非/日常トリガー (マーケティング視点の考察)
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チョコレートと経験性

そろそろバレンタインシーズンだ。チョコレートで思い出した話がある。
とある大事なお客様との打ち合わせを控えたある日、その方がチョコレートが大好物ということでお土産に持参しようという話になった。そして上司に「ゴディ バを買って行ったら喜んでもらえますかね?」と訪ねた。ゴディバと言えば、高級チョコレートとして有名だ。これを買って行けば間違いはないだろう、そう私 は考えたのだ。しかし上司は言った。「○○さんはね、コンビニやスーパーで袋詰めで売ってたり、お徳用として味より量で売ってるようなのが好きなんだっ て。素朴なやつじゃないと駄目。」と。いやいや驚いた。そのお客様は、普段着ている物も、食事しているお店も、全てハイクラスで統一された方なのだ。だか らゴディバであればに失礼にあたらないし、喜んで頂けると安易に思った。何故チョコレートに限って、素朴なごくごく普通のものを好むのだろうか。理由はわからな いが、きっとその人の経験性によるものなのだろう。

ここで個人の経験性について考えてみよう。私の例で言えば、里芋のにっころがしだ。きっと銀座や麻布の高級和食店に行けば、厳選された里芋と調味料、そし て確かな腕を持った職人により調理され、間違いなくおいしいだろう。しかし、私は食べたいとは思わない。里芋のにっころがしは、祖母が作ったあれが好きな のだ。夏休みに遊びに行ったら必ず作ってくれたあれだ。ちょっと芯が残っていても、それはそれでおいしかった。少し濃いめの味付けも、祖母の味として大好 きだった。他の人が作る里芋のにっころがしにはワクワクしない。また食べたいとも思わない。思い出の味だからだろう、これが個人の経験性による消費行動の 例だろう。

ところで、広告の王道と言うのは、個人の経験性にはない非日常を演出して語りかける。例えば化粧品の広告。圧倒的な美しさを持つ女優たちが、これでもかと ばかりに輝く。普段私たちの経験している日常とはかけ離れた世界がひろがる。こうして広告は非日常を見せることによって、日常とのギャップを刺激して購買 意欲を掻き立てる。他にも、ファッションや家電、飲料、テーマパーク、ありとあらゆる分野で多く使われる手法だ。まさに王道。

一方で、個人の経験性に語りかける広告もある。しかしこれは難しい。なにせマス広告でありながら、個々人に対応する経験性をうつしださなければならないか らだ。誰にでもあてはまる「あるある」を組み込むことで受容度は高まるだろうが、ありふれた感が陳腐さを強調してしまい、競合他社との差異化が難しく、意 識にのこらない可能性もある。それゆえ、おそらく一部の分野でしか使えない手法で、広告戦略も困難だと思うが、はまれば効果は絶大であると、私は感じる。

そんな広告の例を2つあげてみよう。
まず、某生命保険会社のCM。ごくごくありふれた夫婦の日常を、ごく普通に数カットならべたCMだ。ここで終われば、きっと我々の心には「あー、こんなこ とあるな」程度で響かない。消費には結びつきにくいだろう。しかし、ナレーションは一言語る「-その幸せにかける保険です。」なるほど、当たり前のことだ と思っていた日常が、将来継続する保証はありますか?と言われてるようでハッとしたのを覚えている。この一言のコピーが、個人の経験性にガツンと侵入して くる。日常が日常でなくなるかもしれない非日常を教えてくれた、実に効果的なCMだろう。

続いてもう1つの例を挙げよう。某携帯電話会社の広告だ。当時この会社は、CM女王と呼ばれ乗りに乗っていた女優を起用し、上記で説明したような非日常的 な世界観を演出していた。こうして認知度やブランド力を高めて行ったと記憶している。社内では「○○(←女優名)効果」と呼んで、その貢献度を高く評価し ていると言った噂話も聞いたくらいだ。しかし、あるタイミングで突然広告内容が変わった。正確にはコミュニケーション戦略が変わったと言うべきか。当然継 続して起用されると思われた女優はピタリとそのCMには出なくなり、代わりにほとんど顔の知られてない役者やモデルが登場した。カメラ付携帯とそのサービ スの立ち上げ期のことだった。そして広告では日常にありふれたシーンを数多く映し出した。そしてそれらを繋ぐものとして、カメラ付携帯を訴求した内容だっ た。誰もが経験する日常に、当時は非日常であったサービスが生活を変える、そんな広告だ。なるほど、知名度の高い女優を起用するよりも、顔の知られていな い人を起用した方が、より我々の心にかえってスッと入ってくる。思い切った戦略に脱帽だ。結果、このサービスは競合他社も追随せざるを得ないほど高い認知 度と好評を得たのを覚えている。


