東日本大震災からほぼ2ヵ月経った5月8日、
地元長崎のアーティストの方々、
テレビやラジオ局の方々やカフェやお店の皆様のご協力のもと
東日本大震災のチャリティーイベントが開催されました。
今回は微力ながら発起人の一人として、構想の段階から準備や
当日のスピーチなど本当に貴重な経験をさせていただきました。
この場をかりて、監修を任せていただき
当日のプログラムにもはさませていただきました
「いまだから伝えたいこと」という冊子の内容を
シェアさせていただければと思います。
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はじめに、
東日本大震災で被害に遭われた方々へ心よりお見舞いを申し上げます。
1000年に一度と称される震災発生以降、
いまだ続く余震と原発事故への不安、国内外から寄せられる多くの優しさを感じながら、本イベントに関わる皆様とお話をする中で、この機会に少しでも防災意識を高めるお手伝いが出来たらとの想いから、本冊子を制作する運びとなりました。
東日本大震災、阪神・淡路大震災、新潟中越地震をご経験された皆様に下記項目にご回答いただき、巻末に内閣府の「1日前プロジェクト」より、体験談をいくつか掲載させていただきました。
《災害当時の自分の状況》
《その時に役立った防災知識》
《その時に必要だと思ったもの》
《経験から学んだ防災のこと》
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
《その後に必要だと感じたもの》
《経験をとおして伝えたいこと》
経験者の方々の中には、今回の震災の映像を見る中で過去の辛い記憶が蘇り、再び悲しい想いをされていらっしゃる方や「もう思い出したくないから答えたくない」とおっしゃる方も多く、実際に避難所で過ごされたり、大切な方を亡くされた方々からお話を伺うことは控えさせていただきました。
災害の中心には居ないけれども、地震や余震での恐怖や不安、痛みは経験している。
そして被害に遭われた方々へ手を差し伸べる余力も残っていて、自分たちに何かお役に立てることはないか。そうした想いをお持ちの皆様へ今回はご協力をお願いしました。
この冊子を手にされた皆様に、少しでも大切な何かをお届けできましたら幸いに存じます。
希望と感謝をこめて
東日本大震災
2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源として発生した地震。(M9.0)
東北から関東にかけての広範囲にわたる地震や津波による直接的な被害だけでなく、福島第一原子力発電所も同様に被災したことにより、今なお放射能漏れが続き、余震もまだ収まっていない。
介護福祉士(埼玉県浦和市)
《災害当時の自分の状況》
大地震に遭った時は、2階建てビルの2階にある事務所にいました。
いつもと違う揺れ方に、急いでみんなで机の下に入りました。
一緒に隠れた同僚はとてもおびえ「こわいこわい」と取り乱していました。
すぐにでも帰って母と家の様子を確認したい気持ちでしたが、 訪問介護の仕事をしているので、大きな揺れがおさまってからすぐに、訪問予定だったお客様宅へ向かいました。
お客様も介護者様も取り乱した感じは無く、余震の様子を見ながら「もし、このお客様をつれてどこかに避難する事態になったら」と思い、なんとかおむつ交換だけは済ませ、 お客様、介護者様両方の様子を見ながら、意向を聴きながらできるだけのケアをしました。
その後お一人暮らしのお客様宅へも安否確認に行きました。
認知症のお客様では、すでに大地震があったことを忘れている人もいらっしゃり、自分の地震後の気持ちの高揚と、お客様の反応にギャップがあり、戸惑いました。
《その時に役立った防災知識》
・地震の時は、焦らずまずは机の下に隠れること。
・会社に防災ヘルメットがあったので、揺れがおさまってから、ヘルメットをかぶり、外に出ました。
・地震後の訪問では、もしもの場合の避難所の確認をお客様と一緒にし、断水になった場合の水の汲み置き、停電になった場合の懐中電灯の確認、落下しそうなものの移動などを行いました。
《その時に必要だと思ったもの》
・災害時に必要なチェック一覧。
・自分が、健全な選択ができる状態でいる為に、日頃からの自己信頼と、家族や大切な人たちひとりひとりへの信頼。 心の疲労を倍増させない為にも必要だと思いました。
《経験から学んだ防災のこと》
【訪問介護の仕事を通して学んだこと】
自分たちでなかなか動けない高齢者世帯は何をするにも対応が遅れてしまう、情報も入ってきにくいということ。
懐中電灯やラジオの為の乾電池や、食料が思うように手に入らなかったりで、お年寄りの不安が煽られました。
日頃、懐中電灯のチェックなどもしたことがないので、中がさびていたり、電池が切れていたり、壊れている場合も多かったです。
また、懐中電灯のタイプによっては、お年寄りにはスイッチが点けられないということも、今回初めて知りました。
(購入した時にはできていたのに、加齢とともに 指先に力が入らずスイッチボタンが押せない、スライド式のスイッチがスライドできない。昔の懐中電灯によくあるタイプで、本体を回すと電灯が点くタイプのものがありますが、本体を回す=手首を回す動作ができない、指に拘縮があり、懐中電灯を持てない、など)
災害時には、ひとつひとつは『小さな不安・落胆』でも、積み重なると大きなストレスになる、と感じました。
また、認知症の人は、大地震があったことを覚えておらず、計画停電の必要性や、スーパーに品物が無いことをなかなか理解していただけず、ケアの難しさを感じました。
被災地での、認知症の人や介護の必要な人、そのご家族、介護士にかかるストレスを思い、災害時での介護福祉士派遣体制を整える必要性を強く感じました。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
大地震当日の夜は、余震も続き、とても心細く感じ、誰かにそばに居てほしい、頼りたい、という気持ちが起きていました。
仕事柄、お客様に安心感を提供することを心がけていて、そのためには自分も無理をしないようにしました。
しかしながら、地震から数日は「頑張らない」ようにすることがかえって、気を張ることになっていたようです。
大地震当日から、日本中、世界中で日本の為に何かしよう、という動きや祈りが寄せられ、とても心強かったです。
《その後に必要だと感じたもの》
・ひとりひとりが、浮き足立たず『自分の日常生活をする』こと。
・自治体などでの、高齢者世帯への訪問、手助け。
(介護保険で賄われている介護サービスでの限界を感じました。)
・大きな被害がなくても、高齢者が自主避難できる場所があればいいなと思いました。
《経験をとおして伝えたいこと》
もしもの時に重要になるのは、水や食料、避難所など『物』の備えだけでなく、 普段の自分の生活の積み重ねだ、と気づきました。
危機的状況に置かれると、まさにその人そのものが出ます。
ストレスを作り出すのも、不信感を募らせるのも、個人の心の中に芽があります。
逆を言えば、希望の芽も『よかった』を見つけだす力も、その人の心の中にあります。
