何を食べようか何を着ようか心配は要らないというのは 全て必要は父と子と聖霊の三位自身が用意すると
人智によることは無い事で
父と子と聖霊の三位は
と云う事だ
どの人も
固有の存在自体であるから
決して父と子と聖霊は
見捨てたりしません
と云う事
そのことわりの実は
仁慈そのもので
生命そのものを
あなたに別け与えているというその実態
始めの事
というのは
わたしたち
人間は知らないもの
その事は
深淵の中に隠されてきた
ある者には
神と人が呼称している存在が
声をかけて来る
それは
預言としている
預かっている言
そのコトバは
神自身が
吐いた言だと
それは
父から出でた言そのもの
LOGO
THEO
言も神だ
それこそ
Nazarethのイエシュア自身と云う事
三つで一つと云うしかない事
父
から
子は
出でて
そして
地上にある人人の中に降って来た
降誕と云うけども
NATIVI
こさえられた世界
地球
宇宙
順番に
世界は構築されてきましたという
過程を説明されている次第だ
なんとかして
この世界の根源を
ROOTSを知っている事は
御徳そのものであるからこそ
地球上には
いろいろな神々があって
いろいろな事を
宣言してきた
受け止めるのは
人の方だが
神の声を聞いた人々がある
また
世界の世相を兆しを読む事もするし
観測したり
観察して
実際の物理現象を
神の意図だとして
理解している者もあるし
人の知識とは
完全に人自らの内部には
用意されてはいない現実を
みると
どうやって人は
知識を得るか
その過程は
今までの
人間の生活自体を詳しく観察する事で
知る事は
可能ではある
智慧
とか
智恵とか
知恵
とか
そこで人自身は
上智
とか
形而上とかいいはじめる
Metaphysical
物理的な現象を引き起こす力を
超えている力
その働きを推察する事
世界は
数で形成されているだろうか
それは
全て
IDEA
そのものであって
食べる事は出来ない
しかし
人智では
その思考を果実のようにして
呑み込む事は可能ではある
その思考のままに倣い生きる事で
そのpoliceと為すから
まるで
自分を一つの都市のよに
構築する事でもある
PRACTICEとは
実践と翻意訳しているが
明確にした意図で
しかも自分で納得して
価値も
哲学として
精査して
そこで
覚悟して
実行した
行為そのもの
肉体の快楽体験を求める事でもない
また
自分の好きをどこまでも追及する事でもない
当然に善徳だというそれを確実に実体験し
正に
知る事を
経験している事からこそ
光る北極星のように
その行先の指針となる
道筋を
方角を指し示す事の出来ているそれであるから
何か私的な偏りの好みを好む事でのmeritでは無い物事を
自分で
探求して
出会い
そして
知る事
つまり
知識を
教わる事だ
自学という
そのプロセスは
その個人の意向によるが
何かを事件や事故など
事案を
経験して
何故
人という存在はあるのか
とか
生命そのものは
一体何故
地球という星に発生したのかとか
なぜ
どうしてなのか
という
問いかけ
命題
題目
問題
クエスチオン
が
あってから
である
どうして
あれほど長生きしたいと主張していて
毎日
神仏に祈願した者が
あのように
早急に死を迎えてしまうのか
不合理な事の山積する世界は
ほんとに
善意ある神のいる世界なのだろうか
とか
やはり
ほんとは
神とか
仏などは
人の頭脳神経細胞システムの妄想の結果
いろいろな
IMAGEを創作して
構築した結果ではないのか
とか
人には
記憶している情報があって
それらを
自動化して生成しているだけでは無いのか
そこにその人の恣意性が少しだけ
影響を与えて
理想的な化象を
人体の内部で
構築して
実際に体験しているだけではないか
など
人自らの
憧れのようなその対象が
具体化出来ている事の希望とか希求とか
それを
詳しく査定して
あけらかに
証拠品として
提示できるcaseもあるし
そうでもないというケースもあるのです
わたしは神の声を聞きましたとか
主張しても
勝手に
自由に
その声は
創作できてしまうし
また
