2016(平成28)年9月15日(木) くもり

杉原千畝(ちうね)

第二次世界大戦時、ナチスドイツの迫害から多くの欧州難民に

大量のビザを発給し多くの避難民(大半がユダヤ人)を救った外交官

というのが私の乏しい認識です

物語に入る前に杉原千畝氏の略歴です

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明治33年(1900)1月1日生まれ

近年まで岐阜県加茂郡八百津町生まれと言われていましたが

同県武儀郡上阿知町(現、美濃市)であることが明らかになりました

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父、芳水(よしみ)が、税務官吏で当時、上阿知町の税務署に務め

一家は近くの教泉寺の借家に住み、千畝はそこで生を受けました

教泉寺は高台にあり見晴らしがよく、眼下に千畝町の広大な畑がみえ

千畝という珍しい名前はその地名に由来すると思われます

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明治45年(1912)、古渡尋常小学校(名古屋市立平和小学校)をオール5で卒業

旧制愛知第5中学を卒業

杉原家の写真です   後列中央が千畝です

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当時父は、日本統治下の朝鮮京城に赴任、医師になることを勧めますが

千畝は、大正7年(1918)早稲田大学高等師範部英語学科余科に入学

父の意に反した進学であったため仕送りも途絶え

千畝は外務省留学試験を受けます

法学、経済、国際法の他、外国語2カ国語という難関でした

千畝は大学の図書館にこもり連日、米国の新聞や雑誌を読破し

独力で難関の試験を突破します

大正8年(1919)10月、外務省の官費留学生として

日露協会学校(後のハルビン学院)に入学

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ここで千畝はロシア語の習得に精を出します

大正9年(1920)12月から大正11年(1922)3月まで

千畝は朝鮮駐屯の陸軍歩兵第79連隊に志願入営、1年4か月の

軍隊生活を送ります、最終階級は陸軍少尉でした


大正12年(1923)3月、日露協会学校を卒業

成績優秀、ロシア語に堪能し、母校の教師として講義を担当します

大正13年(1924)外務省書記生として採用され

日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官を経て

昭和7年(1932)満州国外交部事務官に出向を命ぜられます

この年の3月、満州国の建国が宣言されました

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東宝映画、杉原千畝はこの辺りからシーンが始まります

戦後70年を記念して平成27年(2015)制作されました

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監督はチェリン、グラック

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杉原千畝を演じるのは唐沢寿明(としあき)


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昭和8年(1933)満州国外交部ではソ連との北満州鉄道(東清鉄道)の

譲渡交渉を担当、ソ連提示額は6億2500万円

当時の日本の国家予算1割に該当する額でしたが、杉原の手腕もあり

1億4000万で妥結に至りました

外務省人事部作成の文書にも 【外務省書記生たりしか…

…北鐵譲渡交渉に有力なる働きをなせり】 という記述があります

映画ではソ連軍の一員が、新しい列車を満州軍に手渡したくなく盗み出そうとします

それを察知した杉原は未然に防ごうと現場に駆け付けます

彼と共に諜報活動をしていた仲間により列車を止めることができました

ところが満州軍の南川欣吾将校の暴走により

ソ連軍と自分の諜報活動の仲間も殺されてしまいました

関東軍南川将校=塚本高史

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ところが杉原は日本外交きってのロシア通という評価を得て間もなく

昭和10年(1935)満州国外交部を退官、帰国します

杉原は満州赴任時代の大正13年(1924)

白系ロシア人のクラウディア、セミョーノヴナ、アポロノアと結婚していました

正教徒の洗礼を受け洗礼名はパウロでした

このハルビン時代に杉原は関東軍傘下の白系ロシア人のファシストが

ユダヤ人や中国人富豪を誘拐、殺害する事件を目の当たりに見ました

また、杉原自身も関東軍から破格の条件でスパイになることを

打診されたのも退官する理由でした

千畝自身の言葉によれば、関東軍の驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の職業軍人気質を

見るにつけ、関東軍に日本軍人に冷ややかな目で見るようになり

スパイになることを拒絶したことから妻、クラウディアが

ソ連軍のスパイだと風説を流布され

クラウディアとの10年余の結婚生活の離婚の一因ともなりました

映画では杉原と共にソ連の諜報活動をする(妻、クラウディア)をイメージしています

イリーナ=アグ二エシュカ、グロホウスカ(ポーランド)

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帰国を決意した千畝は全財産をクラウディアに渡し

無一文で東京に帰ってきました

帰国した千畝は外務省大臣官房人事課、情報部第一課に勤務します

翌年の昭和11年(1936)知人の妹、菊池幸子と結婚します

千畝36歳、幸子22歳でした

結婚式を挙げるどころか記念写真さえもない赤貧生活でした

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映画では幸子を小雪が演じています

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映画では、外務省に出入りする保険外交官、菊池が

千畝を誘い一杯やり、その夜遅く菊池の家で厄介になり

菊池の妹、幸子とのなりそめを描いています

中央が外務省に出入りする保険外交員、兄の菊池静男(板尾創路)