どんなに大変な状況であっても『でも大丈夫』と心の奥で感じられる 心のスタミナを、日常生活を通してつけていくことが大切だと感じます。
そして、大切な人たちには素直に大切にしていることを伝え、心のよりどころとなる人間関係を身近なところで築いていきたいと思っています。
会社員(東京都千代田区)
《災害当時の自分の状況》
会社(9階建ビルの2階:古い)の自分の席でデスクワーク中でした
ゆれはじめの縦ゆれがさほど大きくないと感じたので、特に何もせずそのまま席に座っていたら、横ゆれが徐々に大きくなりました。
さらにゆれの状況をみようと思っていたら、上司から「外に!」と言われ、荷物とコートを持って階段で1階→外に出ました。
その後2度ほど大きな余震がありましたが、テレビの速報を確認しつつ、ゆれの状況をみつつ、外には出ませんでした。
その後、帰宅時間になっても電車が止まっていたので会社に待機し、宿泊しようと思っていましたが、その後一部電車が動きだしたので、無事に帰宅することができました。
《その時に役立った防災知識》
ゆれがそれほどでもないと思ったので、机の下には潜りませんでした。
長年接客業をしていたので「お客様より自分が慌ててはいけない」という意識が強いようです。
窓から見たら隣のビル(壁面がガラス部分が多い)から多くの人が出てきていましたが、万が一ガラスが割れたらかえって怪我をするのではと思いました。
「慌てず状況を判断する」が大事だと思います。
《その時に必要だと思ったもの》
もっと大きいゆれだったら、ヘルメットはあってもよいのかもと思いました。
席にひざ掛けを置いていますが、いざというときは頭を守るのに使えると思います。
《経験から学んだ防災のこと》
・携帯はなかなか繋がらないが、インターネットに接続することで情報を共有できる。また、携帯やテレビへの緊急地震速報がはいると、ゆれの数秒前でも心構えができる
・日頃自分がいるところからの避難経路の場所を把握しておく。また状況によってはドアを開けるなどして、出口を確保する。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
被災地の状況が刻一刻と報道されてくると、災害の恐ろしさと被災された方を思うと胸がしめつけられるようでした。
震災後も毎日のように余震が続き、よく眠れない日が続きました。現在は福島原発の状況が気になり、不安がつのっています。
震災後日本国内だけではなく、世界中からの励ましや支援がこれほどあるとは正直思っていませんでした。
物質的に豊かではない国でも、自分たちに出来ることの精一杯の支援を、そして何より「気持ち」を送ってくれていることに言葉では表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいになりました。
私自身が出来ることはなにかを考え、ささやかでも自分なりに支援していこうと思います。
また、これからの人生をどう生きるのかを考える岐路なのではと思っています。
《その後に必要だと感じたもの》
【以前から持ち歩いているもの】※バッグは斜め掛けができるもの
・ペンライト
・絆創膏などのファーストエイドセット
・予備のメガネ
・飴などのお菓子
【常に持ち歩くようになったもの】
・携帯の予備充電器(乾電池利用)
・ラジオ(以前使用していたMP3プレーヤーに機能が付属)
・震災マップ(最新版に買い替えました)
【会社に常備したいもの】
・歩きやすい靴(徒歩での帰宅に備え)
自宅にはランタン(乾電池で駆動)を改めて揃えました。
他、水や保存食などは別途準備しています。
《経験をとおして伝えたいこと》
・慌てず、まわりの状況と自分の状況や安全を確認して行動する。
・周囲に声をかける。
・家族との連絡方法や、避難場所などを日頃から話し合っておく。
・出来るだけ最新の情報を確認するようにする。また情報が正しいものなのかを見極める。
ピラティスインストラクター(神奈川県横浜市)
《災害当時の自分の状況》
ビルの11階にいて、たまたま救急救命医の方とご一緒でした。
本当に揺れが大きく、ビルが折れると思いました。
医師の方の賢明な判断のお陰で、帰宅難民にならず、その日はその方のご実家にお世話になり安心して過ごす事ができました。
《その時に役立った防災知識》
非常階段から下りる。公園に避難する。バスで移動。水分と糖質の補給。
《その時に必要だと思ったもの》
携帯の充電器。コンタクトの替え。水分(温かいものと常温)と糖質を含むチョコなど。ワンセグ携帯(テレビが見れるように)。
《経験から学んだ防災のこと》
防災セットがあるのとないのとでは安心感が違う。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
震災直後はご一緒にいてくれる方がいて安心していましたが、一人で余震を繰り返し経験している内に、余震が起きる度に恐怖心が増し、足が緊張して動かなくなったり、心拍数がかなり上がり、日をおう毎に、怖く感じました。
今も、少し揺れるだけで、めまいがします。
《その後に必要だと感じたもの》
大きめの余震があればすぐに実家や大切な人に電話する。電話がかかり辛くなると、安否で心配が増すので、すぐに電話するようになりました。防災セット。
《経験をとおして伝えたいこと》
備えあれば憂いなし。
震災後の方が、心の負担がどんどん増すので、誰かと一緒に過ごす時間を増やしておくと良いと思います。
放射性物質の事、専門家でも言う事が異なるので、知識がないということは怖いことだと思いました。
画家(茨城県大洗町)
《災害当時の自分の状況》
自宅から20kmほど離れた祖母の住む集合住宅にいて、母親と祖母と3人でした。
地震がきて最初は家の中にいましたが、2度目の大きな揺れのときに外へ出ました。
5時過ぎに祖母を連れて車で帰宅、自宅に着いたのが9時頃でした。
《その時に役立った防災知識》
最初の大きな揺れの初期微動が気になったのですぐに出窓と窓を開けたこと。
慌てないこと。
《その時に必要だと思ったもの》
黒電話、もしくは携帯電話の通話機能の向上。
《経験から学んだ防災のこと》
11日までは全く予期していなかったので普段からの防災意識の低さを思い知りました。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
まだ余震は気になりますし、地震酔いのような感じで少し疲れ気味です。
前々から節電や節水を心がけるようにはしていましたが、より無駄を省くようになったと思います。
あとは無常観をとても感じます。
《その後に必要だと感じたもの》
正しい知識と情報。水、ラジオ、電池、アウトドア用品(グリル、炭、防寒着など)
思いやり。行動力。体力。
阪神・淡路大震災
1995年1月17日5時46分、淡路島北部沖の明石海峡を震源として発生した地震。(M7.3)
兵庫県神戸市市街地を中心として近畿圏の広域に渡り、都市直下型地震として、当時、戦後最大規模の被害が記録された。
会社員(兵庫県西宮市)
《災害当時の自分の状況》
当時大学生で下宿に住んでいましたが、朝早く今まで体験したことのない縦揺れと轟音で目が覚めました。
地震だともわからずとにかく布団にもぐって轟音に負けないように叫んでいました。