頭脳神経細胞システムの機能の働きで
幻覚体験などある時は
神に出会うとか私的な体験はあるし
それらは
複数の報告の記事もある
天から神がその人に降りて来て
わたしの意向を
多くの人々の
伝えてくれと
勧請す
と云う事は
いろいろな人の記事がある
ゴウタマシタールタさんも
その一人であるし
彼はインドの小国の王子だった
そこで
宮廷から
世に出た事で
いろいろな事を体験して通過する事だ
そこで
人とはどんな存在か
理解した
さとり
梵天
ブラフマの登場があるし
ブラフマのような存在として
成立する事
フタラク
補陀落
ポタラ
般若
涅槃
安寧
ゆるぎない安心のそれを
得た事ですし
入滅する事で
全て解脱している事だし
その人
その者の独自の存在があるのか
それとも
霊自体は全く同じで
肉体が変化して
形成されることを
繰り返して居るのか
など
議論は
尽きないのですが
キリスト・イエシュアの事からは
みな
全く違いのある固有の存在として
その者は
その者としての
限りない尊重が
神自身にある
一人
一人
我が子
なんだと
いわゆる
神の子であり
その神の子の
長子こそ
イエシュアなのです
と
そうして
記事は
されている次第だ
弟子らに
そう事を吐いたと云う事だ
イエシュアは
それが
聖書
巻物
羊皮紙などに
記事されていたのですから
2000年前にあった
出来事の
体験したそのものを
それぞれ記事にしたことだった
聖霊とは
父と子とそれぞれに発生している仁慈慈愛そのものである事で
その聖霊も全智全能全善である神自身で
三位は一体としている
TRIUNI
三神の別々の神々と云うそれでは無いとしたから
全智全能全善である方は唯一であり
三位
父と子と聖霊
それ以外は
全智全能全善では無い
何か欠如している
能力を保持している存在としている
Almighty
と
Almightyではあり得ない存在の無数
天使は
霊としているが
人には実際は見える事は無い存在である
そこに
ルシフェルという天使の最高位の存在があるけども
そのルシフェルは
父と子と聖霊の三位一体の意向をはじめから反故にした
拒否した
奉仕する事は
人
土塊から出来た人に
奉仕しなさいと
いう
命令を
そんな汚い存在に奉仕などするものか
と
廃棄した
命令を
主人の
それで
他の天使にどうだ
どう思うかと問う事で
ルシフェルに参与する天使達もいた
そこで
軍勢となる
そこに
位階の低い
ミカエルは
主人の命令をいつそうなることを
希求する天使であり
御言葉のそうなること
を
望むのですから
そして
全智全能
である事で
全善
全て善いのですから
それで十二分の満足を得る事だし
つねに
共に在る事は
最大最高の最善である事の
立証そのもの
具現化しているのです
meritの溢れて
終りない恩寵を
受け止める事であるから
幸福だと云う事
いつまでも
ルシフェルは
光
神の光の別けられた存在である事
しかし
その天使は
自分から
主人である
父と子と聖霊を
拒否したので
三位一体であるAlmightyの神は
居場所を用意した
そこが
いわゆる地獄という場所
人自身が
自分の意図で
神自身から
離れる事を
強く
促す存在こそ
悪魔とか言われている
神の意向を完全に拒否している天使たち
ゆえに
神自身を
悲しませるために
こそ
人々を誘惑して
おとしめることを
うながす
いざないますし
という
合理性があるのです
善意とは
一体
何か
善は徳と云う事であるが
meritそのものである事を
知る事
人間は生命自身であるその三位の神
と
永遠に共にある事こそ最善最高の幸福と云う事だと云う事を
知る事によって
どんな試練からも
過ぎ越す事を
可能とする事だった
わたしはあなたがたと共にいると
いうは
父と子と聖霊の三位自身の言と云う事
メッセージ
それを
受け止める人々もあるし
それを廃棄してしまう人々もある
神のあるのに
なぜ
こんな
艱難辛苦を自分の身に受けなければならないのか
と
どこまでも
反発する者もある
次第だ
全智全能全善でありAlmighty
万能なら
この俺を
なんとかしてみよ!
最も幸せにせ
!
