2018(平成30)年9月

映画 『王将』 1948年(昭和23年)10月公開の大映作品です    94分

劇作家、北条秀司が1947年に発表した戯曲、王将の

初の映画化です

関西の将棋棋士、坂田三吉の半生を描く作品で

三吉役に阪東妻三郎、女房小春役に水戸光子を配し

監督は伊藤大輔です

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1961年(昭和36年)11月発売の

シングル盤  王将   (コロンビア)

作詞  西條八十   作曲  船村徹   歌  村田英雄

村田はこの曲で1962年日本レコード大賞特別賞を受賞

レコードは最終的に300万枚を超える戦後最大のミリオンセラーでした

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私が初めてレコード盤を買ったのは

この 『王将』 と、吉永小百合の 『寒い朝』 ビクター (昭和37年4月発売)でした

私にとっても懐かしい曲です



明治39年(1906年)   大阪、天王寺の長屋に住む

素人将棋指しの坂田三吉(阪東妻三郎)は

生業の草履つくりも怠りがちなほど将棋に取りつかれた男です

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通天閣の灯が見えます(ライオン歯磨)

願泉寺裏の長屋(現在の大国町北公園辺り)

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読み書きは出来ませんが

将棋はめっぽう強く天王寺の三やんと呼ばれています

将棋道楽を通り越し将棋極道やで…と

娘の玉枝に言われるほどの将棋馬鹿で、家は極貧の暮らしです

家族は女房の小春(水戸光子)と

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娘の玉枝(奈加テルコ)と乳飲み子の男児の四人家族

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この日は東京の将棋棋士との対抗試合

会費の工面のつかない三吉は仏壇を質入れし大会に参加

次々と対戦相手を負かし

三吉は東京の気鋭の棋士、関根金次郎七段との対局です

関根七段(滝沢修

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三吉は強いとはいえ素人です

食い入るように盤を見つめる三吉

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その勝負を見つめる一人の医師がいました

関西将棋連盟の菊岡医師(小杉勇)です

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互いに譲らず勝負は千日手となり

千日手を仕掛けた三吉の負けとなりました

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三吉は、この悔しさがもとで玄人の将棋指しを目指します

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なんとか将棋大会の賞金で

仏壇を取り戻し長屋に帰った三吉ですが

小春と玉枝は家を出る覚悟です

同じ長屋に住む夜泣き蕎麦屋、新蔵のとりなしでこの場は収まります

新蔵(三島雅夫

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三吉の許に大阪朝日新聞社主催の将棋大会の

案内状が届きます

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会費2円の工面が付きません

三吉は草履問屋に前借を頼みますが

三やん、あんたこの頃眼は大丈夫か

昔の馴染みやよって、いままでは黙っていたが

うちも商売よって、あんたの作った草履は売りもんにならへん…と断られます

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窮した三吉は

夏祭りを楽しみにしていた娘、玉枝の着物を質に入れ会場に走ります

チンドン屋のビラ配りでやっと手に入れた娘の着物を

質入れされた小春は、ついに堪忍袋の緒が切れました

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小春は男児を背負い

玉枝の手を引き線路を呆然と歩き、死のうとしています

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小春の悲痛な思いも知ってか知らずか

この日も三吉は勝ち続けています

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しかし三吉の異様な対局姿は菊岡医師は見逃しませんでした

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眼科医菊岡は三吉の眼の患いに気付きます

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三吉の許に、長屋のソバ屋新蔵が急変を知らせにきました

小春と子供が行方不明の報です

将棋どころではありません

二人は走りに走り長屋に戻ります

しばらくして放心状態の小春が玉枝の手を引き戻ってきました

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玉枝が新やんおいちゃんに話します

みんなで一緒に死のうと線路を歩いていたら

お母ちゃんが常日頃信心している妙見さんの太鼓が鳴り響き

死んだらあかん、死んだらあかんといわれ

帰ってきたんやと話します

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それを立ち聞きしていた三吉は

部屋に戻り将棋の駒をコンロに投げ入れます

そして金輪際、将棋を止めると誓うのでした

そこに小春が現れます

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あんさん、わてが戻ってきたのは

あんさんが将棋を止めるためやない

どうせやるなら日本一の将棋指しになりや…と

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そして三吉の手元から落ちてコンロにくべられず

