ただ「そう習ったから」
「そう書いてあったから」じゃなくて、
『なんで縄をそう通すのか』
『なんでそこを留めるのか』
『なんで少しだけ引くのか』
『なんでそこはダメなのか』とか
教わるだけじゃなくて、考える。
受ける側も
痛みの意味も、間の取り方も、重みの伝わり方も、
『なんで』が分かると
全部が違って感じられるようになった。
ただ縛られるだけじゃなくなる、
「される側」じゃなくて、
「一緒に創る側」になれたような気がした。
一緒に関わる、一緒に築く。
AIみたいにプログラミングされてて
毎度 同じ縛りができたら理想だけど
お互いに生身の人間である以上、
「なんでそうなったか」
「こうしたらどうなのか」って、
常に『なんで』に向き合うことが必要で。
それが解けた時、
ただの形じゃなく、意味を持った動き になる。
縄が「道具」じゃなく「生き物」になる。
→「生き物」になると「言葉」になる
→ 「気持ち」になる → 向き合い方 になる
→ 向き合えてできたものが 緊縛を通して表現ができる
緊縛をすること って 生きること と 同じなんだなぁ。
生きてる間、大なり小なり 一生 勉強していくように、
緊縛も 一生 勉強、
死んでも 100理解出来るって無いんだろうなぁ。
生きてるから たくさん失敗して
たくさん ケガして治しながら また臨んで。
ウチなら特に それは他人の
何百・何千倍なんだろうけど。
これからも 一緒に たくさん失敗して、
ケガすることがあるかもしれないけど治しながら
また臨んで『なんで』を知って、
生きてるから 緊縛しよっ