2014(平成26)年11月3日(月)文化の日
 
今日は大黒屋光太夫記念館の訪問です
 
江戸時代後期、伊勢白子港から江戸にむかった廻船が
 
遠州灘で嵐に遭い8か月間漂流し
 
アリューシャン列島のアムチカ島(当時のロシア領)に流れ着きました
 
以降母国に帰りたい一心で苦難の末10年後に帰国した
 
大黒屋光太夫とその船乗りの地を訪れてみました
 
伊勢国白子は現在の鈴鹿市
 
鈴鹿サーキット、本田技研鈴鹿製作所がありモータースポーツの町で
 
人口20万人で四日市市、津市に次いで3番目の市です
 
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光太夫記念館に向かう前に
 
鈴鹿ではあなご料理の専門店
 
伊勢若松の魚長さんにより腹ごしらえしましょう
 
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ここは月曜日が定休日です    13:30分
 
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カウンター、いす席とありますが奥の座敷に案内されました
 
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お品書きです
 
人気はあなご寿司とあなご丼です
 
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眼を通していると新商品のメニューがありました
 
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私は新物食いですので迷わずこれを
 
あなごは大きく柔らかく
 
海老はぷりぷりで美味しかったです
 
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家内の方はこれ
 
穴子一本天丼1080円   穴子が二本ですと1530円です
 
穴子一本でも結構ボリュームがあります
 
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県道6号線からみた魚長さんで手前は宴席用の別館です
 
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魚長さんと県道6号線を挟んで向かいに
 
こんな建物もありました
 
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お腹も膨れ
 
大黒屋光太夫記念館に向かいます   14:05分
 
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光太夫記念館は若松小学校のすぐ近くです
 
駐車場が狭く近くの若松地区市民センターの駐車場に停めました
 
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入館は無料です     14:20分
 
休館は毎週、月火曜日と第3水曜日で年末年始もお休みです
 
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伊勢若松で生まれ育った大黒屋光太夫は
 
天明2年(1782)12月13日
 
船頭光太夫を含め乗組員17名で神昌丸に荷を積み
 
江戸に向け白子の港を出ました
 
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途中遠州灘で嵐に遭い船は北へ北へと流されます
 
漂流すること8か月
 
アリューシャン列島のアムチトカ島(当時のロシア領)に流れ着きました
 
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アムトチカ島では先住民のアレウト人や
 
毛皮商人のロシア人らと共に生活しロシア語を覚えます
 
北の果てでの島生活は厳しく
 
仲間は漂流した17名から9名となっていました
 
4年後(1787年)、流木で作った舟でカムチャッカに渡り
 
(カムチャッカで3名亡くなり生存は6名)
 
零下50度を超える原野を旅しオホーツク、ヤクーツクを経由
 
1789(寛永元年)1月26日、イルクーツクにたどり着きます
 
伊勢の白子を出てから早や7年の歳月が経っています
 
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シベリア第一の都市イルクーツクに着いたのは
 
光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵、久右衛門の6名でした
 
イルクーツクで出合ったの
 
はキリル、ラックスマンという自然科学者でした
 
帰国を希う彼らに同情、尽力し
 
当時のロシア最高権力者の女王エカテリーナ二世に
 
謁見の機会を与えるのでした
 
 
イルクーツクでは久右衛門が病死、凍傷で庄蔵は片足切断
 
キリスト教に帰依し帰国を断念した新蔵、庄蔵と
 
あくまでも帰りたい光太夫、磯吉、小市の5名が残りました
 
イルクーツクから6000km離れた首都ペテルブルグに
 
光太夫は一人で出かけました
 
1790(寛政2年)12月22日のことでした
 
6000kmの道程を光太夫はひた走り一か月余で
 
ペテルブルグに到着しました(翌年の1月28日)
 