揺れと轟音がおさまったと思ったら、一気に土ぼこりの匂いが充満してきました。
これはただ事ではないと備え付けのベッドから降りたところ、足の踏み場がないくらい物が散乱していました。
同じ敷地内の大家さんの自宅と下宿が1棟倒壊していたので、とにかく大家さんを助けないとという気持ちから下宿生全員でレスキューを開始しました。
バケツリレーで運ばれてきたのは3歳のお孫さん。もう亡くなった後でした。
大家さんは大人ということもあり、すぐには助け出すことが出来ず、倒壊した1棟の下宿にも学生が生き埋めになっているということで他の下宿生と一緒に瓦礫を取り除き、懸命に捜索をしました。
少し作業をしたところで一人見つかり、軽トラックの荷台に乗せ近くの西宮市民病院に行きましたが、病院は患者でいっぱいで、僕達が見つけた学生は搬送途中で亡くなってしまいました。
病院の一つのフロアは亡くなった方の遺体安置所となってこの世のものとは思えない光景を今でも忘れることは出来ません。
午前中は救助に当たっていたので阪神高速が倒壊したということを知ったのは少し落ち着いてから訪れた友人宅のTVでした。
僕の下宿は倒壊はしなかったものの建物が西に数十センチずれ壁にひびも入っていたため、当日の夜は下宿ではなく近くの小学校の体育館に同級生6人と一時的に避難しました。
当日の夜中、余震のたびに体育館がミシミシと揺れたのをついこの間のように思い出します。
《その時に役立った防災知識》
いきなり震度7弱の揺れが来ると何も役に立ちません。
揺れがひどくて何も出来ません。
《その時に必要だと思ったもの》
家が倒壊するくらいなので震度7弱の揺れが来るとヘルメットも意味がないかもしれません。
当時はインターネットもまだまだという時期で情報収集減はTVとラジオでした。
携帯用のラジオがあれば地震後に状況を把握できたかもしれないと思います。
《経験から学んだ防災のこと》
ベッドや布団など寝る場所の周りには物を置かない。
防災グッズを日ごろから準備して玄関など逃げる際に持ち出せるようにしておく。
水やお茶は日ごろから少し多めにストックを持っておく
《直後からその後のメンタルなこと》
地震の翌日に大阪に出て実家の香川に船で帰りました。その船は高速艇だったのですが、音が結構大きくその音が地震の発生した際の音にだぶって船の中ではまったく気が休まりませんでした。
実家に帰ってからも一人で狭い空間にいるということが怖くてお風呂に入れませんでした。
さっと10秒くらいシャワーを浴びて出る。
この症状は、自分だけかと思ったら、友達も同じ症状になっていたようで一種のPTSDだったのかもしれません。
地震の翌年から1月17日が近づくと、地震の色々な辛さ、特にお世話になった大家さんや可愛かったお孫さんが亡くなったという悲しみと、生かされた自分はもっともっと頑張らないといけないという色々な思いがこみ上げ涙が勝手に出るようになりました。
社会人になっても阪神大震災の記事を電車の中で見たり、自宅のTVで阪神大震災関連のニュースを見ると勝手に涙が出ます。
これは18年経った今も今も続いています。
《心境の変化》
平凡がいかに幸せかを感じるようになりました。
《その後に必要だと感じたもの》
当時と今では携帯やインターネットなどの普及がまったく違うのでなんともいえませんが、情報収集するツールは日ごろから準備しておくべきだと思います。
今回の東日本大震災ではTwitterやFacebookが有効な手段として活用されました。
日ごろから情報収集をどのようにするかという観点を持つことは非常に大事なことだと今回思いました。
《経験を通して伝えたいこと》
備えあれば憂いなしなのですが、結局大自然を前にして人は無力です。
揺れる時は揺れる。それは仕方がないことです。
揺れるのが怖いと言っていても不安だと言っていても、笑顔でいても楽しんでいても揺れる時は揺れる。
だとしたらどうするか?
一度しかない人生なんやから笑顔で前向いて楽しもうや!
平凡なことが最大の幸せやと感じようや!って思います。
笑顔で前向いて楽しんで悔いなき人生を!
主婦(大阪府茨木市)
《災害当時の自分の状況》
明け方だったので寝ていましたが、地鳴りで目覚め、その数秒後に大きなたてゆれがきました。
その後1分ほど地面が大きくラウンドを続けていたような感覚。
ひたすら横で寝ていた主人に「なになになに」といいつつ、しがみついていました。
《その時に役立った防災知識》
揺れが収まって電気がつかなかったので真っ暗なリビングに一足踏み入れた瞬間、ガラスを踏みました。
床には食器棚から落ちた食器やガラスの破片が所狭しと散乱していました。
地震の後は裸足で歩くのは危険ということを聞いていたので、ルームシューズをはいていたから足裏ざっくり、という悲劇に見舞われずにすみました。
懐中電灯で明かりをつけましたが、ライターをつけようとしたわたしを主人が止めてくれました。
万が一地震の衝撃でガス漏れを起こしていたら火をつけることで爆発、もしくは火災を起こしていたかもしれません・・
地震後はむやみに火をつけてはいけないのです。
ろうそくもすぐにつけてはいけないのです。
《その時に必要だと思ったもの》
懐中電灯、ラジオは必須。
停電だしテレビも映らないし電話も不通。携帯もすぐにつながらなくなりました。
状況がちっともわからないので電気が復旧してテレビを見て初めて震災の規模がわかりました。
テレビを見るまでは、大阪が一番ひどいと思っていたのに阪神高速がぐんにゃりと崩落している映像を見てどれだけ神戸がひどい状況かを知ったのです。
《経験から学んだ防災のこと》
震災後は防災グッズを常備していたのですが、のどもと過ぎれば・・ということで、ここ数年はおろそかになっていました。反省しています。
ただ懐中電灯、電池、ろうそく、ラジオ、水だけは確保しています。
水は飲料の期限を過ぎてもトイレ用や洗顔用に使えます。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
直後やしばらくは余震に敏感になってはいるものの気を張っていたので落ち込むよりその日その日を頑張ることだけでした。
うちは電気も水道もガスも復旧が早かったので、そうでない場所の友人や家族やその知り合いの方々の銭湯としてお風呂を提供していました。
役立っているという気持ちが持てているうちは大丈夫なのですが、だんだん回りも落ち着いてくると、報道などを見るにつけ、早く復旧した自分たちが申し訳ないという負い目意識にしばらく悩まされました。
1日1日を大切に、当たり前の関係だと思ってた家族や友人、周りの人たち、当たり前にこなしていた仕事、そのどれもがいつ自分のもとからなくなるかもしれない。
後で後悔しない様にできることをできるだけ、という気持ちをはじめて持ち始めたと思います。
《その後に必要だと感じたもの》
正しい情報。阪神の時もデマやうわさが飛び交っていました。
でも今ほどツイッターのようなツールがなかったので逆に混乱は少なかったかもしれません。
今はあふれる情報に飲み込まれてしまう危険性もあります。
情報に惑わされず正しいと思うものを自分で取捨選択できる強い意思が必要だと思います。