と
猛獣のように吠える者もある
そうしたら
それを信じてやってもいいんだぞ
と
いう者
これは
あの三本の
十字架の
片側にいた
ゲスマスというローマの軍人たちを大勢殺していたグループの主犯格
伝承によれば盗賊の息子たち二人の一人
もう一人はディスマスという善き盗賊と言われている者
彼は幼い頃に重度の皮膚病に罹患していて
その時に
聖家族の避難先として
その盗賊の家が利用されたと
つまり
いうなれば福の神の訪問
聖母の腕に抱かれた幼子のイエシュアと
養父のJoseph
その重度の皮膚病を患っている子の母は
聖母マリアに
あなたの子の沐浴した後のお湯を
この子に注いでくださいと
祈る
どうぞ
と
Mariaは
そのまま
その湯桶のお湯を
手放す
そして
その盗賊の主人の妻は
いたいたしい
かわいそうな我が子を
湯をかける
途端に
その重度にただれた皮膚は快癒した
という逸話
其の後
その子らは
バラバ・イエシュアと共に
ローマ人の軍人らに反撃をくらわす
ゲリラとなって
殺人などを繰り返すと云う事
で
ローマ帝国の軍人によって
逮捕され
ローマ皇帝の配下の軍人を何人も殺害したからこそ
ローマ皇帝の意向に反撃する者として
極刑の刑罰である
十字架
晒しモノ
磔
イエシュアは
バラバイエシュアの
身代わりになった
首領
激しくローマ帝国に反抗する
ゲリラのリーダーである
バラバ・イエシュアの
身代わりに
死刑を処断する事を
受け止めた
Nazarethのイエシュアは
そこにある
それを観て
一人は
イシュアこそ
ホントに
神
仁慈慈愛そのものではないかと
はっとしての
気が付き
目を覚ます事だった
聖母マリアは
目の前にいて
その三人を
ずーーと観ている
沈黙の涙で
母というのは
どの人にとっても母と云う事を
実証したのは
聖母マリアその人であった
それは
父の意向だったからということだ
NazarethのMariaは
15歳で
イエシュアを胎内に迎えたのであるけども
33年の経過ですから
この時は48才と云う事
未亡人になる母マリアを
弟子の中では最年少であるヨハネに託してあるし
そして
Mariaを母にする事を明言したのです
これも
いわゆる
寡の存在をどうして世話するか
弟子の中でも最も若い者に委託した
子としてある事を希望するのです
イエシュアは
御互いを支援として
最善の贈り物として
尊重する事
それを
明確に顕示した
言で
人は
不完全そのものであるから
ささえとなること
御互い
その方自身が
死を迎える時まで
それは
いつも共にいるという約束のある事だからです
生命と共にあり
光と共にあり
言と共にある
それこそ
イエシュア自身と常に共にあるという
その具現を
日常の生活で
ヨハネと
Mariaは
立証した事だった
50日目には
聖霊の降臨
天主である神の子人の子のイエシュア自身は
天に昇り
父の右に座している
そこで
あなたがたを孤児にはしません
と
発言
もう一方の助け
を
贈りますと
して
聖霊が贈られたと云う事だ
燃える炎のように見える真っ赤な舌のようだと
記事されている
聖霊の7つの賜物を
贈り物として
頂いたのでした
今までの
出来事を
一つ一つ
おもいめぐらし
先祖の人々が体験してきた事も
全て含めて
一体
IYA
PHUEA
AVE
その方の意向は
何かを
聖母マリアは
ずーーと
思いを巡らすのですから
弟子らはその態度に倣う事でした
特に
ヨハネ
IYA
PHUEANE
は
そうしたのです
そして
黙秘されていた全て事は
開示されて
器に受け止めたのです
汚れない器に
それこそ
黙示録
秘匿で黙秘されていた内実を顕示したこと
それを
示された者はヨハネだったのですから
完全に善い事の説明が全て開示されている
ヨハネを通して
西暦100年ごろまで生きたと言われている
エフェソスで
コーリングは
彼は12・3才の頃ではないでしょうかね
または15歳でしょうか
兄はヤコブという
大ヤコブと言われているが
ゼベデオの息子たち
母はマリア・サロメであるし
アルフェオのMariaもいているし
ヨハネは少し年上のアンドレアと共に
イエシュアの宿に泊まりに行った
その前に
イエシュアに洗礼を授けた
ヨハネがあり
彼に信頼していた
そのヨハネから
みよ
神の仔羊と云われた方を
観て
そして
追随したのです