と、個人の経験性とマーケティングの成功例について書いたわけだが、やはりマーケターにとってこの個人の経験性について考えることは実に困難だ。それゆえ、そこには触れずに、見なかったものとして扱われることも無くは無いだろう。
北田暁大という方が著書「広告の誕生」(岩波書店)において、伝統的な経営学や商学、広告代理店のマーケットリサーチなどで用いられた広告研究の手法についてこんな指摘をしている。


  「行動主義」と名指しされるように、《S(刺激)→R(反応)》と
  いうコミュニケーション・モデルを陰に陽に用いつつ、この
  「→」の過程の因果的連関を首尾よく分析するものであり、
  Rの射程を「買う/買わない」もしくは「買いたい/買いたく
  ない」「好意的である/ない」というきわめて狭い範域へと
  限定するものであった。それはまた同時に、「→」にかかわ
  る文脈を実験室的な真空地帯へと閉じ込める、あるいは特定の
  研究目的外の情報を付随的なノイズとして外部化する言説の系
  をなしていたといえる。


消費者と消費行動というのは実に複雑だ。そしてそこから生まれる文化をふまえ、マーケターはどう考え、どう行動すべきか。昔、銀座のナンバーワンホステスと呼ばれる女性が、テレビのインタビューでこう答えた。

「(裕福になって好きな物を何でも食べられる生活になったが、)今でも一番のごちそうは、母の作ってくれた日の丸弁当です。」

個人の経験性とマーケティング。どう向き合うべきか、考えさせられる言葉だった。

マスマーケティング

近年、ドラマの視聴率が低下傾向にあると言う。一昔前は「30%超え!!」なんて言葉もよく耳にしたが。
録画率と合わせれば、全体の視聴者は極端には減っていないのかもしれないが。

しかし、ドラマ離れを肌で感じる。別にテレビ局の人間でも、スポンサーでもない立場だが。
以前ならば、放送翌日の職場や学校では"話題のドラマ"の話でもちきりだった気がする。
それがどうだろう、近年そういった話題はあまり耳にしない。そればかりか、テレビの話をしている人はミーハーだ、なんて白い目で見てくる人がいる時さえある。

確かに私自身も、ひとりの時間はテレビよりネットや本、そして知人との電話、趣味などが占めている。以前程テレビは見ない。

俗にいう、生活や価値観の多様化だろう。多くの人にあてはまると思う。
こうして近年はマスマーケティングの効果や戦略方法について、改めて見直し・修正がなされている。
ドラマの話を出したが、テレビ業界だけにおける問題ではない。各企業のマス広告についてもそうだ。
だからこそIMC(integrated marketing communication)やクロスメディア戦略と言った手法が重要視されるのもわかる。

ただ、少し寂しい気もするのは私だけだろうか。
それは、みんなが共有すた"何か"の不在感と言うべきか。一昔前なら、時代を映したドラマ、時代を彩った音楽、時代を象徴する商品など、みんなが当時頷き、過ぎ去った今でもそれを思い出しては供に懐かしむことが出来た"何か"だ。それが近年は極端に減った。

ここの所、どの音楽番組でも「懐かしの名曲特集」を頻繁に放送しているが、それは昨今ヒット曲が少ないからという理由以外に、上記のような背景があるのかもしれない、そんな風に私は感じた。時代が感じる寂しさの払拭だ。
マスマーケティングで画一的な価値観をおしつけることを悪とする人もいるが、マスマーケティングによって個の拠り所を見いだし、恩恵を受けている人達も大勢いた。

一方で、そういう考えはこれからの時代には合わないとも思う。より細分化された嗜好と、それぞれの思いを持った生活者。各々が様々な色を持って生活していることは素晴らしいと思う。異なったモノをぶつけあい、議論が生じ、より高次な何かが生まれる。

その高次な何か1つ1つが、新しい時代への架け橋となるだろうか。そう願いたい。

スイーツ(笑)

ネットスラングとして広く浸透しているため、ご存知の方も多いこの言葉。この言葉が意味するものや、背景などを考えると、マーケティングの一側面が見えてくる。

はじめに、「スイーツ(笑)」とは、wikipediaの記述を引用して説明すると、


 雑誌やテレビ番組によって仕掛けられた言葉に踊らされ、
 そのような流行を追うことをお洒落なものとして享受し
 ているような日本人女性たちが、決まって「デザート」を
 「スイーツ」と言い換えて呼んでいるような現象を男性側
 がからかい、皮肉の意味で「(笑)」をつけて呼んだことが、
 このスラングの由来であると言われている。
 通常は揶揄は皮肉の意味を込めて使われ(中略)そのよう
 な人物の思考形態を指してスイーツ脳と称することもある。
 このスラングは、マスメディアやマーケティング戦略に
 対する受動性と高い自己肯定感に対する、女性への皮肉
 として使われる。具体的には、うわべの言葉を飾って
 何でもおしゃれに表現しようとする発想に対して向けら
 れるとされる


