東西冷戦 ベルリンの壁
1概要…西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所1945年5月8日の第二次世界大戦のドイツの降伏により、ドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス占領地域に当たり資本主義を名目とした西ドイツと、ソ連占領地域に当たり共産主義を名目とした東ドイツに分断された。ベルリンは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領されたが、アメリカ・イギリス・フランスの占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連共産党とドイツ社会主義統一党(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐために壁を建設した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、全て東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。冷戦の象徴、そして分断時代のドイツの象徴であったが、1989年11月9日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日に破壊され始め一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。建設前、ベルリンの壁の人工衛星画像。黄色の線がベルリンの壁を示している。西ドイツ、東ドイツ、ベルリンの位置関係 中央右上の赤いエリアがベルリン市。ブランデンブルク州に囲まれている。分割前、時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そしてベルリン東側は、ドイツ帝国当時からドイツ国時代を経て、冷戦中、即ち1945年5月8日に分割占領されてから1990年10月3日のドイツ再統一まで、引き続き東ドイツの首都となった。つまり、東ドイツに囲まれていたベルリンが、国としてのドイツの東西分断とは別に、さらにベルリンとしても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリンの東側部分(東ベルリン)はそのまま「東ドイツ領」となり、一方西側部分(西ベルリン)は「連合軍管理区域」(≒西ドイツ)として孤立した。これにより西ベルリンは(あたかも西ドイツの飛地であるがごとく)地形的に周りを東ドイツに囲まれる形となってしまった。これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツだけでなくベルリンも東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断した。分割後、分割後まもなく米・英・仏など資本主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を始めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。なお、ドイツが分断されて東西で別の国家が誕生すると東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、アメリカ・イギリス・フランス3か国の信託統治領」となり西ドイツ領とはならなかった。
そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。西ベルリンと西ドイツとの往来は指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが上記のように西ベルリンに入れる航空機はアメリカ・イギリス・フランスのものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。また、東西ベルリン間は往来が可能で通行可能な道路が数十あったほかUバーンやSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。建設へしかし上述の往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が、ベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁といえ、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。その名から誤解を招きやすいが、東西ベルリンの国境上だけに壁があったわけではない。長らく壁建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのケネディ米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、アメリカが東ドイツを国家承認するよう求めたが、アメリカ側は拒否した。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設はアメリカ軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。
1概要…西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所1945年5月8日の第二次世界大戦のドイツの降伏により、ドイツはアメリカ合衆国・イギリス・フランス占領地域に当たり資本主義を名目とした西ドイツと、ソ連占領地域に当たり共産主義を名目とした東ドイツに分断された。ベルリンは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって分割占領されたが、アメリカ・イギリス・フランスの占領地域である西ベルリンは、周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東ドイツ国民の西ベルリンへの逃亡が相次いだ。かかる住民流出に危機感を抱いたソ連共産党とドイツ社会主義統一党(東ドイツ政府)は、住民の流出を防ぐために壁を建設した。壁は両ドイツ国境の直上ではなく、全て東ドイツ領内に建設されていた。同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。冷戦の象徴、そして分断時代のドイツの象徴であったが、1989年11月9日にベルリンの壁の検問所が開放され、翌11月10日に破壊され始め一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。建設前、ベルリンの壁の人工衛星画像。黄色の線がベルリンの壁を示している。西ドイツ、東ドイツ、ベルリンの位置関係 中央右上の赤いエリアがベルリン市。ブランデンブルク州に囲まれている。分割前、時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁はその境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そしてベルリン東側は、ドイツ帝国当時からドイツ国時代を経て、冷戦中、即ち1945年5月8日に分割占領されてから1990年10月3日のドイツ再統一まで、引き続き東ドイツの首都となった。つまり、東ドイツに囲まれていたベルリンが、国としてのドイツの東西分断とは別に、さらにベルリンとしても東西に分断されたのである。この時、分断されたベルリンの東側部分(東ベルリン)はそのまま「東ドイツ領」となり、一方西側部分(西ベルリン)は「連合軍管理区域」(≒西ドイツ)として孤立した。これにより西ベルリンは(あたかも西ドイツの飛地であるがごとく)地形的に周りを東ドイツに囲まれる形となってしまった。これは第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになった際、連合国はドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツだけでなくベルリンも東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断した。分割後、分割後まもなく米・英・仏など資本主義陣営(西側諸国)とソ連など共産主義陣営(東側諸国)が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を始めとする生活物資を空輸し西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。なお、ドイツが分断されて東西で別の国家が誕生すると東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国民が暮らす、アメリカ・イギリス・フランス3か国の信託統治領」となり西ドイツ領とはならなかった。
そのためドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れが禁止となるなどの制限はあったが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地であった。西ベルリンと西ドイツとの往来は指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)と空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが上記のように西ベルリンに入れる航空機はアメリカ・イギリス・フランスのものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった。また、東西ベルリン間は往来が可能で通行可能な道路が数十あったほかUバーンやSバーンなど地下鉄や近郊電車は両方を通って普通に運行されており、1950年代には東に住んで西に出勤する者や西に住んで東に出勤する者が数万人にのぼっていた。東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所はA(アルファ)・B(ブラボー)・C(チャーリー)があり、Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られていた。建設へしかし上述の往来の自由さゆえ、毎年数万から数十万人の東ドイツ国民が、ベルリン経由で西ドイツに大量流出した。特に自営農民や技術者の頭脳流出は、東ドイツ経済に打撃を与えた。こうして西側から東ドイツを守るため、東西ベルリンの交通を遮断しベルリンの壁が建設されることになる。実質的には、西ベルリンを封鎖する壁というより東ドイツを外界から遮断する壁といえ、西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。その名から誤解を招きやすいが、東西ベルリンの国境上だけに壁があったわけではない。長らく壁建設について、当時のウルブリヒト国家評議会議長が東ドイツ国家の崩壊を恐れて、ソ連のフルシチョフに東西ベルリンの交通遮断を求め、フルシチョフもその強い要請に屈したと思われていたが、ドイツの歴史家マンフレート・ヴィルケが著著「壁の道」の中で1961年8月のウルブリヒト・フルシチョフ会談の記録から、壁建設の決定権はソ連が握っていたことを明らかにした。ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めていたのは事実であるが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのケネディ米大統領との会談まで待つよう求めた。ケネディとの会談でフルシチョフは、アメリカが東ドイツを国家承認するよう求めたが、アメリカ側は拒否した。その結果、フルシチョフはベルリンの交通遮断を認めたという。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設はアメリカ軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。