2016(平成28)年7月11日(月) 晴れ

一度、琵琶湖を一周してみたいというのが私の夢でした

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昨日の第24回参院選の開票速報のおかげで

今日のお出かけは少々遅めのスタートです

選挙結果は我が意に反し与党の圧勝で衆議院に続き参議院でも

改憲勢力2/3を与えてしまいました

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この先の不安感は拭いようがありません

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自宅を8:35に出

伊勢自動車道~新名神高速、瀬田東インターから

近江国一之宮の建部(たてべ)大社に向かいます   10:20分

自宅から100km、高速(2710円)で約1時間半の道程です

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一の鳥居前に掲げられていた建部大社の成り立ちです

日本武尊(やまとたけるのみこと)の死後、景行天皇46年(316)

タケルの妃、布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が

神崎郡建部郷千草獄(現在の東近江市五個荘伊野部町箕作山)の地に

日本武尊を建部大神として祀ったのが起源です

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その後、現在の地には天武天皇4年(675)に遷座されました

境内図です

駐車場は二カ所あり、かなり広いです

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二の鳥居からお参りします

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参道に沿って日本武尊(やまとたけるのみこと)伝説が掲示されていました
                    くまそ
16才で熊蘇(九州南部でヤマト朝廷に抵抗した部族)を征伐

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九州から戻った日本武尊は父、景行天皇に東国の征伐を命ぜられます
                     やまとひめのみこと
日本武尊は叔母の倭姫尊(斎王起源の皇女)の住む伊勢の国に赴き

叔母は危急の時これをと神剣(草薙の剣)と袋を与えるのでした

古事記によれば相模、日本書紀では駿河の国で

この地の豪族に欺かれた日本武尊は野に誘い出され火攻めに遭ってしまいます

この危難を救ったのは叔母からの袋の中の火打石でした

草薙の剣で草を刈り揃え、迎え火を点け逆に敵を焼き尽くしてしまいました

このことからこの地を焼津と名付けられたそうです

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駿河、相模の国から東方を目指す日本武尊は

海路をとり上総の国(千葉県)に渡ろうとしました

ところが走水の海上(現在の横須賀)で時化に会い一行は進退窮まります
    おとたちばなひめ
そこで、日本武尊の后、弟橘媛が自らの命に代え

入水すると、荒れ狂っていた海が静まり返るのでした

その後、日本武尊は上総や足柄坂(神奈川、静岡県境)の豪族を退治し

帰路につきますが

その時、東国を望み吾妻はや…(吾が妻よ…)と三度嘆いたとあります

そこから東国をアヅマ(東、吾妻)と呼ぶようになったと言われています

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科野(しなの=長野県)を経て一行は尾張(愛知県)に入ります
                   みやずひめ
日本武尊はこの地で、尾張氏の娘、宮簀媛を娶ります

そのころ、伊吹山(滋賀、岐阜県境)に悪い神がいると聞いた日本武尊は

草薙の剣を宮簀媛に預け素手で伊吹山に向かいます

ところが、山中で大氷雨に遭い日本武尊は失神し

意識朦朧のまゝ下山し病の身となってしまいます

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弱った体で大和を目指し、岐阜南部から三重北部と進みますが

三重能煩野(のぼの)=現在の三重県亀山市田村町で

倭は国のまほろば  たたなずく青垣  山隠れる  倭し麗し…   から

乙女の床のべに  我が置きし  剣の大刀  その大刀はや   に至る4首の

国偲び歌を詠んで32歳で亡くなってしまいます   

日本武尊の魂は白鳥となり

この能褒野(のぼの)の地から河内の志紀(羽曳野)に向け飛び立っていったと言われています

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日本武尊が能褒野で亡くなると

預けられた草薙の剣(三種の神器)を奉斎鎮守するために宮が建立されました

熱田神宮の起源です

晴れ   

建部大社神門です

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ご神木の三本杉

大己貴命(おおなむちのみこと)が権殿に祀られたとき一夜にして成長した神木として伝わり

当社の神紋となっています

後方が拝殿で主祭神、本殿の日本武尊と権殿、大己貴命の共用となっています

大己貴命は別名、大国主命(おおくにぬしのみこと)ともいい

因幡の白兎でも有名な神で出雲大社の祭神です

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拝殿から奥の本殿に向かいます

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左側が本殿、右側が権殿です

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日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る本殿です

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向かって右は

大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る権殿です

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権殿横の境内にこんな立て看板がありました

昭和20年(1945)発行の千円札です

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この石灯籠は鎌倉時代の文永7年(1270)の造営です

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宝物殿  閉まっていました

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八柱神社です

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稲荷神社と大野神社

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拝殿ですね

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そうそう本殿と権殿の裏側に菊花石と菊紋壺が置かれています

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菊花石

自然の力により菊の模様が入った鑑賞石の最高峰です

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菊紋壺

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建部大社を後にします   10:50分

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100日参りのご家族に瀬田の唐橋を尋ねてみると

500m~600m先、歩いて行かれたら…と

晴れ   32℃です

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滋賀県大津市、瀬田川にかかる瀬田の唐橋です

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京都の宇治橋、山崎橋と並んで日本三名橋、日本三大大橋の一つです

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全長260m   昭和61年(1986)8月、日本の道100選にも選ばれています

平成24年(2012)唐茶色に塗り替えられたばかりです

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東海道、中山道から京に向かうには

琵琶湖を渡るか、南北に迂回しない限り

琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川を渡る必要がありました

明治22年(1889)まで瀬田川に架かる橋は唯一この瀬田の唐橋のみでした

交通の要衝であり、京の都の防衛上の要所であったことから

古来より  唐橋を制する者は天下を制す 言われてきました

壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱然りです

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橋を渡ってみましょう

瀬田川、下流石山寺方面、新幹線が通過しています

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こちらは上流琵琶湖方面です

琵琶湖と瀬田川の境目は東海道本線から上流250mほどの地点だそうです

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橋を渡ってきました

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橋の特徴の擬宝珠(ぎぼし)は

歴代受け継がれており、文政、明治等の銘が入ったものも見られます

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帰ってきました

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ムカデ退治の藤原の秀郷公です

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また瀬田の唐橋は夕日の名所です  11:25分

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さぁ琵琶湖一周の始まりです

建部大社まで引き返します

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続きます