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女王への謁見、帰国願いまで待つこと四か月かかりました
 
ツァールスコエ、セローのエカチェリーナ宮殿
 
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謁見では光太夫の悲壮な帰国への思いが
 
女王エカテリーナ二世に通じ
 
女帝の【ペンヤンコ】=かわいそうにの一言で帰国の感触を得ました
 
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正式に帰国が許されました   寛政3年8月27日
 
ロシアの首都ペテルブルグで
 
光太夫は宮殿をはじめとする壮麗豪華な都のたたずまい
 
天文台、図書館、病院、銀行、劇場の文化を目にし
 
故国、日本にこの現況を伝えずにはと思うのでした
 
同年、寛政3年(1791)11月1日
 
光太夫は女帝エカテリーナ二世に招かれ
 
日本人として初めてお茶会をたしなみ
 
その後11月1日が紅茶の日として制定されました
 
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また、この間
 
光太夫は日本地図を描いています
 
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寛政3年11月12日、首都ペテルブルグを出発
 
モスクワを経由し
 
12月21日、4人の待つイルクーツクに戻ります
 
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翌1792(寛政4年)
 
イルクーツクでの恩人、キリル、ラックスマンの息子
 
アダム、ラックスマンが使節となりエカテリーナ号にて
 
光太夫、磯吉、小市の漂流者3名と共にオホーツク港を出港します
 
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エカテリーナ号
 
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寛永4年9月5日、エカテリーナ号は根室に到着
 
10年に渡る漂流、漂泊の旅を終え光太夫、磯吉、小市の3人は
 
夢にまで見た故国の地に足を踏み入れました
 
ただ残念なことに小市は根室にて壊血病亡くなっています  46歳
 
帰国した両名は翌寛永5年8月、江戸に送られ
 
取り調や将軍家斉にも謁見しています
 
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幕府は翌、寛政6年(1794)6月
 
光太夫、磯吉に対し報奨金を与え、江戸番町薬草園に
 
住居、手当金を与え留め置くとしました
 
後に二人はそれぞれ故郷若松に一か月ほど帰郷が許され
 
滞在の記録が残っています
 
大黒屋光太夫は後に妻を迎え一男一女をもうけ
 
息子亀二郎は後に大黒梅陰と称する儒学者になっています
 
磯吉、光太夫ともに番町薬草園で余生を送り
 
光太夫は文政11年(1828)4月15日
 
享年78歳の生涯を閉じました
 
34年間の薬草園での余生でした
 
磯吉は光太夫の死後10年後の天保9年(1838)11月15日
 
73歳で亡くなり
 
両名とも江戸本郷興安寺に葬られたとあります
 
(墓石は現在、残っていないそうです)
 
 
ロシアにとっては漂流者の帰還はもちろんですが
 
主任務は日本との交易を図ることが目的で
 
遂には長崎での交易権を得
 
根室から数えて10か月間滞船し寛永5年7月16日
 
オホーツクにむけ帰国しています
 
ペリーの浦賀湾の黒船来航に先立つこと60年です
 
この大黒屋光太夫の出来事は
 
井上靖が小説で【オロシヤ国酔夢譚】を発表
 
それを原作として1992年、大映が同名の映画を制作しました
 
監督   佐藤純彇
 
大黒屋光太夫    緒方 拳
 
磯吉  米山望文    小市  川谷拓三
 
庄蔵  西田敏行      新蔵  沖田浩之
 
キラル、ラックスマン   オレグ、ヤンコフスキー
 
エスカリーナ二世    マリナ、ヴラディ  (女王蜂)
 
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鈴鹿若松地区センター駐車場に戻りました
 
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敷地内に光太夫の顕彰碑が立っていました
 
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14:40分
 
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この後は一行が船出した白子港に寄ってみましょう
 
これは現在の白子漁港ですね
 
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遠く伊勢湾洋上を大型船が行き来しています
 
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漁港の近くに白子港緑地があります
 
大黒屋光太夫らの船出した白子港です
 
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近づいてみましょう
 
船出の地を記念してと記されています
 
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右の石碑には作家、井上靖氏が説明文を載せています
 
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北方向です
 
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正面です
 
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ここらは格好の釣り場でもあるんですね
 
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南方向、鼔が浦海水浴場です   15:10分
 
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伊勢若松の生んだ
 
大黒屋光太夫の地でした
 
有難うございました