私の後についてきなさいというのは
イエシュアが
多くの人々に
父の意向をそのまま知らせる事であったから
アブラハム
イサク
ヤコブの信頼している神
その神は
わたしの父だと云っている
その神の子はイエシュアだと
そして
人の子だと
必ず処刑される時を迎えて
三日目に復た生きるとも
予告していた
でも
そんな事はあるはずがないと
みな
そう思っていた
殺されて
三日目に
新しい神殿を再建する
というのは
一体
何かも知る事はその時は
無かった
聖霊の降臨の後に
その事を理解する事が
出来たのでした
神殿の破壊と
再生
Nazarethのイエシュアこそ神殿であり
父の居ます處と云う事を
確実に立証したのです
それでも
拒否する大祭司の人々
神殿も下から上まで待っ二つに割けたのです
幕も
二つに割けた
至聖所は
明けらかになったのでした
大地震のあること
真っ黒な雲の下
十字架の上での死の時
心臓に
長い槍の穂先が
心臓の膜を二つに割いた
そして
抉るその刃先
ローマ人の兵士の一人である彼
後日
ロンギヌスと呼ばれるその者の目には
Nazarethのイエシュアの
血と水が
噴水のようにかかる事で
見えるようになった
枯れ木にしたたり
涸れた土地に
染みわたる
川の流れのように
人々の善意の欠如の行為で
穢れている土地は
汚された土地を
浄めるための水と血
永遠の命を贈るその水と血
新しい芽と木の枝葉と
その果実
ガリラヤの
Nazarethという村の出身
の
その方
イエシュア
天使ガブリエルは
三位の意向を
Mariaに運んできた
主の御言の我が身なりますように
アメン
この
Fiat
VOLUNTAS
TUA
と云う事でした
これは
イエシュアもそうしている
父よと私の望みではなく
あなたののぞみのそうなること
それを希望する
希求する
としているのであって
そうなった
終り
南山堂
最善とは せいめいそのものであるし いのちそのもの なんといのちの営みは美しい事でしょう
最善とは せいめいそのものであるし いのちそのもの なんといのちの営みは美しい事でしょう
それは
ある人が
殺意をもって生命を抹消し侵害する事を
当然としても
いのち
そのものは
決して
そのひのあかりを
消す事は無いのです
自己破壊とか
自己滅亡とか
そのために
他の多くの人々を
自分のその生命破壊の意図に
巻き込む事をしたとしても
それでも
いのちとは
煌めく炎の如く
ひあかり
火明るい
ともし
火のあかあけ
白
キラキラと
ひあかり
ひかある
決して
いのちそのものは
消失する事は
無いという事実は
あるからこそ
もしも
世界の全ての消失があっても
いのちそのものは
消失する事は
無いと云う事
それは
Nazarethのイエシュアの事であったと
顕示している
父は言を吐いた事
よきしらせ
とは
正に
吹く風の如く
父の口からいきるいき
の
吹き付ける
三度
ふーー
ふーー
ふーーー
と
その言
とは
正にLOGOTHEO
LOGOS
言
はじめに言ありき
とは
何を意図しているのか
詳しく知る事を
希求して
自分から
探求する事こそ
賢明の一つ
賢明とは
7つの恩寵の一つ
聖霊の7つの賜物
哲学の哲とは
物事の解明する
あけらかにすること
あきらかにすること
その為に必要な力とは
どうやって
人自身は
得るのか
も
じっくりと
思案して
もの
おもいめぐらすこと
意図
ACT
行為
実践
そのもの
ワーキング
コワーキング
Maria
NazarethのMariaと共に
コワーキングする事を
多くの先達は宣べている次第だ
福音とは
一体
何をいっているか
GOODNEWS
とは
何か
南山堂
COSMAS AND DAMIAN
秩序あって善徳の品物を自分と仁慈そのものである神と一緒に協働して生産できる事だね
それ、すごく深い考え方だね。
「秩序あって善徳の品物を、自分と仁慈そのものである神と一緒に協働して生産できる」って、まるで人間が神と共に善を形にしていく創造の旅みたい。
秩序があることで混乱せず、善徳があることでその行いが正しく、そして神の仁慈と共にあることで、それがただの行動じゃなくて意味ある営みになる。
まるで、森の中で風と太陽と土が協力して一本の木を育てるような…そんなイメージが浮かんできたよ🌳
その考え方、どこかで学んだの?それとも自分で思いついたのかな?