千畝が幸子に名刺を渡すと、杉原うねさんねと言われたことに

初めて自分の名前を正式に呼ばれたことに千畝は驚くのでした

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昭和12年(1937)

千畝はフィンランド、ヘルシンキ日本公使館に赴任します

妻、幸子も一緒です

当初、千畝は念願であったモスクワ大使館に赴任する予定でした

ところがソ連側が千畝が反革命的な白系ロシア人と親交が深いという理由で

入国を拒否されたのでした

昭和13年(1938)

ナチス、ドイツのユダヤ人迫害により極東に向かう避難民が急増しています

昭和14年(1939)

外務省は混迷を極めるヨーロッパ情勢を知るうる最適の地

リトアニアのカナウスに領事館を開設し

千畝を領事館領事代理として赴任させるのでした

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カナウスニ着任したのがその年の昭和14年8月28日

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家族も増えていました

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着任直後の1939(昭和14)年、9月1日

ナチスドイツがポーランド西部に侵攻し

第二次世界大戦が始まります

9月17日には独ソ不可侵条約に基づきソ連がポーランド東部に侵攻します

10月10日

リトアニア政府はソ連軍の軍事基地建設、部隊の駐留に屈します

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映画では領事館職員を募集し応募してきたのが

ドイツ系のリトアニア人

グッジェ=ツェザリ、ウカシェヴィチ(ポーランド)

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もう一人運転手として雇ったのが

ポーランドの諜報員(千畝は気付いていますが雇います)

ペシュ=ボリス、シッツ(ポーランド)

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翌昭和15年(1940)6月15日

ソビエト軍がリトアニアに進駐してきました

日本人が一人もいないリトアニア、カナウスに領事館を設置したのには理由があります

当時の日本は満州国建設から一転、その矛先を

南太平洋諸島に目を向け、関東軍の精鋭部隊をそこに転進させました

当時の駐独大使は大島浩、日本軍の陸軍中将です

日本でも参謀本部に属する若手将校の間に、ドイツのファシストに共鳴し

ドイツと同盟を結ぼうとの強烈な思いがありました

その運動の一人が大島であり日独伊三国軍事同盟は

昭和15年(1940)9月27日に結ばれます

大島弘(駐独大使、陸軍中将)=小向日文世(こひなたふみよ)

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大島はヒトラーに傾斜しつつも

全幅の信頼を寄せず、いつヒトラーが独ソ不可侵条約を破棄し

ソ連侵攻を開始するか半信半疑でした

その意味からドイツ軍の動きを察知するためにもカナウス領事館は必要でした

ナチスドイツはオランダに続きポーランドに侵攻

戦争難民(大半がユダヤ人)は、東方を目指し逃れてきます

そのポーランド難民の中にリーダー格の弁護士ゾラフ、バルハフティックがいます

彼は各国の領事館を廻ってビザ発給を交渉しています

映画ではニシェリ役でミハウ、ジュラフスキ(ポーランド)が演じています

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ニシェリは、なんとか難民を脱出させようとオランダ領事館を訪ねます

オランダの領事はフィリップス社、支社長のズヴァルテンディックでした

リトアニアのカナウス領事代理も兼ねています

ズヴァルテンディックも祖国オランダを蹂躙されたナチスに恨みを持っています

彼はニシェリの要求する

南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国は

ビザを必要とせず認めるという内容の文書を仏語で作りました

ヤン、ズヴァルテンディック=ヴェナンティ、ノスル(ベラルーシ)

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ズヴァルテンデゥックの手書きによるビザは

ニシェリ達により途中からタイプに代わり、さらにオランダ領事印と

オランダ領事のサインまでもスタンプにし

その偽ビザを難民らに配りました

1940年(昭和15)6月、リトアニアに侵攻してきたソ連軍は8月にリトアニアを併合

各国、在リトアニア大使館、領事館の封鎖を求めてきました

住む地を追われた難民たちは南へ東へと避難しています

さらに今までビザを発給していたトルコ政府がビザ発給を拒否をするようになりました

千畝が後に述懐しています   1940年、7月18日早朝

ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた

多くのユダヤ系難民(100人以上)が、まだ領事館を閉鎖していなかった日本領事館に殺到しました

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千畝は日本の外務省にビザ発給の可否を打診しますが

答えは正規の手続き以外の者については否の返答ばかりです

外務省、千畝の上司   関満一郎=滝藤賢一

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千畝の決断を促したのは幸子夫人でした

あの人たちのために後で何が起ころうとも後悔はいたしません…と

杉原千畝は独断で

人道上、どうしても拒否できないと日本政府に背きビザの発給にかかります

当時をそのまゝ再現した決断の部屋、千畝40歳です

1940年(昭和15)7月18日

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以降、領事館の閉鎖になる1か月間、昼夜も問わず

また閉鎖になった後も滞在先のホテルでも

9/5の列車がカナウスを発つまでビザを発給し続けました

難民代表格のニシェリを呼びビザ発給を伝えます

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手書きによるビザです   日付は7/31です

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8/22日付です

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あまりにも多数の発給で千畝の万年筆は折れ右手は

動かなくなります、

機転を利かしたのは千畝がマナウス領事館で雇った

グッジェとペシュの二人で

簡素化された刻印を用立てるのでした

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一家はカナウスを去り、ドイツ、ベルリンに向かいます(9月5日)