そして「スイーツ(笑)」的な人が好む言葉として、「自分へのご褒美」「ホットヨガ」「ケータイ小説」などが挙げられている。他にも探してみると、巻き髪 を「ふわモテカール」と呼んでみたり、単に家で食べる夕食を「家ディナー」を呼んでみたり。

ここで本題に入る前に、ひとつ説明したいことがある。
日本の消費社会やマーケティングを見ると、使用価値と交換価値が複雑に入り交り、それらを効果的に刺激する広告戦略が行われている。
この2つの価値について簡単な例で説明しよう。衣服で言うならば、使用価値は防寒だったり、体型をカバーしたり、運動に適した素材だったりと、機能面での 価値のことを指す。一方、交換価値については、デザインだったり、ブランドの持つステータスだったり、トレンドだったり、これらのイメージの部分が持つ価 値が値する。
そして使用価値には、より生理的な「needs(欲求)」が、交換価値については「wants(欲望)」が購入の動機になりうる。
他に例を挙げよう。喉が渇いたので水が飲みたい時、それは生理的な欲求で使用価値が重視される。喉を潤す水なら用は足りる。一方、昔流行ったエビアンホル ダーのように、ファッションとしてそれを所持していることがお洒落と考えて購入する際には交換価値が重視される。この時、水は水でもエビアンでないとなら ないのだ。
そして、マーケターは多くの商品の中で他と差異化するべく、また更なる消費を産むためには、交換価値を刺激していかないとならない。
近年、技術の進歩で携帯電話の機能は均一化してきた。つまり、どの携帯電話も使用価値は同じと言う事だ。こうして市場が成熟した際に、他の商品と差異化し たい時、あるいは更なる購買行動(買い換え)を促す時、もはや普遍的となった機能面(使用価値)では消費行動を刺激できない。そこで交換価値で勝負に出る わけだ。それはデザインだったり、ブランドイメージであったりする。

このように書くと、近年交換価値が重要視されているように映るが、上述の通り実際には使用価値と交換価値が複雑に入り交り、それらを効果的に刺激する広告戦略が行われている。


ここでようやく本題。先に出て来た「スイーツ(笑)」な人達は、使用価値に興味が全くないのではないかと言う疑問と、そこから考えられることが今回のテーマ。
お洒落とされるモノを消費することにステータスを感じ、そんな自分を他人と比べてセンスがあると思い、背景にあるマーケティングやメディアの戦略に気づかず踊らされている姿勢が、皮肉や揶揄の対象となっていると指摘されているが、その通りだと思う。

しかし失笑の対象となっている一方で、成長し続けることが宿命の資本主義経済において、このような消費行動は、これを支えている側面もあるのかもしれな い。あらたな需要促進には「欲望(wants)」が必要だからだ。けれど、この2つの価値だけで今後の経済成長や、消費者社会の発展は約束されるのだろう か。

そこで私は、第3の価値として「ケア」に注目している。(「第3の価値」と位置づけないまでも、「ケア」については、近年多くのマーケティング関連や消費社会関連の文献で述べられているが。)
「ケアの消費」が、今後のキーワードとしてにわかに注目されている。

より豊かで便利な生活を求め、そこに希少性を感じる使用価値の消費ではない。また、象徴やステータスに希少性を求めた交換価値の消費でもない。ケアの消費とは、自己の内部に希少性を求めた行動だ。

そして、もしかしたら「スイーツ(笑)」的な消費は、ケアの時代への過渡期に表れた現象なのかもしれないと感じたのが、私の考えだ。
「自分へのご褒美」と言われるような行動を、友人に得意気に話したりする姿は、イメージやステータスと言った交 換価値でもって他人と差異化する面で、使用価値は介入しない。しかし、一見交換価値を消費することに生き甲斐を持った行動であるようだが、究極的には自身 の内部に希少性を求めた消費行動でもある。(「スイーツ(笑)」的な消費の全てがそうでないが。)

昨年末、「myお歳暮」なんて言葉をよく耳にしたが、これもケアの消費ではないだろうか。
ジョギングブームによる関連商品の消費なんかもそうだろう。
新たな消費の性格の一側面が顔を出して来ていると感じる今日この頃。「スイーツ(笑)」的な消費行動も、視点を返れば「ケアの消費」として、新たな市場を産むのではなかろうか。

ただし、交換価値からの脱却に成功した上で「スイーツ(笑)」な消費を促すことが、賢い消費者を産むと考える。

しかし、ケアの市場が成熟した際には…交換価値の要素を再び取り入れるべきなのだろうか…。
その話は、またの機会にしたいと思う。