松阪散策・射和の豪商1

 

竹川、国分家

 

2019(令和元)年10月30日(水)

 

 

みたらし団子で有名な白子屋さんです  12:35分

 

 

白子屋さんから尾鷲方面に進み最初の道を左(東)に入ります

 

 

まず左側に竹川家の家が見えます

 

 

竹川家は主に両替商を営み財を成しました

 

 

竹川竹斎は、文化6年(1809)に射和の豪商

 

竹川家の分家、東竹川家に生まれました

 

父は本居宣長の門下でもあった正信(まさのぶ)

 

母は、賀茂真淵の高弟、荒木田久老(ひさおゆ)の娘,菅子でした

 

 

12歳の秋、家業見習のため江戸に入りますが

 

恵まれた学問的環境で育ったこともあって国学はおろか

 

農政学をも修めました

 

また後に明治維新の立役者となった青年期の勝海舟

 

実弟竹口信義や国分信親らとともに支援し、その行動を支えました

 

嘉永6年(1853)のペリー来航に刺激を受け

 

『護国論』や『護国後論』を著し、勝海舟を通し幕府に提出するなど

 

慶応2年(1866)には、幕府勘定奉行の小栗上野介や

 

老中、小笠原壱岐守と面談し、国策について意見しています

 

また郷里にあっては、ため池の整備や

 

桑、茶園の開発を進め、地元の繁栄を図り

 

万古焼の復興を試み、射和万古を興すなど大きな足跡を残しています

 

殊に24∼5歳の頃、開設した射和文庫

 

10,000ばかりの書を集め

 

志ある人には、心安く読ませようと多額の私費を投じ開いたもので

 

日本の私学図書館の草分けともいうものです

 

名実ともに完成したのは嘉永7年(1854)とされ

 

書籍のほか古瓦、古鏡、古銭なども収蔵され

 

勝海舟から贈られた扁額も掲げられていました

 

日本

 

毎月の例会には、自らも古典などを講義し

 

時には茶をたて、歌を詠み、香をきくなどして

 

さながら文化サロンの様であったようです

 

明治15年(1882)に74歳で亡くなりますが

 

その功績を後世に伝えるため

 

村民や親交のあった人々の手により、様々な顕彰碑がたてられています

 

現存する竹川家は玄関、茶室、座敷などが

 

その当時のままに残されており

 

勝海舟、山岡鉄舟などの書も大切に保管されています

 

竹川家と道を挟んで右側に長い黒塀の国分家があります

 

 

左竹川家、右国分家です

 

 

国分家は代々の当主が勘兵衛を名乗り、現在の当主は12代です

 

国分家は江戸の富山家に仕えていた

 

第4代勘兵衛が、1712(正徳2)年

 

屋号を大国屋と称し、江戸日本橋本町で呉服商を始め

 

常陸陸国(今の茨城県)土浦で醤油鋳造業に着手したのが始まりです

 

 

関東平野の上質な大豆と小麦を原料とした大黒屋の醤油は風味で

 

『亀甲大』印の醤油として評判も良く

 

殊に銘柄【むらさき】は高級醤油として

 

今でも料亭や寿司屋では、しょうゆは、むらきと呼ばれています

 

 

大国屋の醤油は江戸中で高い評価を得るとともに

 

土浦藩の御用達として

 

また、江戸城西の丸の御用も務めていました

 

その後、明治維新を迎え1880(明治)年に醤油業を廃止し

 

広く食品販売を業とする卸売業(問屋)となりました

 

1887(明治20)年、缶詰の販売を開始

 

翌、明治21年にはビールの販売

 

1908(明治41)年には『K&K』を商標登録し

 

1919(大正8)年に、新たに誕生したカルピスの将来性に着目し経営企画

 

創業以来、日本橋に本社を構え

 

国内全域にわたる流通ネットワークとともに

 

中国、アセアンを始め海外60カ国に食品を販売するなど

 

国内有数の食品卸業として創業300有余年の歴史があります

 

振り返ります

 

左が国分家、右が竹川家です

 

 

国分家の蔵です

 

 

今も残る射和の豪商、竹川・国分両家で

 

道一つ隔たてところにあったのは驚きでした