いい毒夢気分 -2ページ目

いい毒夢気分

千葉発地獄行き。

 8.6秒バズーカーがブレイクしたネタに出てくる「ラッスンゴレライ」というフレーズはネタの中では意味が明かされない。つまり「意味不明な言葉」であることがポイントなのだが、「いや、実際には何か隠された意味があるはずだ」と考える人がいるようだ。
 そういう解釈が「アリ」ならば、俺もそういうものを書いてみようと思う。

 実は「ラッスンゴレライ」には、はまやねんと父親との約束が隠されている。
 はまやねんの小学生の頃に父親が病気でなくなっていることを皆さんはご存じだろうか。
 元々は胃がんだったのだが、のちに肺などへの転移がみつかり、長い入院と闘病生活の末に亡くなっているのだ。
 はまやねんも毎週末には必ず見舞いに通い、父親の回復と退院を願った。
 面会時の二人の会話では度々将来の夢が語られた。
 当時『エンタの神様』などのお笑い番組に夢中になっていたはまやねんは「大きくなったら芸人になる」とその頃から思っていたようで、テレビで見た芸人のネタを真似て見せたり、自分が考えたネタを披露して父親を笑わせるのが好きだった。
「僕が芸人になっていっぱい稼いでお父さんの好きな物を何でも食べさせてあげるよ」
 はまやねんがそう言った時、父親は少し悲しいに顔になって答えた。
「ありがとうな。でも父さん、胃をだいぶ切っちゃったし、食べられるものも制限されているからなあ……」
 はまやねんの父親は食べることが好きで、若いころには食べ歩きを目的に海外へ何度も出かけたという話を息子にも聞かせていた。
 また好きな物を好きなように食べられれば元気になるのではないかという子供なりの気づかいを一度は否定されかけたはまやねんだったが、それを約束という形にしてみせる。
「じゃあお父さん、僕は必ず芸人になってお父さんにご馳走する。だからそれまでにお父さんは何でも食べられるように元気になって! 約束だよ」
「そこまで言うなら、父さんも約束するよ」
「じゃあ、何が食べたい? なんでもいいよ」
 それに対して父親はいくつかの食べ物を挙げていった。
 故郷の函館でよく食べたラッピ(ラッキーピエロ)のハンバーガー。
 韓国で食べたスンドゥブ・チゲ。
 インドネシアで食べたナシゴレン。
「ごはんやおかずだけじゃなくてデザートも考えないと!」 
「そうだな、たくさん食べた後ならさっぱりしたものがいいなあ。父さんは中華の後に食べるライチが好きだな」
 急かして食べたいものを挙げさせたはまやねんだったが、それを一度に覚えることが出来なかった。
 名前の頭の文字をつなげて覚えてみたらどうだろうという父親の提案で
「ラッピのハンバーガー」の「ラッ」、
「スンドゥブ・チゲ」の「スン」
「ナシゴレン」の「ナシ」
「ライチ」の「ライ」
 これらを繋げて「ラッスンナシライ」という言葉ができあがる。
その後「ナシ」だと果物の梨と混同するという事で「ナシ」の後の「ゴレ」の部分を残すことにして「ラッスンゴレライ」という言葉が生まれた。
 それを忘れないように、何度も何度も「ラッスンゴレライ」と唱えるものだから、そこまでのやりとりを知らない母親が「そのおかしな呪文みたいなものは何なの?」と尋ねたが、はまやねんと父親は「男同士の約束だよ」と言って笑いあったという。

 それから数年後、約束の「芸人になる」という部分は果たされたが、父親は他界し、食べたいものを食べさせることはとうとう叶わなかった。

 ある日、8.6秒バズーカーの新ネタ作りの中で「はまやねんの発する意味不明の言葉に振り回される田中シングル」という大枠ができた。
 リズムに乗りやすく、聞いても意味が分からない文字列を二人で考えていくうちに、はまやねんが「ラッスンゴレライ」はどうだろうと提案する。
 その時に初めて「ラッスンゴレライ」を聞いた田中はそこに意味があるとは思っていなかったし、ネタにはめてみた感じがしっくり来たので「それで行こう」となってネタ作りを進めていった。

