ふなっしーやゲッターズ飯田とかAdoとか、覆面で活動するタレントの気持ちはよくわかる。成功して有名になった自分と、無名のまま市井の人の幸せを噛み締めるよろこびを、一粒で二度楽しみたい派なのだ。“たいてい”はどちらも経験するようこともないまま朽ち果てるのが相場だが、彼らは二つとも獲りに行く。
つまり、強欲というもう一つの覆面を被っているわけだが。これはけっして批判ではない。すべての人が拓かれるべき蒙なのだ。人は、周りが決めた自分と自分が決めた自分、という二重の呪縛に縛られて生きている。これくらい恐ろしいものはない。その呪縛が人生から可能性を奪い、できた筈の素晴らしい経験を奪い、ありえた筈の出会いを奪い、とうとう根こそぎ人生が収奪されていることに気付かないまま死んでいくのだ。
友達を取りかえ、恋人を取りかえ、職場を変えるのだ。その結果として自分が変わり、人生が変わり、世界が変わるのだ。ふなっしーはふなっしーのままだが、ふなっしーの中の人は転職可能性を秘めているのだ。ラーメン屋のバイトを、風俗のキャッチのバイトに変えることも、正社員になれる可能性さえ秘めたまま、ふなっしーはふなっしーのままなのだ。誰があの資生堂の受付の女の子がAdoだと気づくだろうか?そういう可能性と展望とサムシングが覆面タレントの本質であり、snsやネットの匿名カルチャーの特質なのだ。