2016(平成28)年10月11日(火) くもり

青函トンネルの本格的掘削が開始された昭和41年の春から1年半

国鉄職員、阿久津剛(高倉健)が昭和30年、地質調査を始めてから12年半

昭和42(1967)年9月、先進導抗が津軽海峡の海の底に突入しました

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これから津軽海峡の水深240mの海底、

23,3kmに挑む第一歩です

これからが本当の意味の海底トンネル工事となります

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郷里岡山では父の才次82才(笠智衆)が伏せがちとなりなり

妻、佳代子(大谷直子)の行き来も絶え気味になっています

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津軽海峡の海底に挑むパイロット部隊ですが

岩盤が軟弱な上、出水が多く工事は遅々と進みません

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また断層も多く

10日で3尺、2か月で5mという進行に荒くれ男達はいらだちで殺気立っています

昭和44年2月

一進一退の続く坑道内に岩盤が破れ大量の海水が押し寄せてきます

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軟弱な岩盤からの水漏れにはセメント注入で防げますが

阿久津は悩みます

源助等のトンネル鉱夫の眼は冷ややかでした

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龍飛岬にも待望の春が訪れています

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阿久津は苦渋の決断で

今まで1年半労力を費やしてきた坑道を捨て新たな坑道を掘る策に決断しました

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紆余曲折しながらも、

先進導抗は海底の最深部に到着しました

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以降、工事は着々と進み

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そのころ、妻の佳代子が龍飛に姿を見せます

かいがいしく阿久津の世話をする牧村多恵(吉永小百合)に礼の言葉をかけますが…

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お酒を勧めると、断酒しているという夫に

5年間、夫婦は離れ離れで、幼かった一人息子、修も中学2年になっていました

トンネル男、夫婦の宿命です

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多恵の一途な想いが分かる

おれん(伊佐山ひろ子)は多恵と酒を汲み阿久津夫婦の不可思議さを話しかけます

仕事一途のトンネル男の心は凡人では図り切れません

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とつとつと岸田源助(森繁久彌)が話し出します

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15で山に入り沖縄から西表島、北は北海道から樺太まで炭堀りをし

昭和11年、関門海峡でトンネル堀りの仕事があると聞き

山から海の仕事にかえた

俱利伽羅トンネルでは鬼の源さんとも呼ばれたりもした

戦時中は満州撫順で炭堀りをし、子供も生まれた(満州の満をとり満子)

終戦の時は満子が3つで、逃げのびる途中家内は亡くなり

満子も4つの時、オロッコの猛吹雪の中で死んだ…と

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トンネル男みたいなもんを好いてはいかん…と

自分の哀しい人生を語るのでした

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この年の昭和46(1971)年9月

運輸省は青函トンネル工事の認可をします

総工費2014億  工期10年です

昭和47年3月、

北海道側に民間企業が本体工事に参入してきます

遅れて5月には龍飛村に3000人が送り込まれてきました

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おれんの娘、峡子(青木峡子)も18歳になっています

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いつしか成瀬仙太(三浦友和)と恋仲になっています

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阿久津に辞令が交付されました

龍飛鉄道建設所長から函館建設局次長への昇進です

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海底トンネル部分の請負は下記の建設会社です

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工事は順調に進んでいます

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4年ほどが経ちました

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大学に入った息子の修(左から二人目、中川勝彦)が

友だちを伴い父の許に来ました

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トンネル内の見学を成瀬が案内します  気温30℃  湿度90% です

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将来の新幹線を見越し、幅11m、高さ9mの規模で造られています

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この3人の見学を引率していたもう一人の職員が

走ってきたトロッコの鋼材のロープが切れ

修たちの目の前で下敷きになり亡くなりました

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海峡を見下ろす地に工事で亡くなった人々が眠っています

(27年に及ぶ難工事、延べ人員1400万人、殉教者は34名にのぼりました)

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部下の死に呆然とする阿久津に源助は

トンネル野郎、しっかりしろと励まし、阿久津がありがとう親爺さんというと

これからはオヤジと呼べと言い、堅く手を握るのでした

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青森のねぶた祭りが始まりました

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妻の佳代子から、チチ キトク スグカエレ の電報が届きます

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帰る間際に、一報が入ります

切り端付近から出水があり海水が押し寄せているとの緊急事態です

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出水は止まることなく毎分30トンの暈に達しています

すでに作業抗は海水に浸され、その水を抜くには先頭導抗に抜かれようとしています

阿久津は、この大量の水を抜くには本坑に導くしか手はないと

水は本坑へとの命を降します

二通目の電報は  チチ シス でした

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土嚢で流れを変える作業が続きます

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仲間を振り切り、水の流れを確かめに行くと源助が

本坑の境まで歩みだします

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前に歩み出したその時に

轟音と共にトンネル上部の壁が崩れ落ちてきました

引き止めに入った仙太は傷を負っただけでしたが

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源助は、はかなくもこの世を去ってしまいました

昭和51年8月6日   享年70才でした

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時は流れ昭和58年(1983)1月27日

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トンネルのパイロット的役割を担う

先進導抗が本州と北海道が繋がる貫通式です

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最後のハッパに号令をかける阿久津ですが

これまでの苦労にねぎらいの意を表し感謝の辞を述べます

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本州側のハッパを託されたのは成瀬仙太でした

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ついに本州から北海道に風が抜けました

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阿久津が津軽海峡に足を踏み入れて以来28年の年月を費やしました

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本坑の貫通は

昭和60年(1985)3月10日まで待たねばなりません

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阿久津は龍飛の地を去ります

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おれんの店に寄ります

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店には多恵のみがいました

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11年ぶりのお酒です

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じょっぱじるを肴に、阿久津は多恵にも注ぐのでした

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言葉は交わしませんが

お互いの思いやる気持ちは感じられます

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津軽海峡を見下ろす墓地に

龍飛から函館に向かう成瀬仙太と峡子がいました

おれんも若い二人に恋われ共に暮らすとのことです

残ったおれんの店は多恵が継ぐのでしょう

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全ての人を見送り、一人龍飛に居座ると決めた多恵

かよわい哀しい人生です

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本社に戻った阿久津

本社勤めを命じられますが、現場にこだわりたいと申し出ます

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妻の佳代子も東京に出、会社勤めをしています

息子の修から、母さん再婚したらと勧められ

考えてみるわと受け流す佳代子、哀しいですねー

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阿久津の向かう先はジブラルタル海峡です

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ヨーロッパ大陸、スペインのイベリア半島と

アフリカ大陸のモロッコ両国間にあり

大西洋と地中海を繋ぐ出入り口です

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有難うございました