残った1枚の将棋の駒を拾い、自分の御守りにソッと入れるのでした

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以降、三吉は玉枝を相手に

草履つくりをしながら棋譜を学びます

しかし三吉の眼は悪化の一途です

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折しも眼科医の菊岡が坂田の家を訪問したのはこの時でした

菊岡は三吉に、関西初の名人になって欲しいの期待を抱き

眼の手術を勧めにきました

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妻、小春はただただ妙見さんにすがるだけでした

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こうしてプロの将棋棋士の道を三吉は歩み出します

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8年の歳月が流れます

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※   妙見さん

能勢妙見山(日蓮宗)は大阪府豊能郡能勢町に位置します
  
大阪、兵庫の県境、大阪府摂津地方北部に属し

関西地区における日蓮宗の重要な位置を占めています

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8年後の大正2年(1913年)6月

七段となった坂田三吉は京都南禅寺で関根八段と対局します

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対局は相譲らず三日間に及びます

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小春はお題目で三吉を応援し

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娘の玉枝(三條美紀)は対局室で手合いに立ち会っています

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終盤、窮地に陥っていた三吉は

奇手、二五銀を放ち、関根を破ります

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関西、殊に坂田の関係者は勝利を喝采しますが

娘の玉枝は

おとうちゃんの二五銀は、負け覚悟の苦し紛れのヤマカンで指した一手や…と

三吉を問い詰めます

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急所を指摘された三吉は頭に血が上りますが

玉枝の言葉は図星で

三吉は一心不乱に妙見さんにお題目を唱えます


その後、数年間におよび三吉と関根の

関東、関西を代表とする両者の対局は続きます

対戦成績を10戦6勝とした三吉が

大正10年(1921年)

名古屋にて対局し坂田三吉は関根を下し7勝4敗としました

東京では坂田を無視し

関根八段を13世名人に推す声が高まってきています

坂田を推す朝日新聞社の学芸部長は

坂田に、名人位を争う勝負をするか、関西名人を名乗るか

二者択一、いずれかを選ぶように迫ります

しかし、三吉は内弟子の毛利(大友柳太郎)を呼び

将棋には王将が二枚あるが

勝ち残るのは一枚や    それが名人や

そしてそれはワシやない。  関根はんやと語ります

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東京で関根八段の名人祝賀会が開かれています

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そこに突如、坂田三吉と弟子の毛利が現れます

三吉は心から関根の名人位を祝い

関根はんのおかげでここまでの将棋指しになれたと感謝します

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そして自ら作った草履を祝いの品として手渡します

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関根は、あんたというお人は…と感服します

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突如、三吉あてに大阪からの電話です

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それは心臓の弱い

妻小春が危篤状態という、娘玉枝からの知らせでした

三吉は、受話器から瀕死の妻

小春に向かい、死んだらあかん、死んだらあかんと叫びながら

お題目を唱えるのでした

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この作品は

昭和23年(1948年)第3回芸術祭賞映画部門賞を受賞

1952年には続編、王将一代を伊藤監督により松竹で撮る予定でしたが

阪東妻三郎の病気により流れています

作品自体の評価は  ★★ でしょうか(5点満点)

王将は実在人物、坂田三吉の半生を描いたノンフィクションですが

もう少し、人物像が描き切れなかったようにも思えます

カチンコ    カチンコ 

この作品以降、坂田三吉を描いた映画は数多く撮られました

1955年(昭和30) 『王将一代』 新東宝 

『王将』 と同じく伊藤大輔監督の作品で二度目の映画化です 

 主演の坂田三吉に辰巳柳太郎、女房小春に田中絹代

入江名人に島田正吾、長女玉枝に小暮美千代、次女君子に香川香子

辰巳柳太郎、島田正吾といった新国劇のキャストを起用しています

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1962年(昭和37年) 『王将』 東映  

伊藤大輔監督による三度目の映画化作品です

坂田三吉に三国廉太郎、小春に淡島千景

関根名人に平幹次郎、長女玉枝に三田佳子、坂田の内弟子毛利に千葉真一

主題歌『王将』を村田英雄が歌っています

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1962年(昭和38年) 『続、王将』 東映  脚本伊藤大輔、監督佐藤純濔