 完成したネタに手ごたえを感じ、初披露となる舞台を迎えたふたりだったが、結果はさんざんだった。
 滑ったというのとはちょっと違う。
 ネタの最中にはまやねんが突然涙を流しだしたのだ。
 打ち合わせには無いことに田中はうろたえ、その後はうまく噛み合わずにボロボロ、客席も何が起こっているのかわからずにざわついたという。

 その日の反省会で、当然どうしていきなり泣き出したのかという話になり、はまやねんはそこで初めて「ラッスンゴレライ」の意味について田中に明かした。
 ネタをやりながら父親との約束を思い出し、涙が止まらなくなったのだという。
 話は理解したものの舞台上で泣かれてはどうしようもないので、このネタはやめるか別の言葉に差し替えようと田中が提案した。
 しかし、それに対してはまやねんはこのまま続けると食い下がった。
 「確かに約束通り芸人にはなった。でもまだ父さんに何でも食べさせてやれるほど稼いでない。
 約束の半分も叶えてないんだよ。
 でも俺は絶対にそれぐらい稼げるようになる。
 その約束を常に心に刻み付けるためにも、このネタの中で使いたいんだ!」
 熱意に打たれて田中はそれを受け入れることにしたが、同時にひとつの提案をした。

「お前がまた舞台上で泣いたとしても俺はそれを責めない。
 でも見ているお客さんにはそういう訳にはいかないだろ。
 だから、泣いてもわからないようにサングラスをかけろ」

 今の彼らの舞台衣装であるサングラスは、これがきっかけで始めたものである。このネタの時だけサングラスをかけるのは不自然なので常にサングラスを着用するようになり、それが今も定着しているのだ。
 舞台上のはまやねんの顔をよく見たら、今でもサングラスの下では涙を流しているのかもしれない。