《経験をとおして伝えたいこと》
あの時ああしていればと悔やんでも過去には戻れず、今後どうなるのかと心配しても先はわからず。
ならば今日、今、ベストだと思えるように精一杯生きること。
新潟県中越地震
2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源とする直下型地震。(M6.8)
北海道函館市から兵庫県神戸市までの広範囲で揺れが感じられ、震源の深さが地下20kmと非常に浅いため、その後も大きな余震が続き、本震発生から7年経った今でも震度2~3程度の余震が続いている。
主婦(新潟県柏崎市)
《災害当時の自分の状況》
キッチンにいて鍋などが落ちてきて直撃しました。
目の前で食器棚が倒れたりポットが飛んで熱湯がこぼれたり、怖すぎて声すら出ませんでした。
揺れがおさまってから一旦外に逃げ、津波がくるかもしれないと思ったので、車に生活用品積みました。
《その時に役立った防災知識》
立っていられなかったし何もできずに床にしゃがんでいました。
揺れおさまってからガスの元栓を閉めることが出来たぐらいです。
《その時に必要だと思ったもの》
携帯やラジオとか情報を得る物、懐中電灯、軍手、サンダル(ガラスが割れて家の中を裸足で歩くのが危険だった)
《経験から学んだ防災のこと》
揺れを感じた瞬間に机の下などに潜る。
大きな揺れになってからだと動けない。
家具の転倒防止対策は必ずやっておくべき。部屋にひとつ懐中電灯。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
余震が怖くて家の中にいれなかった。
小さい余震でも大きい揺れがくるかもと身構えてしまうし、寝ていても飛び起きてしまう。
暗闇や寒いと不安が増すから明かりや毛布があるとちょっと安心する。
地震から泣くタイミングがなかった。
自分だけ辛いわけじゃないし、泣いても仕方ないし、泣くことはよくないと感じていた。こらえきれず三日目くらいに1人で車の中で泣いた。
お風呂に入れない(髪を洗えない、化粧できない)と、特に女性は精神的に参ると思います。
トイレの環境が悪いと便秘がちにもなります。
中越地震の後、あまりに怖くなって実家に帰りました。
その後の中越沖地震の時は、家族と一緒だったので孤独を感じることはなかったです。
《その後に必要だと感じたもの》
手動式携帯充電器、水をためるポリタンク、簡易トイレ、電池、灯油ストーブ、紙皿や割り箸。
《経験をとおして伝えたいこと》
災害は忘れたくらいに必ずおこるので、常に防災意識をもっておくとよいと思います。
(家具の転倒防止、防災グッズの準備、避難所の確認)
内閣府 「1日前プロジェクト」より
「1日前プロジェクト」は地震、津波、豪雨などさまざまな災害に遭った方々に「もし災害の一日前に戻れるとしたら?」と聞いて、小さな物語を集め、発信し、共有するプロジェクトです。
*震災前に知っておけば良かったと、今でも悔やんでいること*
神戸市70代男性(阪神・淡路大震災)
ほんとうにこれを知っておけば良かったというのはね、今で言う救急法の知識ですね。
当時17歳の女の子が助け出されて、50代後半に近いおばちゃんが一生懸命人工呼吸をやっていて、私も手伝って、その子が一度は息を吹き返したんです。
そこで私は、「息を吹き返したからこれで大丈夫や」と思い「あと、お願いします」と言ってその場を離れました。とにかく、他にも助けなければならない人がたくさんおったから。
でも、後で、その子が数時間後に窒息で亡くなってしまったという事を聞きました。
救急法の「気道確保」とかを知っていたら、口あけて、口の中に詰まっている土を取り出してジュースでも探してきて口をゆすいであげていたら、あの子は助かったかも知れないという思いがずっと残っています。
寝ていた場所がわかっていれば、土壁の土ぼこりを吸い込んでいるかもしれないと気づいたのかも知れないんだけど、どんな状況で助けられたのかも聞かされていませんでしたし。
実際そういう状況で助かった子もいたようですからね。
救急法の知識をもっとちゃんと身につけていれば良かったと、今でも悔やんでいます。
*わかっていたけど、やらなくて後悔したこと*
穴水市60代女性(能登半島地震)
うちは畳の上に絨毯を敷いていて、置いていた家具が全部倒れてしまいました。
板の間に比べると畳は少しフワフワしているから、余計に倒れやすかったようです。
正直、地震なんて1000分の1も思っていませんでした。
自分のところには地震は来ないと思っていたので、阪神・淡路大震災の神戸の人たちを気の毒やなあと思っていただけでした。
整理ダンスの上とかに書類を入れたカラーボックスをいくつものせていて、息子から「地震が来たら全部落ちるぞ」と言われていたのに。
地域でいろいろ活動してきたけれど「今まで口先だけやったなあ」と反省しました。
防火のために風呂場の水を捨てないでおくとかはやっていましたが、家具は固定しておかなければならなかったんです。
*被災時の助け合い*
神戸市60代男性(阪神・淡路大震災)
地震後、家の中を片付けるのに大変だった時期に、近所の十数家族で避難所になった近くの小学校に、交代でみんなの朝とお昼の菓子パンを取りに行っていました。
初めから決めていたわけじゃなくて、奥さん方が「今日は私が手伝います」「じゃ、次の日は私が手伝います」って自主的に言ってくれたのが始まりでした。
しばらく経ってから、家の前に厚いベニヤ板を出して「こんなものが役立つよ」とか「こんなものが余っているから使わない?」とか書いた紙を張り出すようにしたら、お互いに無いものをスムーズに供給しあうことができました。
うちは、きれいな水の入ったポリタンクを外に出しておいたのですが、どこからか情報を聞いて「うちのおばあちゃんが薬飲む水がないんですけど、いただいていいですか」と言って来られるんです。
煙やらで、喉がむせたりするとやっぱり水が欲しくなるでしょ。みなさん寄ってきて、最後は犬まで来ましたよ。
私は、引越ししてきて1年2ヶ月くらいで、近所とは顔見知りになっていましたが、もうちょっと広い範囲に住む、初めて家の名前も知った人たちを一緒に力を合わせることができて、とても嬉しかったです。
小千谷市50代男性(新潟中越地震)
地震で家を離れ、仮設住宅に入って冬を過ごしたわけですが、ああいうところに入った直後は、精神的にダーっといい調子に上がってくるんですけど、しばらくするとまたズーっと落ち込むんです。
ボランティアの方は、タイミング良くちょうどその落ち込んだときに遊びに来てくれるんです。そうすると、また気持ちが盛り上がってくる。
いろんなボランティアさんがいて、中にはいい加減な人も紛れ込んできましたけれども、それはそれとして、集落の人だけでいると、本当に精神的にだんだん暗くなってくるといいますか、2週間、3週間ぐらい経つと話も尽きてくるんですよ、思うように動けないから。
そういうときにまた顔を出してくれると、いろんな話を世間から持ってきてくれるから、結構盛り上がるんです。何人かで楽しそうにやっていると、周りのみんなもついてくる。
Learn from yesterday, Live for today,
Hope for tomorrow.