前作、王将の続編でこの作品で三田佳子は次女役となっています

三吉に三国廉太郎、関村名人に中村伸郎

長女玉枝に丹阿弥谷津子、次女君子に三田佳子

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1973年(昭和49) 『王将』 東宝  堀川弘通監督

三吉に勝新太郎、小春に中村玉緒

関根八段に仲代達也、長女玉枝に音無美紀子、うどん屋新吉に藤田まこと

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○●○

坂田三吉

1870年7月1日(明治3年6月3日)

堺県大鳥郡舳松(へのまつ)村塩穴、現在の堺市堺区協和町に生まれます

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かっての和泉国(大阪府)にあった村で

村の東部には仁徳天皇陵が含まれていました

家が貧しく15~16歳で大阪日本橋の履物問屋に丁稚奉公

街角の縁台将棋によく顔を出し

大人を負かせるなど早熟な天才ぶりを見せていましたが

将棋に熱中するあまり奉公先から暇を出されます

実家に帰り、生業の草履つくりに精を出す傍ら

賭け将棋で腕を磨き

素人の将棋指しとしては大阪でも名の知れた存在となります

1891年(明治24年)  三吉21歳

堺の料亭一力で棋士、関根金次郎と初対局し惨敗しています

関根は当時、大阪名人と呼ばれていた棋士、小林東拍斎に坂田との対局棋譜を見せ

三吉と小林を仲介します

小林は坂田を呼び大駒の使い方などを教え

これまで独学の将棋指しであった三吉が初めて師と呼べる人物に会いました

1906年(明治39年)4月  三吉36歳

大阪阿弥陀池、和光寺境内の藤の茶屋で関根と二度目の対局

(関根の香車落ち)

双方互角の勝負でしたが千日手となり

千日手のルールを知らなかった坂田が無理に指して惜敗

この対局で坂田は、私を本物の将棋指しにしてくれた一戦と述懐

以降、打倒関根を目標とし将棋の道に励みます

1907年(明治40年)  三吉37歳

神戸にて関根の兄弟子、小菅剣之助8段(香落ち)に勝利します

1908年  三吉38歳

大阪朝日新聞嘱託となり、また多くの後援者が

坂田を後押しし三吉は生活も安定し将棋の道を究めます


1913年(大正2年)4月  三吉42歳初の上京

伝説の一戦、関根八段と坂田の対局

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1937年(昭和12年)2月   三吉67歳

将棋史上名高い京都南禅寺の決戦

坂田三吉と木村義男名人

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数々の名勝負を残した坂田三吉ですが

終戦直後の1946年(昭和21年)7月、食あたりで死去

76歳でした

坂田の死後、戯曲北条秀司原作、王将が好評を博し

1947年以降、三吉の半生を描いた映画が次々と大ヒット

歌や芝居にも取り扱われ

坂田三吉は将棋指しの不朽の名となり

日本将棋連盟は

1955年(昭和30年)名人位王将位を追贈しています

将棋棋士、坂田三吉恋女房といえば小春

しかし小春というのは王将の作者、北条秀司の創作名で

実名はコユウです(1881年~1927年)

大阪府貝塚出生、旧姓竹田コユウ

明治39年、三吉が35歳、コユウ24歳に結婚(コユウは再婚)

三吉との間に四男三女をもうけています

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コユウは貧しさに耐えながらも夫を支え続けます

作品中の鉄道自殺未遂事件(1913年、大正2年)も実際の出来事でした

三吉が家族の大切さを痛感した事件でした

将棋棋士坂田の妻として後押しするも

1927年(昭和2年)に死去  46歳の若さでした

臨終の床で

おとうちゃん、あんたは将棋がいのちや

どんなことがあっても

アホな将棋は指しなはんなやと言い残しています