2018(平成30)年9月19日(水)  晴れ

羅生門は1950年(昭和25)8月に公開された大映作品です

芥川龍之介の短編小説、『藪の中』と『羅生門』を原作に

橋本忍と黒澤明が脚色し

黒澤明がメガホンを取りました    88分

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時代は

打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も乱れ果てた

平安時代末期の京の都が舞台です

激しい雨のなか


荒れ果てた羅生門で3人の男たちが雨宿りをしています

そのうちの二人、杣(そま)売りの男(志村喬)と旅法師(千秋実)は

ひと殺し事件の参考人として

検非違使(京の治安維持、民政を所管する役所)からの帰りでした

二人は実に奇妙な出来事を見聞きしたと

もう一人の下人(上田吉二郎)に語りかけます

旅の法師、千秋実   下人、上田吉二郎   杣売りの男、志村喬   

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三日前

薪を取りに山に入った杣売りは

山で侍、金沢武弘(森雅之)の死体を発見し検非偉使に届けます

杣売りの男は、当時の状況を思い起こしながら

遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、斬られた縄、御守りが落ちており

そこには金沢の太刀や、女性用の短刀はなかったと証言します

また、道中で金沢夫妻と出会った旅法師も

金沢が妻の真砂(京マチ子)と二人旅であったことを証言します

真砂、京マチ子

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金沢武弘、森雅之

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次に金沢を殺した下手人として

盗賊の多襄丸(たじょうまる=三船敏郎)が連行されてきます

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多襄丸は山で侍夫婦を見かけ、その際

真砂の顔を見て欲情し

金沢にいい太刀があると騙し山奥に連れだし捕縛し

真砂を手籠めにしたことを語ります

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その後、豹変した真砂が、

二人で殺し合いをし勝ったほうの妻になると言ったことから

多襄丸は金沢の縄を解き正々堂々と勝負をし

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激闘の末に金沢を倒し

気が付いてみれば真砂がその間に逃げ、短刀の行方も知らないと言います

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次に真砂の証言が始まります

手籠めにされた後、多襄丸はその場を去り

真砂は夫を助けようとしますが

目前で男に身体を許した妻に金沢は軽蔑の眼で見ており

その眼に耐えられなくなった真砂は自らを殺してくれと夫に懇願し

そのまま気を失い倒れてしまったと証言します

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気が付くと夫の胸に短刀が刺さり死んでおり

自分も後を追って死のうとしたが死ねなかったと悲嘆にくれた語り口で話します

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最後に巫女が呼ばれます

金沢の霊を呼び出して証言させます

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霊媒師(本間文子

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金沢の霊が乗り移った巫女が語りだします

妻の真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し

一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めます

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この言葉には、さすがに多襄丸も呆れ

女を生かすか殺すか夫のお前が決めろと言い金沢の縄を解きます

それを聞いた真砂はその場を逃亡、多襄丸も姿を消し

一人残された自分は無念のあまり

妻の短刀で自害し

自分が死んだあと何者かが現れ、短刀を引き抜いたが

それが誰であるかはわからないと答えます

多襄丸、真砂、金沢武弘

三者三様の供述です

事件に関与したそれぞれの言い分を話し終えた杣売りは

下人に言います

三人とも嘘をついている…と

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杣売りの男は

実は事件の一部始終を見ていました

しかし、巻き込まれるのを恐れ黙っていたのだと…

杣売りが話し出します

多襄丸は真砂を強姦した後、真砂に惚れてしまい

一緒になることを懇願します

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真砂は断り、夫の縄を解きます

ところが金沢は辱めを受けた真砂に対し

武士の妻として自害するように迫ります

すると真砂は笑い出し、男たちの自分勝手な言い分を誹り

二人の男を殺し合わせます

戦に慣れない二人はへっぴり腰で無様に斬り合い

ようやく多襄丸が金沢を斬りつけ殺すに至りましたが

その間に真砂は逃げ去っていたのでした

真砂、多襄丸、金沢の三人の告白は

見栄のための虚偽であったと杣売りは語り

この事実を知った旅法師は世を蔑みます

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話し終えると

羅生門の一角で赤ん坊の泣き声がします

何者かが赤子を捨てていったのでした

下人は素早く赤ん坊の身ぐるみを奪い取ります

あまりの仕業に杣売りの男は下人を咎めますが

下人は自らの理を解き

現場から無くなっていた短刀はお前が盗んだのだと言い

お前に非難される筋合いはないと言い放ちその場を立ち去ります

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旅法師は思わぬことの成り行きに

世をはかなんでいます

すると杣売りの男が赤子を大事そうに抱え

家には6人の子がいるが6人を育てるも7人を育てるも一緒で

自分の子として育てると言います

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旅法師は

まだ人間は捨てたものじゃないと希望を持つのでした

カチンコ

1950(昭和25)年8月25日

大映本社で試写会が行われ

途中、永田雅一社長はこんな映画は訳が分からんと席を立ちます

さらに永田は総務部長を北海道に左遷

企画者の本木壮二郎をクビにしています

翌26日に公開されますが、難解でもあり国内の評価は不評で

キネマ旬報で第5位にランクインする程度でした

永田雅一  映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主等の実業家

大言壮語な語り方から永田ラッパの愛称で呼ばれました

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同年末、カンヌ(仏)、ブェネッツェア(伊)国際映画祭から

日本作品の出品要請が届きます

羅生門は双方の候補作として残りましたが

映画会社が乗り気でなく見送られます

そんな中、イタリアフイルム社長のジュリアーナ、ストラミジョーリは

何本かの候補作品を見て、その中の一本

羅生門に感銘を受けました

大映側にヴェネツィア映画祭に出品を促しますが大映側は拒否

そこでストラミジョーリは自費で英語字幕を作り映画祭に送ります

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ところが大映本社の関係者は歯牙にもかけず無関心

ところが現地ヴェネツィアでは上映されるや否や大絶賛され

1951年(昭和26)9月、ヴェネツィア国際映画祭最高の

金獅子賞を受賞

永田社長は手のひらを返したように絶賛し自分の手柄のように振舞い

世間では永田のこの豹変ぶりに

黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリと揶揄されました

黒澤自身もこのことを後年、述懐し

まるで羅生門の映画そのものだと語っていました

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受賞後の祝賀会で

黒澤は日本映画を一番軽蔑していたのは日本人で

この映画も外国人が世界に出してくれた

日本人は反省する必要がある…と

翌1952年(昭和27)第24回アカデミー賞で

現在の外国語映画賞を受賞

この羅生門の映画により黒澤明と日本映画は世界にデビューし

日本映画も黄金期に入っていきます