真人が新たな職場に足を踏み入れたのは、既に太陽が頭上に差し掛かった頃だった。そのため昼食時に来るべきではなかったかと、約束時間よりやや早い到着を心配するものの、フロアの騒然とした状況を目にして、訪れるタイミングとしては悪くないと思い直した。
その光景は、新たな職場の偽らざる姿だった。決して体裁を整えない、この職場ならではの“日常”が晒されている。それは真人に、改めてこの職業の特殊性を実感させるものであった。
フロアの様子をひと言で表すなら「戦場」だ。ピリピリとした空気の中でキーボードを叩く音があちらこちらから聞こえ、情報端末の発する低いファンの音と共に、微妙なノイズを作っている。熱気がこもるため、見ているだけで息苦しくなるほどだ。その熱気とカタカタと打ち鳴らされる音は、さながら熱帯のジャングルでゲリラに咆哮を上げる自動小銃のよう。しかし真人が感じた熱は、決して情報端末の放出熱だけではない。
壁面には視界いっぱいに広がる大型のスクリーンがあった。そしてそれを仰ぐように、情報分析を担当するアナリストたちの作業デスクがひしめいている。これだけの端末があれば、放出された熱がこもっていてもおかしくないのに、打ちっぱなしのコンクリートがフロアを包んでいるせいか、快適な温度が保たれていた。
「熱」の正体は、大型スクリーンを見上げるアナリストたちの緊迫した表情、そしてスーツ姿の剛田本部長と骨川監理官の厳しいやり取りから来る、この職場特有の乾いた空気だった。何かとんでもない事態が発生している……それは、スクリーンに投影された者たち……自動小銃を抱えて一糸乱れぬ隊列で行動する、強制執行チームの様子からも明らかである。
――ここは『公安調査庁第九庁舎』
臨海地区にひっそりと佇む庁舎ビルで、表向きは何の変哲もない、ありふれた佇まいをしている。近くで運用される新交通の高架線や、通りを行き交う一般人の日常からは想像もつかない、国防の最前線を担っていた。
組織の名称は「テロ対策・危険物追跡ユニット」……通称DPU。テロ組織が使用する危険物を追跡、処理するのが目的で、公安調査庁の管理下にある。だが実際のところは、部隊を意味する「ユニット」が示す通り、軍事的な意味合いの濃い組織でもあった。
施設の本体は地上階ではなく、その下に根ざす地下階にある。地上階と地下階は完全に切り離されており、地下階は緩やかな傾斜を下った先にある、地下駐車場からしか出入りができない。もちろんその出入り口では、監視カメラと収納式の機銃が睨みを利かせており、不審者が一歩でも施設内に立ち入ろうとすれば、たちまち蜂の巣にされるだろう。全面がガラスで仕切られた明るい出入り口は一見、来訪者を笑顔で迎えているが、完全防弾仕様となっており、ガードの固い受付嬢のような隙のなさだった。そのためここが何をしている場所かなんて、近隣の住民はもちろん、政府高官でも知る者は少ない。
彼……中原真人はそのような施設に配属され、出勤初日にして早くも、厄介な事件を目の当たりにしたのである。
「新任のナカハラ・マサト捜査官ですね?」
真人がフロア入り口で突っ立っていると、少年と見間違うほど若い男が声をかけてきた。スクリーン上に投影された強制執行チームと同じ黒い防弾服を着用し、腰には、真人も知らない奇妙なハンドガンを装備している。育ちの良さを伺わせる物腰と人の良さそうな笑顔は、防弾服の物騒な印象とは正反対の頼りなさを感じさせた。
彼の年齢は真人と同じ20歳そこそこ。しかし熟練の捜査官のように落ち着きはらう真人とは違い、どこか場慣れしていない初々しさを感じさせた。それは真人の冷静さと比べれば年齢相応なのだが、実力と経験が求められるこの組織に於いては他者に不安を与える存在でもある。しかし元々、感情表現が不器用な真人は、いつもと変わらないポーカーフェイスで彼の言葉を訂正した。
「――マコトです。中原真人。よく間違えられます」
「失礼しました、中原捜査官。私は強制執行チームの上杉誠と申します。同じ“マコト”同士、仲良くやりましょう。……さあ、こちらへどうぞ」
彼は真人をミーティング・ルームに案内するつもりでいた。そこはガラス張りの一室で、来客を案内する場所としても使われている。機密事項を扱うユニットなのでめったに来客はないが、証人保護やスタッフの家族を相手にするのにも使用されていた。
「大変な時に来てしまったようですね」
ミーティング・ルームのガラス壁越しに、真人がフロアに設置された大型スクリーンを見やる。すると彼の言わんとしていることを察したのか、上杉は、室外に漏れる心配がないにも関わらず声のトーンを落とした。「突入作戦の真っ最中ですからね」と。
真人の視線の先、大型スクリーンの中では、今まさにハリウッド映画のような銃撃戦が展開されていた。何者かを古ビルで待ち伏せ、複数の小隊でたったひとりの“テロリスト”を包囲しようとしていたのである。
しかし奇妙なのは、その“テロリスト”の様子であった。見た目はどこにでもいる青年で、物騒な銃やら手榴弾やらを所持している気配はない。原色のパーカーとラフに着こなしたパンツの様子から、こんな古ビルにいるより、渋谷や池袋の方が似合う感じだった。
問題は、彼が使う“道具”にある。彼は驚いたことに、一枚のドアを介し、何もない空間から空間へと瞬間移動していたのだ。しかもドアは一枚ではない。彼はドアを通り抜けて空間を移動すると、また新たなドアを取り出して、彼を包囲しようとする部隊を翻弄していたのだ。
「あれは?」
表情ひとつ変えることなく告げる真人に、上杉は緊張の面持ちで答える。
「アップル・コード03……通称“ドア”です。どこへでも行くことができるドアですよ。それとあれを見て下さい。ほら、テロリストの手元。あれもそうですよ」
見れば青年は、婦人が使うようなガマ口のバッグを手にしている。その道具も人知を越えたものらしく、彼が手を突っ込むと、その容量にはとても見合わない、例のドアが引きずり出されたのだ。
「アップルコード07“バッグ”ですよ。あれを使えば、どんなものでも瞬時に手元に取り寄せることができます。奴は少なくともドアを2つ、そしてドアを回収するためのバッグを所持し、他のテロリストの脱獄を手伝っていたんです」
そう言えば数日前、有名なテロリストが、警戒厳重な収容所から煙のように消えたという出来事があったな……真人はニュース報道を思い出す。あれは確か、キューバのグァンタナモだっただろうか。
そんなことを考えていると、中原が空気を察して補足した。
「我々の任務は、ああいった“危険物”を追跡し、確保することですからね。いったいどこの誰が、あんな超科学の塊をテロリストに流したのか……。まあ、我々、強制執行チームはあくまで回収するだけで、実際に追跡するのは中原捜査官、あなたのような有能な方なのですが」
そうだ……真人は心の中で気を引き締める。自分はそれらテロリストに流出した“道具”を回収しつつ、託された“役目”を果たさなければならない。そのためにこのDPUへとやって来たはずだ。
人類な仇なす秘密の“道具”の数々……。
それが引き起こす大惨事を、2度と繰り返さないために……。
……つづく。