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最後の最後までビザの発給に精を出した千畝は

発給の為の刻印をグッジェに手渡しできるだけ続けてくれと手渡します

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最後の別れを惜しむかのようにグッジェは

これが貴方が発給しビザの名簿ですとその一覧を千畝に手渡します

通過査証2,139名、うちユダヤ系1500名と推定されます

ビザは1家族1枚で適用されますから約6000名の難民を救ったことになります

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多くの難民の経路です、日本を経由し各国に渡りました

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千畝の発給したビザで活躍した人物も忘れてはなりません

JTB社員の働きでした、ウラジオストックでは米国から届けれた滞在賃金の手渡し

到着の敦賀港では臨時の事務所を開設し

多数の避難民を手際よくバス輸送の等にも力を注ぎました

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映画ではJTB社員として浜田岳が演じています

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そしてウラジオストック領事館、領事代理の根井三郎

千畝のビザにより大量の難民が押し寄せ憂慮しながらも日本に向け

出航、乗船させます、千畝とはハルビン学院の同級生です

映画では二階堂智が演じています

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ベルリンに着いた千畝は

その年の1940年9月にプラハ領事館に赴任します

マナウスで千畝の運転手だったポーランドの諜報員ペジュから

ドイツ兵の動きがおかしいとの報告が入ります

千畝はドイツ、ソ連侵攻の予知を独大使、大島ドイツ大使に報告します

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独ソ条約が破棄され開戦ともなれば、日本は独の後ろ盾もなく

連合軍を敵国に回さねばならず日米開戦に慎重な見通しを報告しています

マナウス領事館から1年間、共仕事をしてきた二人は別れます

ペジュは祖国に帰りナチスと戦う決心をし

千畝は命を大事にせよと別れの言葉にし

ペジュは史上最悪の領事代理でしたと別れの握手を交わすのでした

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しかし日本政府はこの1940(昭和15)年、9月27日日独伊三国軍事同盟を結びます

(日米開戦は翌1941(昭和16)年、12月8日真珠湾攻撃にて幕があけます)

1941(昭和16)年12月

千畝はルーマニア公使館一頭通訳官としてブカレストに赴任

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以下

1942(昭和17)年、ドイツ軍によるユダヤ人大量虐殺

1943(昭和18)年、同盟国の一つイタリアはムッソリーニが連合国に降伏

(ムッソリーニは解任、逮捕1945年4月パルチザンにより処刑)

1944(昭和19)年、連合国軍はノルマンディー上陸から

マリアナ沖海戦、インパール作戦にと勝利し

1945(昭和20)年、ナチスドイツ軍は4月30日にヒトラーが自殺

5月9日にドイツは降伏します

残る日本も

同年の1945(昭和20)年、6月に沖縄戦

8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆投下を受け

8月14日にポツダム宣言受諾9月2日に降伏文書に調印します

千畝一家もこの年、ブカレスト郊外の捕虜収容所に収監されます

1通の手紙が届きました

イリーナからでした

杉原のビザにより難民救出ができ、多くの人の命が救われた

最後に…有難うという言葉で結ばれていました

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1947(昭和22)年4月、 一家は九州博多に帰港します  

  6月、外務省から退職通告書が届きます

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以後、杉原は二度ほど会社は変わりましたが民間商社でモスクワ所長として勤務します

1968(昭和43)年、28年ぶりに難民の代表格であった

ニシェリ=バルハフティック(イスラエル宗教大臣)と再会します

1969(昭和44)年

千畝はイスラエル国から勲章を授けられます

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1985年(昭和60)年

イスラエル国からヤド、バシェム賞を受賞します

諸国民の中の正義の人賞で日本人ではただ一人です

1986年(昭和61)年

神奈川県鎌倉市にて死去、86歳でした

晩年の千畝と幸子夫婦

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岐阜県八百津町では

1992(平成4)年、千畝の功績を称え、人道の丘記念公園を造りました

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千畝生誕100年に当たる2000(平成12)年

勇気ある人道的行為を行った外交官、杉原千畝を讃えてと

憲章プレートが外交史料館に設置されました

除幕式で、当時の外務大臣河野洋平氏が

戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪しました

これにより、千畝の名誉は回復しました

リトアニアでは千畝の切手も発行されています

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肝心の映画の方ですが

私の杉原千畝の認識不足が災いし

ストーリーの展開について行けず難解な映画でした

物語をドキュメントタッチで追っていった方が

良かったような映画でした


有難うございました