東京府秋葉原市。この街には僕しか見えない景色がある。
誰もいない秋葉原デパートの屋上。5階の高さから見下ろす夜景は静かに瞬く地上の星だ。雑踏には日々を送る人々の笑顔や難しそうな顔があり、それぞれの世界を謳歌している。僕にとって彼や彼女は「名も知らぬ人々」だ。でもそのひとりひとりが与えられた「役割」をこなし社会を回している。道路を整備し、建物を作り、ゴミの収集を受け持つ……。都市伝説の怪人などと呼ばれる僕に比べれば何十倍も価値がある存在だった。
僕は手にしたアンパンの袋をガサガサと開けながら大通りの方面へと視線を移した。そこでは人が溢れ、ある者は我が物顔で横切る路面電車を避けながら通りの対岸へと足早に移動している。それは誰もが共有する日常風景。なにもおかしなところはない。そして僕は冷たいアンパンを一口頬張った。
そのずっと先には秋葉原湾が広がっていた。海岸沿いにはいくつもの倉庫街。ギャングが【オブジェクト】の裏取引に利用したり、頻繁にドンパチが行われたりする物騒な区画だ。秋葉原市民ならめったに近付かないし、陸軍警察隊だって防弾ベストなしには踏み込まない。今夜は……まあ平穏だろうか。懐中電灯を手にした警備員がひとり、欠伸をしながら心細い灯りを揺らしている。僕の出番はない。「待機状態」は続く。でもこれも誰もが共有する日常風景。僕はもう一口、アンパンを頬張った。
5階建ての秋葉原デパートの下から上空を見上げる人なんてめったにいないだろう。でももしそんな人がいたとしたら、きっと言葉を失うに違いない。なぜなら視線の先にはまるで影のような怪人……つまり僕がいるのだから。
今の僕……と言っても年中この格好だが、普通とは言いがたい姿をしていた。漆黒のソフト帽と漆黒のトレンチコート。全身がまるで影のように闇に覆われている。紅い眼のゴーグルで隠した顔もやはり闇に覆われていて、どこに鼻があってどこに耳があるのか分からない。アンパンにかじりつく口さえも影に沈んでいるため、まるで漆黒のマスクを被ったままモノを食べているように見えるはずだ。
「噂の怪人影男も人間と同じものを食べるのだね」
「彼」が目を細めながら眠そうな顔を向けた。
「人間さ。僕は人間だとも。電磁波を操る【オブジェクト】の魔法で姿を隠しているだけさ」
僕は「彼」に答える。すると「彼」が不思議そうな顔を向けてきた。きっと【オブジェクト】の意味が分からないのだろう。
「【オブジェクト】ってのは古代文明の謎多き遺産のことさ。そのほとんどが用途の分からない超技術の塊でね。例えば……僕の腰の裏にある二本の短剣がそうだ」
そう、この短剣は身につけているだけで電磁波を操ることができる【オブジェクト】だ。陸軍警察隊の無線を盗み聞きすることも、偽の情報に改変することも容易い。例えばこうして手を伸ばすと……ほら、目の前を走っている幾筋もの光の糸が、一本、手元に引き寄せられただろう? こいつに触れると無線通信の内容が頭の中に流れ込むというわけさ。
……え? 光の糸なんて存在してない? 僕がただ虚空に手をかざしているだけだって? 失敬。これこそ「僕にしか見えない景色」だ。紅い眼のゴーグルを通してのみ認識できる「電磁波の世界」である。
僕に与えられた3つの【オブジェクト】は僕に3つの能力を与えてくれた。その第一は漆黒のトレンチコート。これは僕の身体を「影化」し、音もなくススッと移動できるようにしてくれる。壁を伝ったり飛翔したり……。まるで幽霊さ。あとは影化している間なら、どんなに弾丸を受けても無傷で済んだ。なぜならコートの表面は異次元世界に通じており、弾丸だろうがナイフだろうが、すべてコートの向こう側の異次元世界にすり抜けるからだ。どうだい、便利だろう?
