2016(平成28)年10月9日(日)  雨 / くもり

映画 『海峡』 は昭和57(1982)年10月に

森谷史郎監督(日本沈没、八甲田山、動乱…)が

東宝創立50周年記念として公開した作品です   142分

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北海道と本州に横たわる津軽海峡を

トンネルで結ぶ大事業をドラマ化した作品です

阿久津剛(高倉健)は北海道函館の七里ガ浜を訪れます

昭和29年(1954)9月26日、洞爺丸事故で死者1430名が打ち上げられた海岸です

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阿久津は京大で地質学を修め、国鉄に入社

国鉄は世論の後押しもあり青函トンネルに着手すべく

昭和30年(1956)2月18日、国鉄、学者、有識者による

津軽海峡隧道技術調査委員会を発足

津軽海峡の地質調査のため阿久津を派遣したのでした  27才

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その七里ガ浜の海岸で、石を投げる少年がいます

左こめかみにあざのある少年でした

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阿久津は本州側、竜飛岬の海底の地質から着手します

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間借り家は海底から引き揚げた石ばかりです

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冬場になると荒れた海には出られません

山の地質調査です

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山歩きの途中、岸壁にたたずむ女性を見かけます

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阿久津は懸命に駆けつけ女を引き留めます

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女の名は牧村多恵(吉永小百合) 20才

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阿久津は多恵を連れ、居酒屋おれんに出向くと

女将のおれんが陣痛の苦しみの真っ最中でした

思いもかけぬ出産に出会った多恵は以降、このおれんの店で働きだします

この時生まれた女児の名は 『峡子』 名付親は阿久津でした

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阿久津の許に手紙が届きます

岡山の許嫁、篠田佳代子(大谷直子)から

父、阿久津才次(笠智衆)の古希の祝い(70歳)に帰宅を促す手紙でした

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一人住まいの阿久津に多恵はかいがいしく身の回りの世話をしています

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二度目の冬の3月、阿久津に辞令が出ました

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納得のいかぬ阿久津は、上司の岡部(大滝秀治)に相談します

岡部はその時々の政治や総裁人事の思惑により

公共事業は優先順位が変わる

経験、勉学のために明石に行けばと忠告するのでした

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阿久津はみんなの前で必ず戻ってくると誓うのでした

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船着き場で見送る多恵の手には、阿久津から貰った

海峡の海の底の石を握りしめる姿がありました

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郷里に戻った阿久津

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許嫁の多恵とも結婚しました

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おれん(伊佐山ひろ子)に自分の過去を話しだす多恵

福井の温泉旅館で働いていた時に自分の不注意で火事を起こしてしまい

11人もの犠牲者を出してしまいました

生きていくこともできずこの地に足を踏み入れ身投げしようと思ったところを助けられた…と

おれんも身重の自分をほっぽり出して

東京の地下鉄工事に行ったきりの亭主の身の上話を語りだすのでした

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昭和38(1963)年、民間初(三井物産)の第5代国鉄総裁

石田礼助(河村弘二)が誕生しました、池田隼人内閣の時代です

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石田総裁は積極的に青函トンネルにも目を注ぎます

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着々とプロジェクトが進みます

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昭和39(1964)年9月1日、阿久津は副参事

青函トンネル調査事務所工事第二課長に任ぜられます

この年は新幹線開通(東京、新大阪間)、東京五輪も華々しく開催されました

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国鉄のトンネル直轄の部隊が集結しました

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あとはトンネル堀の人材です、阿久津は新潟に飛びました

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石田源助(森繁久彌)率いる九州の一団は

阿久津がどうしても呼び寄せたいトンネル軍団でした

このトンネルが最後で九州に帰ると言い張る

源助に阿久津は2万年前にマンモスの通った海峡に道を造ろうと説得するのでした

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竜飛岬のおれんの店にトンネルさんが約束通り戻ってきました

7年と半年を経ていました

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先陣として乗り込んできたのは

先進坑道に携わる200名の工夫達でした

その中には源助率いる九州のプロトンネル軍団もいました

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着手したばかりの現場で早や犠牲者が出ました

資材を運ぶ最中に足を踏み外し亡くなってしまいました

岡山から妻の佳代子と修が龍飛にやって来ました

事故当日で出迎えに来たのは多恵でした

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極寒の地に慣れぬ二人は早々と郷里に帰ってしまいます

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翌、昭和41年、本格的な掘削工事に入ります

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阿久津は函館の七里ガ浜の碑に立ち寄ります

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そこには海を眺める少年がいました

左ほおに傷のある少年です

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名は成瀬仙太(三浦友和)

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左頬の傷は洞爺丸事故で両親を亡くした、その時の傷で

仙太は奇跡的に助かった一人でした

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荒っぽく協調性がないということで落ちる所を

阿久津の見どころがあるという一言で合格した少年でした

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トンネル工事内部です

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成瀬仙太も阿久津の本州側龍飛、先攻坑道に配属されています

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居酒屋おれんには大きくなった峡子の姿も見えます

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昭和42年(1967)9月

先攻坑道は斜坑口からあと10mで海岸という地点にたどり着きました

そのハッパを任されたのは成瀬仙太でした

両親の弔いにと阿久津と源助が彼にハッパを握らせました

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続きます