AILI thanx to 石川マリーについての説明・解説する

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すでにいったように、知識の客観性は、形式主義者の考える如く単に表象の普遍妥当的な結合を意味するに止まらないで、知識が客観に関係付けられていることを意味している。そこには客観の超越がなければならぬ。しかるに物が客観として超越的であるということは同時に我々が主体として超越的であるということである。超越性を離れて客観性はなく、また超越性を離れて主観性はない。客体の超越と主体の超越という二重の超越によって認識は可能になるのであり、それは同時に行為の可能になる条件である。意識の外に物があると考えるのは素樸な見方であるというのは、存在するとは意識に与えられることであると考える観念論の偏見に過ぎず、かような偏見は物と我々との関係を主として知識の立場から見てゆくことに関係している。行為の立場において主体といわれるのは単なる意識でなく、身体を具えた自己である。我々自身、いかに特殊なものであるにしても、世界における存在の一つにほかならない。意識の外に存在を認めるか否かが唯物論と観念論とを区別する基準であるとエンゲルスはいったが、かくの如く考える場合、唯物論は観念論と同じように知識の抽象的な立場に立っているのであって、自称する如く実践の立場に立っているとはいわれないであろう。行為の立場においては物は単に意識の外にあるのでなく、却って身体の外にあるのでなければならぬ。認識も世界における存在と存在との関係である。我々と物との基本的な関係は行為の関係であって、認識の問題も行為の立場から捉えられねばならぬ。