管楽器の呼吸の必要性のための場所ではあるが、それが同時に音楽自体の呼吸の位置であることを示している。

 わたしは以前シューベルトのピアノソナタ第18番についての記事で、「呼吸のない音楽は聴くものにとっても息苦しい」というようなことを述べたが、息継ぎを必要としない弦楽器であっても、「そこに呼吸がある」という前提で演奏するのであろう。

 

 では、実際の息継ぎという呼吸が必要ないだけでなく、和音においてもフルートやチェロのような限界から自由なピアノ(チェンバロ)の場合はどうなるのか?

 譜例.8は、バッハの『パルティータ(ピアノあるいはチェンバロのための)第2番ハ短調 BWV826』の第2曲アルマンドの 冒頭8小節である。この作品はアルマンドのタイトルだが『無伴奏チェロ組曲第1番』のプレリュードや『無伴奏フルートパルティータ』のアルマンドのように16分音符の連続で構成されておらず、むしろ、『無伴奏チェロ組曲第1番』の第2曲のアルマンドとの近似性を感じさせる。

 かなり無理のある分析だが、赤線はチェロやフルートの独奏楽器の楽譜を参考として拾った低音部の動きである。この一種のこじつけ的な低音部のみに注目した解釈は、ピアノ奏者には理解に苦しむであろう。ピアノ奏者にとって、この作品の対位法上の意図は明らかである。それは右手の旋律の対位旋律が2泊遅れて左手に現れる輪唱のような語法がフーガをもたらすという理解である。中学生くらいで、手の平がオクターブを同時にたたけるころになると、バッハの『インヴェンション』を習うが、右手と左手の時間差とその対位旋律が、和声的な根拠を持っていることを意識することが、ピアノ学習者の青少年にとってとても大切な体験となるのである。『インヴェンション』の第1曲ハ長調は、技術的には困難な作品ではないが、それは音符を書いてある通りに弾くということにおいて困難ではないという意味である。しかし『インヴェンション』を学ぶということは、対位法が和声に裏打ちされた「和音」を構成軸としていることを中学生のピアノ学習者は知るのである。

 ツェルニーに代表される小学生のピアノ鍛錬は、旋律に対する和音の変化をもって、言わば、歌曲や歌謡曲に対する伴奏の「和音」としての「和声」を学ぶが、対位法の理解にはバッハの練習が欠かせない。譜例8の緑色の囲いは、右手に2拍送れて左手に対位旋律が現れる作品全体の構成を最初に示すものである。また青で囲ってトリルと紫で囲った32部音符もチェロ組曲のプレリュードとフルートバルティータの終曲部以外には登場しない。こうした16分音符の連なりを壊す変形は、フーガへの発展のための旋律にバリエーションを加える音楽の展開の豊富さを込めるバッハの工夫である。

 すなわち、バッハはピアノ作品においては、アルマンドという舞曲に、3声、4声の対位法楽曲を目指しているのであって、独奏楽器のアルマンドから鍵盤楽器の楽譜を解釈するのは無理がある。むしろ独奏楽器であり、単音しか出せない楽器ではフーガは実現できないが、2声を込めて単音の限界を超えた対位法的な奥行に挑戦しているのである。もっとも、無伴奏チェロ組曲の最初の2小節の音形を見ると、E-H-F♯-G と E-C-A-G という和声を背景とする分散和音とも解釈できるが、対位法が常に和声の根拠を持って展開されることが示されている。単音で実現しないフーガへの発展は、この和声の2声的処理において内発的に移行していくのである。

 また、鍵盤楽器における対位法的楽曲の主題の展開を支える音楽の息継ぎ箇所という点では、フルートの息継ぎという自然な休止箇所はピアノ奏者にも多くの示唆を与えるものであろう。その休止を長く取るか、ほとんど取らないかは奏者の解釈だが、たとえほとんど取らないにしても「歌」のフレーズの一段の終焉を意識して演奏するかどうかで聴き手に安心感を与えられるかどうかが問われるのは明らかである。

 

 

譜例.8 バッハ  バルティータ第2番 ハ短調 第2曲

アルマンド

 

 

 

 バッハ  バルティータ第2番 ハ短調 BWV826

 グレン・グールド ピアノ

 

 ところで、最初に示したわたしの40年近くの疑問、すなわち譜面上におけるバッハの無伴奏チェロ組曲の「ブレリュード」と無伴奏フルートバルティータのアルマンドの近似性と、ではなぜ前者が「プレリュード」で後者が「バルティータ」なのかという疑問についてである。

 

 これに対する明確な答えは実のところ見つからなかった。

 

 だが、ひとつの傾向は示すことができる。

 

 無伴奏チェロ組曲第1番の第2曲は実は「アルマンド」のタイトルであるが、その旋律的パッセージは、(ピアノのための)パルティータ第2番の「アルマンド」と非常に良く似ている。曲想はだいぶ違うが16分音符の連なりをトリルと符点のリズムが中断する点に注目してほしい。(譜例.9)

 

 

譜例.9 バッハ  無伴奏チェロ組曲 ト長調 第2曲

アルマンド

 

 では、アルマンドとはどういう舞曲であったのか?16分音符の連続を特徴とするのか、それとも16分音符の連続に、トリルや符点リズムや32部音符の挿入による変化を伴う旋律を特徴とするのか。舞曲がどのような舞踏を補佐する音楽であったかは必ずしも明らかではないし、その舞踏自体が今日明確には伝わっていないのである。