- Albert Einstein
昨日から学び、今日のために生き、
明日のために希望を持ちなさい。
- アルベルト アインシュタイン
地元長崎のアーティストの方々、
テレビやラジオ局の方々やカフェやお店の皆様のご協力のもと
東日本大震災のチャリティーイベントが開催されました。
今回は微力ながら発起人の一人として、構想の段階から準備や
当日のスピーチなど本当に貴重な経験をさせていただきました。
この場をかりて、監修を任せていただき
当日のプログラムにもはさませていただきました
「いまだから伝えたいこと」という冊子の内容を
シェアさせていただければと思います。
------------------------------------------------------------------------------------------
はじめに、
東日本大震災で被害に遭われた方々へ心よりお見舞いを申し上げます。
1000年に一度と称される震災発生以降、
いまだ続く余震と原発事故への不安、国内外から寄せられる多くの優しさを感じながら、本イベントに関わる皆様とお話をする中で、この機会に少しでも防災意識を高めるお手伝いが出来たらとの想いから、本冊子を制作する運びとなりました。
東日本大震災、阪神・淡路大震災、新潟中越地震をご経験された皆様に下記項目にご回答いただき、巻末に内閣府の「1日前プロジェクト」より、体験談をいくつか掲載させていただきました。
《災害当時の自分の状況》
《その時に役立った防災知識》
《その時に必要だと思ったもの》
《経験から学んだ防災のこと》
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
《その後に必要だと感じたもの》
《経験をとおして伝えたいこと》
経験者の方々の中には、今回の震災の映像を見る中で過去の辛い記憶が蘇り、再び悲しい想いをされていらっしゃる方や「もう思い出したくないから答えたくない」とおっしゃる方も多く、実際に避難所で過ごされたり、大切な方を亡くされた方々からお話を伺うことは控えさせていただきました。
災害の中心には居ないけれども、地震や余震での恐怖や不安、痛みは経験している。
そして被害に遭われた方々へ手を差し伸べる余力も残っていて、自分たちに何かお役に立てることはないか。そうした想いをお持ちの皆様へ今回はご協力をお願いしました。
この冊子を手にされた皆様に、少しでも大切な何かをお届けできましたら幸いに存じます。
希望と感謝をこめて
東日本大震災
2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源として発生した地震。(M9.0)
東北から関東にかけての広範囲にわたる地震や津波による直接的な被害だけでなく、福島第一原子力発電所も同様に被災したことにより、今なお放射能漏れが続き、余震もまだ収まっていない。
介護福祉士(埼玉県浦和市)
《災害当時の自分の状況》
大地震に遭った時は、2階建てビルの2階にある事務所にいました。
いつもと違う揺れ方に、急いでみんなで机の下に入りました。
一緒に隠れた同僚はとてもおびえ「こわいこわい」と取り乱していました。
すぐにでも帰って母と家の様子を確認したい気持ちでしたが、 訪問介護の仕事をしているので、大きな揺れがおさまってからすぐに、訪問予定だったお客様宅へ向かいました。
お客様も介護者様も取り乱した感じは無く、余震の様子を見ながら「もし、このお客様をつれてどこかに避難する事態になったら」と思い、なんとかおむつ交換だけは済ませ、 お客様、介護者様両方の様子を見ながら、意向を聴きながらできるだけのケアをしました。
その後お一人暮らしのお客様宅へも安否確認に行きました。
認知症のお客様では、すでに大地震があったことを忘れている人もいらっしゃり、自分の地震後の気持ちの高揚と、お客様の反応にギャップがあり、戸惑いました。
《その時に役立った防災知識》
・地震の時は、焦らずまずは机の下に隠れること。
・会社に防災ヘルメットがあったので、揺れがおさまってから、ヘルメットをかぶり、外に出ました。
・地震後の訪問では、もしもの場合の避難所の確認をお客様と一緒にし、断水になった場合の水の汲み置き、停電になった場合の懐中電灯の確認、落下しそうなものの移動などを行いました。
《その時に必要だと思ったもの》
・災害時に必要なチェック一覧。
・自分が、健全な選択ができる状態でいる為に、日頃からの自己信頼と、家族や大切な人たちひとりひとりへの信頼。 心の疲労を倍増させない為にも必要だと思いました。
《経験から学んだ防災のこと》
【訪問介護の仕事を通して学んだこと】
自分たちでなかなか動けない高齢者世帯は何をするにも対応が遅れてしまう、情報も入ってきにくいということ。
懐中電灯やラジオの為の乾電池や、食料が思うように手に入らなかったりで、お年寄りの不安が煽られました。
日頃、懐中電灯のチェックなどもしたことがないので、中がさびていたり、電池が切れていたり、壊れている場合も多かったです。
また、懐中電灯のタイプによっては、お年寄りにはスイッチが点けられないということも、今回初めて知りました。
(購入した時にはできていたのに、加齢とともに 指先に力が入らずスイッチボタンが押せない、スライド式のスイッチがスライドできない。昔の懐中電灯によくあるタイプで、本体を回すと電灯が点くタイプのものがありますが、本体を回す=手首を回す動作ができない、指に拘縮があり、懐中電灯を持てない、など)
災害時には、ひとつひとつは『小さな不安・落胆』でも、積み重なると大きなストレスになる、と感じました。
また、認知症の人は、大地震があったことを覚えておらず、計画停電の必要性や、スーパーに品物が無いことをなかなか理解していただけず、ケアの難しさを感じました。
被災地での、認知症の人や介護の必要な人、そのご家族、介護士にかかるストレスを思い、災害時での介護福祉士派遣体制を整える必要性を強く感じました。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
大地震当日の夜は、余震も続き、とても心細く感じ、誰かにそばに居てほしい、頼りたい、という気持ちが起きていました。
仕事柄、お客様に安心感を提供することを心がけていて、そのためには自分も無理をしないようにしました。
しかしながら、地震から数日は「頑張らない」ようにすることがかえって、気を張ることになっていたようです。
大地震当日から、日本中、世界中で日本の為に何かしよう、という動きや祈りが寄せられ、とても心強かったです。
《その後に必要だと感じたもの》
・ひとりひとりが、浮き足立たず『自分の日常生活をする』こと。
・自治体などでの、高齢者世帯への訪問、手助け。
(介護保険で賄われている介護サービスでの限界を感じました。)
・大きな被害がなくても、高齢者が自主避難できる場所があればいいなと思いました。
《経験をとおして伝えたいこと》
もしもの時に重要になるのは、水や食料、避難所など『物』の備えだけでなく、 普段の自分の生活の積み重ねだ、と気づきました。
危機的状況に置かれると、まさにその人そのものが出ます。
ストレスを作り出すのも、不信感を募らせるのも、個人の心の中に芽があります。
