松阪散策:射和~中万
2,019(令和元)年10月30日(水)
まず松阪市の射和、中万地区の位置図です
松阪の最南に位置し
櫛田川を挟んで多気町と接しています
松阪市射和町や中万には、大きな屋敷を構えた豪商の邸宅が数多くあります
射和は松阪よりずっと以前から繁盛していたところで
そのもとになったのが水銀化工業でした
射和に近い勢和村丹生は古代から日本最大の水銀産地として栄えていました
中勢に入り、この水銀を利用した軽粉製造業が射和に発生し
室町時代以降、伊勢神宮の御師が布教とともに各地に軽粉を持ち運び
伊勢白粉として全国に知れ渡りました
最盛期の室町末期には射和では窯元が83軒
戸数も500以上を数えたと言われ、この繁栄が射和に富をもたらし
名産の軽紛や木綿を扱う射和商人は
江戸時代初期から江戸や京都、大坂に松阪木綿の店を出し
大繁盛した松阪商人の先駆けでした
射和には、『亀甲大』印醤油の国分家
射和文庫まで造った竹川家、わらべ歌にまでうたわれた富山家
その他、家城家、山本家、長井家、小野寺家、小林家など
多くの豪商の子孫が営々と現在まで家督を継ぎ
大きな屋敷や邸宅を維持されています
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射和村は江戸時代の初めのころは鳥羽藩領でした
延宝8年(1680)幕府領に
天和元年(1681)ころから再び鳥羽藩領に戻っています
安政4年(1857)の家数は348軒、人数は1,280人とあります
一方、中万村も伊勢商人の発祥の地として知られ
軽粉や木綿を扱う紺田家、堀木家、竹口家、山上家などの豪商がいました
寛永年間(1748~51)の家数は171軒、人数は699人でした
街並みを歩くと豪商の邸宅も時代の流れと共に
その大部分は姿を消していきましたが
射和や中万にはなお往時の繁栄を偲ぶものが多く残っています
射和から歩いてみましょう