2月25日(日)午後、広瀬市民センターセミナー室において、「宮城地区の概略通史第2弾 ~近世の宮城地区~」をテーマとする学習会がありました。

これは7月学習会の「宮城地区の概略通史【第一弾】~冥王代から中世までの宮城地区~」に続くもので、80枚のパワーポイントスライドとA3判16ページの概略年表や次の付属資料で進められました。

〇【概要版】宮城地区江戸時代旧7カ村に在住の在郷武士

〇宮城地区江戸時代各村肝入・検断一覧表

〇宮城地区の旧家・名家・歴史的人物

〇明治8年10月大倉村絵図

 

 講義は、先ず7月30日(日)の学習会の内容をについて大きな振り返りをした後、以下のように進みました。

 その概要は、当日の講義と相沢氏作成の資料からの抜粋です。

 

伊達氏の進出

 伊達氏は、源頼朝の平氏討滅後の奥州征伐の頃から地歩を築き、室町幕府との強い連携のもとに一層勢力を拡大しました。そして14代当主稙宗の頃から徐々に国分領や大崎領まで進出を始めていましたが、福島県伊達郡から山形県米沢に拠点を移した15代当主の晴宗から輝宗を経て17代当主(初代仙台藩主)の政宗に家督が移ってからは、さらにその勢いが増しました。遂には当時の宮城県の大部分を手中に収め、宮城地区を長年支配していた国分氏を滅亡させ、多くの国分氏の家臣達を自分の配下に置く一方で知行地の変更と共に新たな家臣を配置するなどしました。この伊達氏の進出によって、宮城地区を取り巻く支配構造が一変したわけです。

 政宗は慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで徳川家康の勝利が決まると、拠点を岩出山から仙台に移し、12月には青葉山に仙台城の縄張始めを行い、翌年1月には城の普請に入り、城下の屋敷割も行います。宮城県史によると城が大体出来上がったのが慶長7年(1602)5月で、その頃上方に居た政宗が城に初めて入った(定住した)のが翌年の8月ということですが、城下の屋敷割と並行してその頃から着々と支配体制が整備されたと見られます。

 

旧7カ村の成立

 家臣達の職制が確立される中、仙台城下や郡村の統治のしくみの整備も進みました。国分氏の支配時代からすでに「村の形」が育まれつつあったようですが、仙台藩政の始まりと共に「村の呼び名」が確定したと見られます。各村々に肝入や組頭、宿場町に検断などの村役人が置かれているからです。ただ仙台領内全体の郡や村の行政区画は、寛永総検地の中で再編されたようです。愛子村が上下愛子村になったのもこの頃と見て良いと考えます。

 さて、宮城地区の縄文時代の遺跡が76カ所確認されていますが、それ以来外部からの移入者も含めて、相当家数や人数が増えていたはずです。特に国分氏の家臣達が各地に城館を築き、地域内の農民を取りまとめていたことで、まず郷六村・愛子村・熊ヶ根村・作並村・芋沢村・大倉村の6カ村が誕生し、その後愛子村が分割されて7カ村になります。この7カ村が明治22年3月まで続きました。当日の学習会では、その形成過程と発達の様子を村ごとに確認しました。その具体内容は紙面の関係で省略しますが、この7カ村は最大・最強の文化遺産と言えます。

 

 

関山街道と愛子宿等の整備

 政宗は仙台開府後、基幹道路や宿場町の整備を積極的に進めました。奥州街道に続き、関山街道・笹谷街道・七ヶ宿街道建設などが着手されたのです。

 奥州街道が慶長6年(1601)頃の着手、元和9年(1623)頃の完成と見られ、関山街道はこの期間内に着手され成立したものと思われます。そして関山街道の整備と共に、愛子宿・熊ヶ根宿・作並宿が、奥州街道沿いの中田宿・長町宿、七北田宿・富谷宿などに続いて設置されたようです。これ等の具体的な説明がありましたが割愛します。

 

入会地の3つの争論

 江戸時代に一定地域の村民が藩から生活・生業のための薪炭・橋梁等用材・飼い葉・萱などの使用を許された入会地(渡世山)がありました。この使い方には一村持山、複数村持山があり、中には村内の取り決めで各集落の持山とされた所もあったようですが、入会地の争論は、複数村持山で起こったものと一村持山で起こったものがあり、その3つの争いの内容は原因が全て異なっています。江戸時代にもなると自給自足だけの生活に止まらす、特に仙台城下において高まっていた薪や炭の需要に応えることによって手に取れる現金収入の生業は年を追うごとに高まっていました。

 個々の争いは数多くあったでしょうが、藩の裁定による決着に及んだものが作並村沼山、大倉村青下山、赤岩等三ケ銘の争論です。紙面の関係で具体内容は割愛します。

 

生業の有り様と変遷など

 江戸時代の生業について、人口や水田面積の推移、皇国地誌(宮城郡地誌)から見える江戸時代後期の状態の確認の後、講の普及や石碑の建碑、飢饉や雨乞いのこと、藩主等の川狩り・鷹狩り・湯治、温泉開湯や川崎の潜穴掘削、江戸時代の日記類からわかること、寺子屋のことの概要が確認されました。

 

各村の在郷武士達

 仙台藩において、家臣達の多くが城下の屋敷と村々の屋敷(在郷屋敷)とを行き来したことは大きな特徴です。宮城地区に知行地を与えられた在郷武士の数は、居住時期が必ずしも明確でないものがありますが、「伊達世臣家譜」や「宮城郡国分屋敷銘委帳」その他から旧村ごとに人数を拾うと、郷六村0、下愛子村4、上愛子村9、熊ヶ根村0、作並村4、芋沢村24、大倉村14、合計55名で、これに安永風土記や高人数御改帳などから拾える人数を含めると60名を超えます。それを別紙 

 「【概要版】 宮城地区江戸時代旧7カ村に在住の在郷武士」で説明がありました。

 宮城町誌史料編改訂版には、森田氏・関氏・萱場氏・大槻氏の4名の在郷武士だけだったと記述されていますが大違いです。

 

 当日は、「宮城地区の旧家・名家・歴史的人物」「宮城地区江戸時代各村肝入・検断一覧表」「江戸時代末期の激変の出来事」などについては、時間切れのため資料提供で終了しました。