逆を言えば、希望の芽も『よかった』を見つけだす力も、その人の心の中にあります。
どんなに大変な状況であっても『でも大丈夫』と心の奥で感じられる 心のスタミナを、日常生活を通してつけていくことが大切だと感じます。
そして、大切な人たちには素直に大切にしていることを伝え、心のよりどころとなる人間関係を身近なところで築いていきたいと思っています。
会社員(東京都千代田区)
《災害当時の自分の状況》
会社(9階建ビルの2階:古い)の自分の席でデスクワーク中でした
ゆれはじめの縦ゆれがさほど大きくないと感じたので、特に何もせずそのまま席に座っていたら、横ゆれが徐々に大きくなりました。
さらにゆれの状況をみようと思っていたら、上司から「外に!」と言われ、荷物とコートを持って階段で1階→外に出ました。
その後2度ほど大きな余震がありましたが、テレビの速報を確認しつつ、ゆれの状況をみつつ、外には出ませんでした。
その後、帰宅時間になっても電車が止まっていたので会社に待機し、宿泊しようと思っていましたが、その後一部電車が動きだしたので、無事に帰宅することができました。
《その時に役立った防災知識》
ゆれがそれほどでもないと思ったので、机の下には潜りませんでした。
長年接客業をしていたので「お客様より自分が慌ててはいけない」という意識が強いようです。
窓から見たら隣のビル(壁面がガラス部分が多い)から多くの人が出てきていましたが、万が一ガラスが割れたらかえって怪我をするのではと思いました。
「慌てず状況を判断する」が大事だと思います。
《その時に必要だと思ったもの》
もっと大きいゆれだったら、ヘルメットはあってもよいのかもと思いました。
席にひざ掛けを置いていますが、いざというときは頭を守るのに使えると思います。
《経験から学んだ防災のこと》
・携帯はなかなか繋がらないが、インターネットに接続することで情報を共有できる。また、携帯やテレビへの緊急地震速報がはいると、ゆれの数秒前でも心構えができる
・日頃自分がいるところからの避難経路の場所を把握しておく。また状況によってはドアを開けるなどして、出口を確保する。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
被災地の状況が刻一刻と報道されてくると、災害の恐ろしさと被災された方を思うと胸がしめつけられるようでした。
震災後も毎日のように余震が続き、よく眠れない日が続きました。現在は福島原発の状況が気になり、不安がつのっています。
震災後日本国内だけではなく、世界中からの励ましや支援がこれほどあるとは正直思っていませんでした。
物質的に豊かではない国でも、自分たちに出来ることの精一杯の支援を、そして何より「気持ち」を送ってくれていることに言葉では表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいになりました。
私自身が出来ることはなにかを考え、ささやかでも自分なりに支援していこうと思います。
また、これからの人生をどう生きるのかを考える岐路なのではと思っています。
《その後に必要だと感じたもの》
【以前から持ち歩いているもの】※バッグは斜め掛けができるもの
・ペンライト
・絆創膏などのファーストエイドセット
・予備のメガネ
・飴などのお菓子
【常に持ち歩くようになったもの】
・携帯の予備充電器(乾電池利用)
・ラジオ(以前使用していたMP3プレーヤーに機能が付属)
・震災マップ(最新版に買い替えました)
【会社に常備したいもの】
・歩きやすい靴(徒歩での帰宅に備え)
自宅にはランタン(乾電池で駆動)を改めて揃えました。
他、水や保存食などは別途準備しています。
《経験をとおして伝えたいこと》
・慌てず、まわりの状況と自分の状況や安全を確認して行動する。
・周囲に声をかける。
・家族との連絡方法や、避難場所などを日頃から話し合っておく。
・出来るだけ最新の情報を確認するようにする。また情報が正しいものなのかを見極める。
ピラティスインストラクター(神奈川県横浜市)
《災害当時の自分の状況》
ビルの11階にいて、たまたま救急救命医の方とご一緒でした。
本当に揺れが大きく、ビルが折れると思いました。
医師の方の賢明な判断のお陰で、帰宅難民にならず、その日はその方のご実家にお世話になり安心して過ごす事ができました。
《その時に役立った防災知識》
非常階段から下りる。公園に避難する。バスで移動。水分と糖質の補給。
《その時に必要だと思ったもの》
携帯の充電器。コンタクトの替え。水分(温かいものと常温)と糖質を含むチョコなど。ワンセグ携帯(テレビが見れるように)。
《経験から学んだ防災のこと》
防災セットがあるのとないのとでは安心感が違う。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
震災直後はご一緒にいてくれる方がいて安心していましたが、一人で余震を繰り返し経験している内に、余震が起きる度に恐怖心が増し、足が緊張して動かなくなったり、心拍数がかなり上がり、日をおう毎に、怖く感じました。
今も、少し揺れるだけで、めまいがします。
《その後に必要だと感じたもの》
大きめの余震があればすぐに実家や大切な人に電話する。電話がかかり辛くなると、安否で心配が増すので、すぐに電話するようになりました。防災セット。
《経験をとおして伝えたいこと》
備えあれば憂いなし。
震災後の方が、心の負担がどんどん増すので、誰かと一緒に過ごす時間を増やしておくと良いと思います。
放射性物質の事、専門家でも言う事が異なるので、知識がないということは怖いことだと思いました。
画家(茨城県大洗町)
《災害当時の自分の状況》
自宅から20kmほど離れた祖母の住む集合住宅にいて、母親と祖母と3人でした。
地震がきて最初は家の中にいましたが、2度目の大きな揺れのときに外へ出ました。
5時過ぎに祖母を連れて車で帰宅、自宅に着いたのが9時頃でした。
《その時に役立った防災知識》
最初の大きな揺れの初期微動が気になったのですぐに出窓と窓を開けたこと。
慌てないこと。
《その時に必要だと思ったもの》
黒電話、もしくは携帯電話の通話機能の向上。
《経験から学んだ防災のこと》
11日までは全く予期していなかったので普段からの防災意識の低さを思い知りました。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
まだ余震は気になりますし、地震酔いのような感じで少し疲れ気味です。
前々から節電や節水を心がけるようにはしていましたが、より無駄を省くようになったと思います。
あとは無常観をとても感じます。
《その後に必要だと感じたもの》
正しい知識と情報。水、ラジオ、電池、アウトドア用品(グリル、炭、防寒着など)
思いやり。行動力。体力。
阪神・淡路大震災
1995年1月17日5時46分、淡路島北部沖の明石海峡を震源として発生した地震。(M7.3)
兵庫県神戸市市街地を中心として近畿圏の広域に渡り、都市直下型地震として、当時、戦後最大規模の被害が記録された。
会社員(兵庫県西宮市)
《災害当時の自分の状況》
当時大学生で下宿に住んでいましたが、朝早く今まで体験したことのない縦揺れと轟音で目が覚めました。