 だが、バッハが非常に似通っているチェロ組曲のプレリュードとフルートバルティータのアルマンドを、そのタイトルは別として同じ精神で作曲したことは間違いない。 

 この特徴はピアノのための『バルティータの第1番 BWV825 第2曲』(譜例.10)のアルマンドにおいて、16分音符の連なりを主とする作品にも見られるが、唯一フルートとビアノの作品は、アレグロの速さを基本とするのに対して、チェロのプレリュードはゆったりと演奏されるべきで、「歌う」ように奏でられる。これは、ピアノバルティータの第2番 第2曲 のアルマンドがやはりアレグロの速さを否定してゆったりとしていることに共通することで、同じアルマンドでも符点のリズムを含むことで、おそらく舞踏の動きがリズムの作品の主張に対して速いパッセージを望まないものであった事を示している。しかしピアノパルティータの第1番の第2曲アルマンドは16分音符の連鎖をリズミカルにスピード感を持って演奏されるべきであり、(譜例.10) その流れるような曲想はフルートバルティータのようである。

 

 

譜例.10

バルティータ第1番 変ロ長調 

第2曲 アルマンド

 

 ようするに。バッハの舞曲アルマンドというタイトルが示すものは、4拍子を基本とし、16分音符で2拍1小節をフレーズとし、プレリュードすなわち前奏曲としてゆったりとしていたり、組曲の第2曲の性格として早いパッセージを基本として時折見せる符点のリズムとトリルに彩られるというべきものであり、「アルマンド」がどのような形式かを画一化することはできないのである。最初に説明したフルートのアルマンドとチェロのプレリュードは、確かに2声を単音で示す技術ではあるが、その他の作品は必ずしも16分音符を2声に分担させるようには作曲されておらず、バッハが常に形式美を追求した作曲家ではなく、音楽そのものに寄り添った、もっとロマンを求めていた作曲家であったことを示す。理論的には、バッハの音楽はフーガや変奏において構造的な特徴を示すが、作品の目指す結果はロマンティクに歌う音楽の自由を謳歌している。だから2声のためにインテンポを崩し、管楽器奏者の呼吸の間を与えても成立し、聴く者に感動を与えるのである。

  

 さて、CDだが、まずチェロから。

 わたしはフルート、ピアノ、声楽を奏でるが、弦楽器はまったく素人で、音も出せない。そのこともあって『無伴奏チェロ組曲』について必ずしも多くを聴きらべてはいないが、ピエール・フルニエのCDは素晴らしい。

 

 

バッハ 無伴奏チェロ組曲 全集

ピエール・フルニエ  チェロ

 

 符点りリズムの挿入と、それに伴うトリルは16分音符の連続の旋律を損なうことなく音楽の流れを邪魔しない。

 

 

 

 バッハ 無伴奏チェロ組曲 第1番

 パプロ・カザルス  チェロ

 

 カザルスの奏法は、あくまでもインテンポを目指す。よって低音部のフォルテに対して高音部のパッセージの弱音化を徹底して高音部をきわめて優しく奏で、2声が意識される。

 

 

バッハ フルートソナタ 全集

ジャン=ピエール・ランパル

 

 

 音色、解釈という点でこれほど申し分ない演奏はない。フルニエの演奏と違って、低音部を長めアクセントを避ける。フルニエも最初の部分では2声の主旋律とするパッセーじを強調するために、ゆったりとしたアゴーグで作品を立ち上げるが、つづく部分ではなるべくインテンポに向かう。それは聴き手にこの音楽が2声を意識していることを印象付けるためだが、音楽の流れはいつまでもアゴーギグに支配されては重たくなることをフルニエが理解していることを示す。2声のために低音部の強調を目指すとは言え、低音部が繰り返し長めの音になるインテンポ逸脱は音楽の流れを止めて、聴く者にとって不快な消化不良となる。

 ところがフルートでは息継ぎでスピードダウンは避けられない。よって他の部分ではインテンポを尊重する。

 

 

 

バッハ 無伴奏フルートのためのバルティータ

渡邊 玲奈

 

 彼女の演奏は、先にあげたグラーフやランパルより遅いテンポで、その代わり過度なアゴーギグを廃していて、落ち着いたアルマンドである。音はランパルの透明性に近く、透き通った美しさである。これに対してグラーフは少し深みのある倍音が利いた音である。

 

 余談だが、わたしも発表会でバッハのアルマントを演奏していて、そのDVDもあるが、3箇所の違っていて、恥ずかしいのでこのブログには掲載できない。

 

 わたしはフルートという楽器を習って良かったとつくづく思う。この楽器は音色では、ピアノに出せない独自性があって、それは音楽を愛するがゆえにわたしがほれ込んだ理由でもあるが。フルートにせよチェロにせよ、単音楽器に宿命けられた楽器としての限界は、ピアノのような「交響的」な同時の和音を禁じられていることにある。

 だが、そういう限界において奏でようとする奏者の技術は、単音を乗り越えて2声を実現する。

 わたしは3歳からピアノに接してきて、ピアノのすぐれた楽器の性質としての「自由」を感じ取っていた時点では、「ピアノさえ上手くなれば音楽を支配できる」という思い込みであった。ビアノの「自由さ」は楽器の能力の問題である。ピアノほどには叶わず、和音が制限されるチェロなどの音楽作品が、実はその限界を超えて単独で「交響的」に奥行きを目指す(2声を体現しようとする)ということを、わたしはフルートで学んだ。その結果、わたしのピアノ練習は画期的に変わった。ピアノ演奏では右手だけで2声。3声を求められる場面があるが、それを楽譜上の音を拾っていくだけでは何の意味もない。自分の小指だけが奏でていてしかしそれが右手の他のパッセージとは別のバスパートを意味するから、小指に込める精神は、他の指とは違う流れを表現せねばならない。そういう風に練習することがいかに困難で大切だということである。

 ぜひ、ピアノを愛する人に、無伴奏のバッハのチェロ組曲やフルートバルティータ、ヴァイオリンバルティータを聴いてほしいと思う。

 

 おわり