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                 宮島からフェリー乗り場に着きました 
 
                ご覧のような天候です    (13:30分)
 
                     本格的な雨の前触れです
 
               ツアー最後の訪問は広島平和記念公園です
 
      30数年前にも訪れています  その時の感慨が今も残っている公園です
 
                 バスに乗り込み平和公園に向かいます
 
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             あいにくの雨で原爆ドームは車窓見学となりました 
 
          ドームは現在、補修改修中で、足場等で全体像が見られず
 
          初めてみた時のなまなましさの記憶のみが残っていました
 
 
      平和記念資料館に入ります  入館  \ 50    修学旅行生が多いです
 
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           入館してすぐ、8時15分を指した時計の写真が現れます
 
             1945(昭和20)年、8月6日午前8時15分17秒
 
           米B29爆撃機エノラ.ゲイが原子爆弾を投下した時刻です
 
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  原爆ドーム元は広島県物産陳列館として1915(大正4)年に竣工された建物でした
 
           原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました
 
             原爆投下の目標となった相生橋の東詰めに位置し
 
          南に元安川を挟んで現在は平和記念公園が広がっています
 
        ドームの東側200mの地点が爆心地、島外科の辺りとされています
 
        原爆ドームはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されていますが
 
         二度と同じような悲劇を起こらないようにという戒め、願いを込めて
 
                  特に負の世界遺産と呼ばれています
 
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                  当時の広島市の人口は35万人
 
     広島の他に原爆投下候補地としては小倉、新潟、長崎と挙がっていましたが
 
     連合国軍捕虜収容所が一番なさそうな広島がターゲットになったとのことです
 

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         原子爆弾は市街地の上空600mのところで閃光を放って炸裂
 
      爆心地から2kmに及ぶ市街地の建物が跡形もなく壊され焼き尽くされ
 
       爆風、熱線により多くの人々も亡くなりかろうじて生き残った人たちも
 
        焼け焦げ血みどろになった衣服を身にまとい瓦礫の街をさまよい
 
           逃げ惑ったとのことです  まさに生き地獄の様です
 
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                         焼け野原です
 
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                     投下直後の悲惨な状況です
 
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             同胞としてこんな悲しい思いは二度としたくありません
 
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        被爆者の等身大ジオラマです  原爆炸裂後の熱は3000℃です
 
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     私は戦争のこのような場面をみますと 『はだしのゲン』 が浮かんできます
 
         中沢啓治氏による自身の原爆被爆体験を漫画にしたもので
 
                 アニメや映画、テレビドラマ化にもされ
 
     戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜いた主人公の姿が描かれています
 
     中沢啓治=1939(昭和14)年、3月14日、広島市舟入本町に生まれました 
 
        原爆投下の当時広島市立国民学校の一年生でしたが被爆しました
 
                 その時、父、姉、弟を亡くしています  
 
            その後細々と漫画の執筆で生計を立てていましたが
 
        1966(昭和41)年、母の死で広島に戻り、母を火葬で送った際
 
   母の遺骨が放射能のためすべて灰となり一片も残らなかった事に怒りが込み上げ
 
     今まで自身の被爆体験を語らず、原爆という言葉を避けてきたその鬱憤を
 
        漫画の世界で果たす、戦うのだという気概が生まれてきました 
 
          はだしのゲンは33歳のときの執筆です (少年ジャンプ)
 
                      2002(平成14)年
 
      谷本清平和賞(牧師で被爆の惨状、平和の尊さを米国に訴える)を受賞
 
    2001年頃から、糖尿病により左目、網膜症、右目は白内障で視力低下となり
 
                  執筆からは遠ざかって いました   
 
 2012(平成24)年、12月19日、肺癌のため広島市民病院で亡くなりました 73歳没
 
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       それともう一つ野坂昭如(のさか あきゆき)著の 『火垂るの墓』 です
 
                   野坂昭如氏は多彩な顔を持ち
 
       作家としては1967年、火垂るの墓、アメリカひじきで直木賞を受賞
 
                  他に放送作家、歌手、TVタレント
 
      作詞家(おもちゃのチャチャチャで日本レコード大賞作詞賞、受賞)として
 
     又、1983年6月の参議院選に、第二院クラブ比例、第一位で出馬し当選 
 
              その半年後、元首相田中角栄がロッキード事件
 
      第一審で有罪判決を受けたことをきっかけに行われた12月の衆議院選に
 
                       参院議員を辞職し
 
   田中角栄に挑む形で出馬したが田中の牙城を脅かすことも出来ずに落選しました
 
                快男子、好男子、風雲児の生き様です
 
      1930(昭和5)年、10月10日、父、野坂相如(すけゆき)は土木技師で
 
         戦後、新潟県副知事を務めた人物ですが産み月間際に離婚
 
     昭如(あきよし)は母の実家、鎌倉にて誕生、実母ぬいは昭如を産んだ後
 
                   二ヵ月後に亡くなっています
 
     昭如は生後半年後で神戸の張満谷(はりまや)家に養子に出されました
 
      11歳の時、偶然にも戸籍謄本を見、自分が養子であることを知ります
 
     妹二人もともに養子で上の妹は病で、養父は1945年の神戸大空襲で亡くし
 
            下の妹は疎開先の福井県で栄養失調で亡くします  
 
             火垂るの墓での清太のモデルは野坂自身で
 
             節子のモデルは下の妹で在ったと思われます
 
          当時の経験を贖罪の念を込め記したものと思われます
 
                  涙なくしては見られぬ物語です
 
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             1954年に完成した、広島平和記念公園です  
 
             アーチ型の原爆死没者慰霊碑が見えます
 
             死没者名簿は毎年書き加えられていますが
 
          その推移を見ると年々存命する被爆者の方々の数は
 
    少なくなりつつあります   2011年、8/6現在、275、230名となっています
 
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              平和祈念資料館です  相当の強い雨でした
 
        悲しい町というイメージでしたが今回は建物、設備等も新しくなり
 
     救われた感じを持ちました   それでも厳かな感慨は胸に残っています
 
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            広島公園を後にバスは一路、JR岡山駅を目指します   
 
                   ターミナルから外は大降りです
 
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                       岡山駅構内です
 
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                 ここは桃とマスカットが有名ですね
 
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             新幹線ひかりが到着です    名古屋で解散です
 
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                二泊三日の山陰、山陽の旅が終わりです
 
  
      この梅雨時、たいして雨にも見舞われ、無事観光できたことに感謝です
 
                       有難うございました