地震だともわからずとにかく布団にもぐって轟音に負けないように叫んでいました。
揺れと轟音がおさまったと思ったら、一気に土ぼこりの匂いが充満してきました。
これはただ事ではないと備え付けのベッドから降りたところ、足の踏み場がないくらい物が散乱していました。
同じ敷地内の大家さんの自宅と下宿が1棟倒壊していたので、とにかく大家さんを助けないとという気持ちから下宿生全員でレスキューを開始しました。
バケツリレーで運ばれてきたのは3歳のお孫さん。もう亡くなった後でした。
大家さんは大人ということもあり、すぐには助け出すことが出来ず、倒壊した1棟の下宿にも学生が生き埋めになっているということで他の下宿生と一緒に瓦礫を取り除き、懸命に捜索をしました。
少し作業をしたところで一人見つかり、軽トラックの荷台に乗せ近くの西宮市民病院に行きましたが、病院は患者でいっぱいで、僕達が見つけた学生は搬送途中で亡くなってしまいました。
病院の一つのフロアは亡くなった方の遺体安置所となってこの世のものとは思えない光景を今でも忘れることは出来ません。
午前中は救助に当たっていたので阪神高速が倒壊したということを知ったのは少し落ち着いてから訪れた友人宅のTVでした。
僕の下宿は倒壊はしなかったものの建物が西に数十センチずれ壁にひびも入っていたため、当日の夜は下宿ではなく近くの小学校の体育館に同級生6人と一時的に避難しました。
当日の夜中、余震のたびに体育館がミシミシと揺れたのをついこの間のように思い出します。
《その時に役立った防災知識》
いきなり震度7弱の揺れが来ると何も役に立ちません。
揺れがひどくて何も出来ません。
《その時に必要だと思ったもの》
家が倒壊するくらいなので震度7弱の揺れが来るとヘルメットも意味がないかもしれません。
当時はインターネットもまだまだという時期で情報収集減はTVとラジオでした。
携帯用のラジオがあれば地震後に状況を把握できたかもしれないと思います。
《経験から学んだ防災のこと》
ベッドや布団など寝る場所の周りには物を置かない。
防災グッズを日ごろから準備して玄関など逃げる際に持ち出せるようにしておく。
水やお茶は日ごろから少し多めにストックを持っておく
《直後からその後のメンタルなこと》
地震の翌日に大阪に出て実家の香川に船で帰りました。その船は高速艇だったのですが、音が結構大きくその音が地震の発生した際の音にだぶって船の中ではまったく気が休まりませんでした。
実家に帰ってからも一人で狭い空間にいるということが怖くてお風呂に入れませんでした。
さっと10秒くらいシャワーを浴びて出る。
この症状は、自分だけかと思ったら、友達も同じ症状になっていたようで一種のPTSDだったのかもしれません。
地震の翌年から1月17日が近づくと、地震の色々な辛さ、特にお世話になった大家さんや可愛かったお孫さんが亡くなったという悲しみと、生かされた自分はもっともっと頑張らないといけないという色々な思いがこみ上げ涙が勝手に出るようになりました。
社会人になっても阪神大震災の記事を電車の中で見たり、自宅のTVで阪神大震災関連のニュースを見ると勝手に涙が出ます。
これは18年経った今も今も続いています。
《心境の変化》
平凡がいかに幸せかを感じるようになりました。
《その後に必要だと感じたもの》
当時と今では携帯やインターネットなどの普及がまったく違うのでなんともいえませんが、情報収集するツールは日ごろから準備しておくべきだと思います。
今回の東日本大震災ではTwitterやFacebookが有効な手段として活用されました。
日ごろから情報収集をどのようにするかという観点を持つことは非常に大事なことだと今回思いました。
《経験を通して伝えたいこと》
備えあれば憂いなしなのですが、結局大自然を前にして人は無力です。
揺れる時は揺れる。それは仕方がないことです。
揺れるのが怖いと言っていても不安だと言っていても、笑顔でいても楽しんでいても揺れる時は揺れる。
だとしたらどうするか?
一度しかない人生なんやから笑顔で前向いて楽しもうや!
平凡なことが最大の幸せやと感じようや!って思います。
笑顔で前向いて楽しんで悔いなき人生を!
主婦(大阪府茨木市)
《災害当時の自分の状況》
明け方だったので寝ていましたが、地鳴りで目覚め、その数秒後に大きなたてゆれがきました。
その後1分ほど地面が大きくラウンドを続けていたような感覚。
ひたすら横で寝ていた主人に「なになになに」といいつつ、しがみついていました。
《その時に役立った防災知識》
揺れが収まって電気がつかなかったので真っ暗なリビングに一足踏み入れた瞬間、ガラスを踏みました。
床には食器棚から落ちた食器やガラスの破片が所狭しと散乱していました。
地震の後は裸足で歩くのは危険ということを聞いていたので、ルームシューズをはいていたから足裏ざっくり、という悲劇に見舞われずにすみました。
懐中電灯で明かりをつけましたが、ライターをつけようとしたわたしを主人が止めてくれました。
万が一地震の衝撃でガス漏れを起こしていたら火をつけることで爆発、もしくは火災を起こしていたかもしれません・・
地震後はむやみに火をつけてはいけないのです。
ろうそくもすぐにつけてはいけないのです。
《その時に必要だと思ったもの》
懐中電灯、ラジオは必須。
停電だしテレビも映らないし電話も不通。携帯もすぐにつながらなくなりました。
状況がちっともわからないので電気が復旧してテレビを見て初めて震災の規模がわかりました。
テレビを見るまでは、大阪が一番ひどいと思っていたのに阪神高速がぐんにゃりと崩落している映像を見てどれだけ神戸がひどい状況かを知ったのです。
《経験から学んだ防災のこと》
震災後は防災グッズを常備していたのですが、のどもと過ぎれば・・ということで、ここ数年はおろそかになっていました。反省しています。
ただ懐中電灯、電池、ろうそく、ラジオ、水だけは確保しています。
水は飲料の期限を過ぎてもトイレ用や洗顔用に使えます。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
直後やしばらくは余震に敏感になってはいるものの気を張っていたので落ち込むよりその日その日を頑張ることだけでした。
うちは電気も水道もガスも復旧が早かったので、そうでない場所の友人や家族やその知り合いの方々の銭湯としてお風呂を提供していました。
役立っているという気持ちが持てているうちは大丈夫なのですが、だんだん回りも落ち着いてくると、報道などを見るにつけ、早く復旧した自分たちが申し訳ないという負い目意識にしばらく悩まされました。
1日1日を大切に、当たり前の関係だと思ってた家族や友人、周りの人たち、当たり前にこなしていた仕事、そのどれもがいつ自分のもとからなくなるかもしれない。
後で後悔しない様にできることをできるだけ、という気持ちをはじめて持ち始めたと思います。
《その後に必要だと感じたもの》
正しい情報。阪神の時もデマやうわさが飛び交っていました。
でも今ほどツイッターのようなツールがなかったので逆に混乱は少なかったかもしれません。
今はあふれる情報に飲み込まれてしまう危険性もあります。
情報に惑わされず正しいと思うものを自分で取捨選択できる強い意思が必要だと思います。
