甲斐武田を探検っ!!

甲斐武田を探検っ!!

山梨県内には甲斐武田氏の史跡や伝承地などが数多くあります。
メジャーなものから、むむっ?ってものまで。
楽しんでご覧いただき、山梨をぶらぶらする際に少しでもお役に立てれば幸いです!
諸事情により同名HPから修正しつつ引っ越し中・・・。
<since2006/8/11>

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跡部氏(伊賀守系)の所領があった、千塚地区にある八幡神社です。西を流れるは荒川、大永元年(1521)10月16日に飯田河原、そして同年11月23日上条河原で武田信虎率いる軍勢と駿河勢が激突し、武田勢が勝利した場所です。

現地石碑によると、この八幡神社は武田氏が代々保護し、また今川勢との戦いでは武田信虎が本陣を置いたと伝わります。

なお、跡部伊賀守(攀桂斎祖慶とも)は菩提寺攀桂寺では信秋とも伝わりますが、一次史料などには見ることができず、信用はできないようです。

 

住所:山梨県甲府市千塚

写真撮影日:2019年6月1日

参考資料など:現地石碑・武田氏家臣団人名辞典・甲斐国志・武田氏年表/編 武田氏研究会など

 

 

曹洞宗香陽山妙善寺。

信虎時代などに甲府盆地東部に強大な勢力を持った栗原氏。その栗原氏館跡の大翁寺近くにあり、こちらの寺院周辺も方形の区割りが残されているなどするので、妙善寺も栗原氏の館跡ではなかったか?とも言われています。

妙善寺開基は栗原氏の妙善寺殿光山存智大禅定門。

本堂左手前に、妙善寺殿の供養塔があります。側面には栗原氏の御子孫が、享徳4年(1455)5月21日に死去した栗原出羽守信明の供養のため建立したと記されています。

しかしながら、一蓮寺過去帳などによると栗原信明は明応2年(1493)4月9日に死去しています(法名 臨阿弥陀仏)。武田信縄と油川信恵兄弟による争乱が行われた時期です。

さらに「妙善寺殿」という法名は、甲斐国志では信明の父、出羽守信通(信道とも)のものと記されています。信通は康正元年(1455)5月21日に死去しています。信通とその子信明は同じ出羽守を称したなどで、混合されてしまったのでしょう。

信明は信通次男であり、兄信続が死去した際まだ若い兄の子信尊に替わり栗原氏の実権を握ったと考えられています。

 

 

住所:山梨県山梨市上栗原

写真撮影日:2019年4月8日

参考資料など:甲斐武田氏と国人の中世「国人領主栗原氏の武田氏被官化過程」/秋山 敬・武田氏家臣団人名辞典・武田氏年表/編 武田氏研究会・図解山城探訪 第16集/宮坂武男など

 

浄土宗石傳山養安寺は栗原氏の館跡とも伝わります。養安寺近くには同じく栗原氏館跡と伝わる大翁寺があります。大翁寺の館は一族の中心人物が住み、養安寺の館は栗原氏支流?が住んだのでは?といわれています。

現地石碑によると、要安寺開基は栗原伊豆守信友。彼は天文21年(1552)4月21日に死去、養安寺に葬られたと伝わり、法名は養安寺殿寥山道廊大居士。しかし一蓮寺過去帳によると享禄2年(1529)11月5日死去となっており、寺に伝わる没年は誤りであろうと思われています。

信友は信遠の跡を継いだと考えられており、甲斐国内で大きな勢力であったと思われています。そんな中、永正17年(1520)5月、信友は武田信虎と対立し他の有力国衆とともに甲府を退去します。

しかし6月に信虎に敗れ、武蔵国に逃亡しますが、後に帰国し和睦したようです。

境内には寛永8年(1631)11月13日死去した栗原左衛門尉信盛墓所があります。養安寺に伝わる法名は栗原院殿芳誉連西信盛大居士。

信盛は天正2年(1574)から文書にあらわれ、その内容から公事奉行であったのではと考えられています。しかし天正9年(1581)3月を最後に名前が現れなくなります。

養安寺には、信盛は信友の子と伝わりますが明らかに年代が離れています。まだまだ不明な点が多い栗原氏なのです。

 

 

住所:山梨県山梨市上栗原

写真撮影日:2019年4月27日

参考資料など:現地石碑・甲斐武田氏と国人の中世「国人領主栗原氏の武田氏被官化過程」/秋山 敬・武田氏家臣団人名辞典・武田氏年表/編 武田氏研究会・図解 山城探訪 第16集/宮坂武男など