2010(平成22)年  9月29日(水)  晴れ
 
     8:00                           9:35                          10:10/10:25           10:35~12:30
           伊勢、東名阪、湾岸 ¥2550                   シャトルバス¥100
   自宅 ―100km― 伊勢湾岸東海IT ―24km― 半田運動公園 ― 矢勝川,彼岸花
                                                                                   新美南吉記念館¥210
 
          12:45~13:00            13:30~14:10         14:30~15:00            15;20
            巡回バス1日¥300                           
              ― 赤レンガ建物 …… 酒の文化館 …… 半田運河 …… 知多半田駅
                                      酢の博物館
 
   15:30/15:40            15:50/16:00               16:05~16:50                    22:40
      巡回バス             シャトルバス¥100                    伊勢湾岸¥1200,  R23
     ― 南吉記念館 ― 半田運動公園 ―3km― ごんきつねの湯 ―116km― 自宅
                                                                        ¥800  26km 娘,下宿先17:50/19:45
 
                                        本日走行距離   269km(430分)
 
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               今年の夏は、異常な猛暑と残暑の影響で
 
               彼岸花の開花も約一週間ほど遅れました
 
 お彼岸(9/23)の頃には姿、形もなくようやく花に気づいたのが25日過ぎ頃からでした
 
          インターネットの『 新美南吉記念館 』のホームページで
 
                 知多半島半田の矢勝川の彼岸花が
 
             そろそろ見頃とのことで9月29日に出かけました
 
                天候もよく伊勢道から高速で愛知県半田市を目指します
 
       (伊勢自動車道は、民主党の選挙公約により
 
                  来年の3月末まで松阪~津間が実験的に無料です)
 
                約2時間ほどで半田運動公園に到着
 
           公園は広大で立派な陸上競技場が併設されていました
 
シャトルバス乗り場には人々が集まり彼岸花は五部咲きだとのことです
 
                 バスで10分程で会場に到着です
 
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                 会場から人の流れにそって歩きます
 
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                遠足か、園児の歓声も聞こえてきました
 
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                     収穫前の稲穂と彼岸花                 
       
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半田市は愛知知多半島の中心都市で古くから港湾都市として栄え
 
 童話作家で若くしてなくなった新美南吉の出身地です  
 
よく教科書に掲載されて いるごん狐物語の故郷です
 
   その南吉が散策した堤を彼岸花で真っ赤な風景を描こうと、平成2年から彼岸花の
 
 球根を植える100万本計画が地域住民から起こりました
 
         現在では東西2kmに渡り200万本の彼岸花が咲き誇っています
 
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     途中、矢勝川に架かる橋に『 家康、母於台に会いにこの橋を渡った 』との
 
述べ書きがありました
 
    (於台は14歳で家康の父、岡崎の松平弘忠17歳に嫁ぎ翌、家康を産んだが
 
     実家の父、水野忠政が没、兄、信元が家督を継ぐも信元は織田方につき
 
              今川寄りの松平家としては於台を離縁し実家に帰しました)
 
       この時家康3歳 …  その後、於台は阿久井城主、久松利勝と結婚し
 
家康は今川家の人質となっていました
 
     その後も母、於台は不敏な家康に密かに衣類等を送っていたと思われます     
 
            時は流れ、家康33歳のとき、桶狭間の戦いの直前に
 
 (家康、阿久井に立ち寄り母と対面すとの記録があります)   
 
このときのことではなかったかと思われます
 
 
  汗ばむくらいも、程よい風が清々しかったです   折り返し付近のででむし広場です
 
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 ででむし広場を通り越し矢勝川を進み南下すると、すぐそばに南吉の生家がありました
 
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  一見、平屋建てふた間、一つは父親の畳職人の仕事場で
 
  残り一つを区切り、母親の下駄屋と奥を居間にしてありました 
 
土間から地下にかけ狭い階段があり小さな台所と
 
  2畳程の食事どころと物置があり
 
あまりにも小さくここでの親子4人の生活は大変だったろうと思います
 
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                当時の日本人の生活、貧しさが垣間見えます    
 
 
          ここで寝起きし、勉学し、又 ここで著作活動をしていたとは
 
                   信じられないほどの手狭さでした
 
  矢勝川に戻り、堤防沿いを引き返します  今週末が見頃とのことです(3~4日先)
 
       会場が見えてきました           バザー、お土産物もありました
 
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 新美南吉記念館にもどり入館します 
 

              建物が地下に埋没されているユニークな建造物で

 
       南吉の生い立ち、生涯、まつわる人々、動物等々が展示されています
 

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   今年6/15には天皇皇后両陛下がご訪問されました 
 
 なかでも美智子皇后は童話作家
 
           新美南吉を世に知らしめされた一番の理解者で在られます
 
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※  新美南吉

 

         1913(大正2)年7月30日~1943(昭和18)年3月22日

 
             愛知県知多郡半田町(半田市)岩滑(やなべ)出身
 
 本名、新美正八(しょうはち)  児童作家
 
      代表作    ごんぎつね    手袋を買いに    おじいさんのランプ  
 
        牛をつないだ椿の木     花の木村と盗人たち    久助君の話 
 
                    でんでんむしのかなしみ
 
          大正2年、畳織、父渡辺多蔵と母りゑの次男として生まれる
 
            生後まもなくなくなった兄と同じく正八と名づけられる  
 
4歳のとき母りゑ病没、6歳、継母志ん入籍、異母弟益吉生まれる
 
 8歳、小学2年、7月生母りゑの実家に養子に出されるも
 
12月に渡辺家に戻る   13歳、半田中学校入学(現半田高校) 
 
盛んに童謡、童話を創る  16歳、緑草、少年倶楽部等へ盛んに投稿する
 
 18歳、中学卒業後、岡崎師範学校受験も体格検査で不合格
 
4月~8月まで母校、半田第二尋常小学校の代用教員を務める
 
この頃から木本威子(みなこ)との交際始まる
 
   19歳、東京外国語学校(現東京外国語大学)英語部文化に入学、創作、投稿盛ん
 

                 21歳(昭和9年2月)初めての吐血

 
 22歳、でんでんむしのかなしみ等幼年童話30編創作
 
この頃木本みな子と別れる
 
 23歳(昭和11)年、3月東京外国語学校卒業
 
東京商工会議所内東京土産品協会に就職
 
10月二度目の吐血、11月帰郷
 
 24歳、4月河和小学校、代用教員に、同僚山田梅子と交際   
 
9月飼料会社、杉治商会入社
 
    25歳(昭和13)年4月、安城高等女学校の教諭となり1年生(19回生)を担任
 
 26歳、中山ちゑとの結婚考える   執筆、寄稿盛ん  
 
 7月生徒達と富士登山、8月伊豆大島、東京へ
 
 27歳、6月中山ちゑ死去   ようやく世間に注目され始める
 
        28歳、創作、執筆等で体調崩し弟宛に遺言状を書く   12月血尿
 
 29歳、1月腎臓を患い通院。代表作次々執筆
 
   昭和18年病状悪化、3月22日、咽頭結核にて永眠    29歳7ヶ月   
 
法名  釈文成