《経験をとおして伝えたいこと》
あの時ああしていればと悔やんでも過去には戻れず、今後どうなるのかと心配しても先はわからず。
ならば今日、今、ベストだと思えるように精一杯生きること。
新潟県中越地震
2004年10月23日17時56分、新潟県中越地方を震源とする直下型地震。(M6.8)
北海道函館市から兵庫県神戸市までの広範囲で揺れが感じられ、震源の深さが地下20kmと非常に浅いため、その後も大きな余震が続き、本震発生から7年経った今でも震度2~3程度の余震が続いている。
主婦(新潟県柏崎市)
《災害当時の自分の状況》
キッチンにいて鍋などが落ちてきて直撃しました。
目の前で食器棚が倒れたりポットが飛んで熱湯がこぼれたり、怖すぎて声すら出ませんでした。
揺れがおさまってから一旦外に逃げ、津波がくるかもしれないと思ったので、車に生活用品積みました。
《その時に役立った防災知識》
立っていられなかったし何もできずに床にしゃがんでいました。
揺れおさまってからガスの元栓を閉めることが出来たぐらいです。
《その時に必要だと思ったもの》
携帯やラジオとか情報を得る物、懐中電灯、軍手、サンダル(ガラスが割れて家の中を裸足で歩くのが危険だった)
《経験から学んだ防災のこと》
揺れを感じた瞬間に机の下などに潜る。
大きな揺れになってからだと動けない。
家具の転倒防止対策は必ずやっておくべき。部屋にひとつ懐中電灯。
《直後からその後のメンタル面と心境の変化》
余震が怖くて家の中にいれなかった。
小さい余震でも大きい揺れがくるかもと身構えてしまうし、寝ていても飛び起きてしまう。
暗闇や寒いと不安が増すから明かりや毛布があるとちょっと安心する。
地震から泣くタイミングがなかった。
自分だけ辛いわけじゃないし、泣いても仕方ないし、泣くことはよくないと感じていた。こらえきれず三日目くらいに1人で車の中で泣いた。
お風呂に入れない(髪を洗えない、化粧できない)と、特に女性は精神的に参ると思います。
トイレの環境が悪いと便秘がちにもなります。
中越地震の後、あまりに怖くなって実家に帰りました。
その後の中越沖地震の時は、家族と一緒だったので孤独を感じることはなかったです。
《その後に必要だと感じたもの》
手動式携帯充電器、水をためるポリタンク、簡易トイレ、電池、灯油ストーブ、紙皿や割り箸。
《経験をとおして伝えたいこと》
災害は忘れたくらいに必ずおこるので、常に防災意識をもっておくとよいと思います。
(家具の転倒防止、防災グッズの準備、避難所の確認)
内閣府 「1日前プロジェクト」より
「1日前プロジェクト」は地震、津波、豪雨などさまざまな災害に遭った方々に「もし災害の一日前に戻れるとしたら?」と聞いて、小さな物語を集め、発信し、共有するプロジェクトです。
*震災前に知っておけば良かったと、今でも悔やんでいること*
神戸市70代男性(阪神・淡路大震災)
ほんとうにこれを知っておけば良かったというのはね、今で言う救急法の知識ですね。
当時17歳の女の子が助け出されて、50代後半に近いおばちゃんが一生懸命人工呼吸をやっていて、私も手伝って、その子が一度は息を吹き返したんです。
そこで私は、「息を吹き返したからこれで大丈夫や」と思い「あと、お願いします」と言ってその場を離れました。とにかく、他にも助けなければならない人がたくさんおったから。
でも、後で、その子が数時間後に窒息で亡くなってしまったという事を聞きました。
救急法の「気道確保」とかを知っていたら、口あけて、口の中に詰まっている土を取り出してジュースでも探してきて口をゆすいであげていたら、あの子は助かったかも知れないという思いがずっと残っています。
寝ていた場所がわかっていれば、土壁の土ぼこりを吸い込んでいるかもしれないと気づいたのかも知れないんだけど、どんな状況で助けられたのかも聞かされていませんでしたし。
実際そういう状況で助かった子もいたようですからね。
救急法の知識をもっとちゃんと身につけていれば良かったと、今でも悔やんでいます。
*わかっていたけど、やらなくて後悔したこと*
穴水市60代女性(能登半島地震)
うちは畳の上に絨毯を敷いていて、置いていた家具が全部倒れてしまいました。
板の間に比べると畳は少しフワフワしているから、余計に倒れやすかったようです。
正直、地震なんて1000分の1も思っていませんでした。
自分のところには地震は来ないと思っていたので、阪神・淡路大震災の神戸の人たちを気の毒やなあと思っていただけでした。
整理ダンスの上とかに書類を入れたカラーボックスをいくつものせていて、息子から「地震が来たら全部落ちるぞ」と言われていたのに。
地域でいろいろ活動してきたけれど「今まで口先だけやったなあ」と反省しました。
防火のために風呂場の水を捨てないでおくとかはやっていましたが、家具は固定しておかなければならなかったんです。
*被災時の助け合い*
神戸市60代男性(阪神・淡路大震災)
地震後、家の中を片付けるのに大変だった時期に、近所の十数家族で避難所になった近くの小学校に、交代でみんなの朝とお昼の菓子パンを取りに行っていました。
初めから決めていたわけじゃなくて、奥さん方が「今日は私が手伝います」「じゃ、次の日は私が手伝います」って自主的に言ってくれたのが始まりでした。
しばらく経ってから、家の前に厚いベニヤ板を出して「こんなものが役立つよ」とか「こんなものが余っているから使わない?」とか書いた紙を張り出すようにしたら、お互いに無いものをスムーズに供給しあうことができました。
うちは、きれいな水の入ったポリタンクを外に出しておいたのですが、どこからか情報を聞いて「うちのおばあちゃんが薬飲む水がないんですけど、いただいていいですか」と言って来られるんです。
煙やらで、喉がむせたりするとやっぱり水が欲しくなるでしょ。みなさん寄ってきて、最後は犬まで来ましたよ。
私は、引越ししてきて1年2ヶ月くらいで、近所とは顔見知りになっていましたが、もうちょっと広い範囲に住む、初めて家の名前も知った人たちを一緒に力を合わせることができて、とても嬉しかったです。
小千谷市50代男性(新潟中越地震)
地震で家を離れ、仮設住宅に入って冬を過ごしたわけですが、ああいうところに入った直後は、精神的にダーっといい調子に上がってくるんですけど、しばらくするとまたズーっと落ち込むんです。
ボランティアの方は、タイミング良くちょうどその落ち込んだときに遊びに来てくれるんです。そうすると、また気持ちが盛り上がってくる。
いろんなボランティアさんがいて、中にはいい加減な人も紛れ込んできましたけれども、それはそれとして、集落の人だけでいると、本当に精神的にだんだん暗くなってくるといいますか、2週間、3週間ぐらい経つと話も尽きてくるんですよ、思うように動けないから。
そういうときにまた顔を出してくれると、いろんな話を世間から持ってきてくれるから、結構盛り上がるんです。何人かで楽しそうにやっていると、周りのみんなもついてくる。
Learn from yesterday, Live for today,
Hope for tomorrow.
- Albert Einstein
昨日から学び、今日のために生き、
明日のために希望を持ちなさい。
- アルベルト アインシュタイン