 まあ、全部嘘なんですけどね。
 嘘とは言え、人の親を勝手に死なせてすみません。
 長い人生を生きていても閉鎖病棟に入る人間は少ないと思うし、となると友人が閉鎖病棟に入ることすら多くの人が経験することではないのだろう。
 件の友人が今月の頭にメールを寄越した。
 件名には閉鎖病棟に入院することになった事、本文には私物が持ち込めないので連絡は取れないこと、遠いので見舞いには来なくて良いということが書かれていた。
 今日まで、本人と直接連絡を取ることはできず、彼の母親と連絡を取る事はあったのだが、当然明るい内容ではない。
 そして今日、退院した彼からメールがあり、明日会う事になった。
 俺はどんな顔をして彼に会えばよいのだろう。
 人からそう問われれば「笑えばいいと思うよ」と答えるヱヴァ脳だが、それを今回適用できるとしたらどうかしている。
 それでも、きっとできるだけ普段通りに接するのだろうけど、普段通りに接することを意識した時点でそれは既に普段通りのそれではない。
 もう、この時点で気が重いのだけれど、彼の送ってきたメールには「ゴアゴアガールズ等のDVDがあります」と書かれている。
 それを一緒に観ようという事だろう。
 俺はついこの間まで「死にたい」と言い続けていた彼と、人が無残に死にまくるスプラッター映画を観るのか。それこそどんな顔で?
 こんな時、長年低い位置で安定していた「一番面白い野々村」をあっさり更新したあの人のように厚かましくみっともなく振舞えればどんなに楽だろう。
 と書きながら、彼はそのニュースをギリギリ知らないのだと気付く。
 彼はあの映像を見たら笑うのだろうか。それとも別の反応を示すのだろうか。
 20年という歳月を友人として過ごしてきても、俺にはそれすらわからないのだ。
 特に何事もなく、心に何のわだかまりも残さずに明日を過ごせたら、その時は『ゴアゴアガールズ』の感想でもこのブログに書こうかな。
 ひと月ぶりに会った友人が死ぬ気満々でした。
 いや、ちょっと違うな。
 ちょっとやる気出したら死んじゃうんじゃないかと言う風情でした。
 上の行の言葉はおかしな言い方かもしれないけど、本当に鬱の酷い人と言うのは「死ぬ気力」すら無いそうです。
 そこをちょっと励ましてやる気を出させてしまうと、そのやる気が全て死ぬための行動力として使われてしまう事もあると聞きました。だから鬱の人を、それに関する知識の無い人が中途半端に励ましたりしてはいけないのだ、と。
 彼はもともと鬱で病院に通っていたのだけど、昨年就いた仕事が完全にブラックで忙しくて病院に行く暇も無くなり、ついに薬が切れて朝目が覚めても起き上がる事すらしたくない状態になり、なんだかんだあって結果今は仕事をやめたそうです。
 前々から「死にたい」という言葉は度々聞かされてきたし、その度に心配はしてきたのだけれど、今回はかなり具体的な話まで聞かされてかなり焦りました。
 俺に大きな影響を与えてくれた友人だから、当然死んで欲しくないのだけれど、だからと言って「死ぬな」と言ったことは今までに一度もありません。
 なぜなら俺だって死ぬ勇気が無いだけで、心のどこかでは常に死にたいからです。
 「頑張れ」なんて言えません。
 自分が頑張って人に言えるような結果を残していないんですから。それは頑張れば報われる世界を見せられる誰かが代わりに言ってください。
 「生きてればいいことあるよ」なんて言えません。
 だって、生きるに値するほどの「いいこと」に自分が出会っていないことを、長い付き合いである彼はよく知っていますから、それが嘘だという事はバレバレです。俺に示せるのは生きるに値するほどのいいことが無くても人は生きていける、とりあえず。ということだけです。
 それは生きる希望でも何でもないただの事実で、口に入れるすべての食事が不味かったとしても人は生きてはいけるというのと同じレベルの話でしかありません。
 俺に言えるのは、同じ学校に通っていた同級生の近況とかどうでもいい話です。
 たとえば30代半ばにしてAV業界の仕事に就いたMというヤツが、40にして監督もするようになったのだが「俺が今……、せめて10歳若かったらハメ撮りとかもやってたよ」という発言。
 知らない人にとってはこの話の何が面白いのかわからないだろうけど、俺はこれが彼のツボにはまるだろうことが予想できたし、その通り面白がってくれました。
 次に会う時にはもっと面白い話を用意しておくよ。口には出さないけれど、いつもそういう
気持ちでいます。気持ちに追いつくほどの面白い話が用意できたことはそんなに無いのだけれど、ちょっとぐらいは期待してくれないかなあと思いつつ。
 まあ、俺がどんなに面白い話を用意したとしても、それが彼の希望にならないことは知っています。
 俺には自殺した知人が二人います。知人という言い方が正しいのかわからないけど、とにかくここではそういうことで。
 そのうちのひとりはmixiでたまたま日記を介して知り合い、ネット上だけでやりとりをする間柄でした。
 彼女は自分の日記でたびたびその猫好きぶりを語っていましたが、家族同然に可愛がっていた愛猫を残して命を絶ちました。
 その人はその以前にも一度自殺未遂をして、風呂場で重体になっているところを助けられているのだけれど、その直後に「この子(猫)がいる限りは死なないと思っていた。この子が私の生きる希望だと思っていたけれど、実際死のうと思ったら関係なかった。今度は誰からも止められないようにやる」という内容の書き込みをし、その後mixiとTwitterのアカウントを削除しました。リアルでの交流がなかったので、その後彼女との連絡は一切取れていません。
 だから実際に自殺したかどうかは本当はわかりません。だけど、人の命をこの世に繋ぎとめておくだけの絶対の存在なんて無いのだということだけはその時わかりました。
 それでももしかしたら俺の話を楽しみにしていてくれないかという、かなり微かな確率に賭けて、面白い話を探します。
 ただしそれは、彼のためになどという話なんかではなく、彼が生きている未来の方が俺にとって面白いから、という自分のわがままのためです。
 だからもしかしたら、明日死んでいるのは俺の方かもしれないけれど。

 あと、こういう事を書くと本気で心配してくれる人がいるらしいんですけど、それには及びません。上にも書いた通り、人は誰が心配しても、生きる希望に見えた何かがあっても、死ぬときは死にます。そこはもう話のベースとして動かないラインです。
 それを踏まえた上でも、当面俺には生きるに値するほどいいことも無い代わりに、今すぐ死ななきゃならないほどの悪い事も無いので、まあ死なないでしょう。
 明日出さなきゃならない書き物があって今現在全く手つかずなんだけど、これは……そこまで深刻でもないかなあ。