次は二本の短剣。これは電磁波を操ることができる【オブジェクト】だ。通信を盗み見ることも改変することも思いのままだし、短剣で切り裂くこともできた。それは電磁波のひとつである可視光線も例外ではない。短剣で一刀両断すればこの通り。僕の顔が闇に包まれるという寸法だ。
科学的なことはよく分からないが、どうやら太陽から降り注ぐ可視光線は、物体に跳ね返ることで人に「色」を認識させるらしい。これを人の眼球が捉える前に断ち切ってしまえば、光がブラックホールに囚われるように物体が闇に包まれるのである。
最後は紅い眼のゴーグル。これを通すと、世の中のあらゆる電磁波を「視る」ことができた。頭上にも、足の下にも、僕を貫通するものも。それぞれが黄色や青、金色や虹色の光の糸となって秋葉原市を繋いでいる。今しがた僕が引き寄せた糸もそう。あの光の糸は輸送トラック同士を繋ぐものだったが、こちらの緑の糸を引き寄せれば……ほら、ラジオ放送が頭の中に響いてきた。
しかし「彼」は僕の一方的な説明に興味を抱く様子はない。プイと横を向いて、まるで「話しかけるな」と言いたげに両目を閉じる。
……そうか、興味なしか。だと思ったよ。まあいい、ちょうど頃合いだ。僕は最後のアンパンを口の中に押し込むと、手の中に残った包装紙をトレンチコートの異次元世界に投げ捨てた。
「もう行く。お呼びがかかった」
すると「彼」は相変わらずの眼差しを僕に戻す。そして「にゃあ」とひと鳴きした。
「仕事さ。【オブジェクト】を回収しないと。さて今夜はギャングが相手か、それとも陸軍の回収部隊か……」
「にゃあ」
「誰からの要請だって? もちろん【彼女】からさ。見てごらん、秋葉原湾の真ん中にある小島を。そう、秋葉原島だ。そこに建っている像があるだろう? 巨大【オブジェクト】の【自由な女神】だ」
最古にして最大の【オブジェクト】として知られている【自由な女神】は、巨大なメイドの少女を象っており、左手には薄い本、高く掲げた右手には光る棒を握っている。それも一本ではない。4本の棒を指の間に挟んでいたのだ。
その表情は穏やかで目にする者の心を鎮める、今や秋葉原市の象徴であり市民の心の支えだった。もちろん僕も彼女のことを尊く思っている。なにしろ僕が自由を得た日、仲間を失い、泥にまみれ、ようやく逃げ出した先で迎えてくれたのが柔和な笑みを浮かべた彼女だったからだ。
「ほら、光る棒が赤い光を発しているだろう? あれが【彼女】の合図だ」
「にゃあ」
「……そうか、そうだったね。あれは僕のゴーグルを通してのみ見える電磁波の呼び掛けだったね」
そう言いながら僕は女神へ手をかざす。すると赤くほのかに輝く糸が光る棒からスルスルと伸び、まるで風に運ばれるようにして夜空を漂ってきた。僕はそれをそっとすくい上げると、手品師がそうするように優しく手の上で弄ぶ。指を絡め、手の甲でなで、指先でなぞる。すると赤い糸も甘えるように頬を擦り寄せてきた。
普通の電磁波の糸ならこうはならない。触れた途端、それを形作るメッセージが頭の中に流れるからだ。しかし【彼女】のメッセージには何もない。文字通り、なにも。だからただの光の赤い糸として存在している。こうして触れても何も起きない。
でも今の僕にはそれで十分だった。研究所から逃げ出して以来、【彼女】は何処かへ姿を隠してしまった。言葉を交わすのはもちろん、顔を合わすことさえできない。だからこれが今の二人の「精一杯」。言葉はなくても求めるものは理解できる。【彼女】が合図を送り、僕が現場で【オブジェクト】を保護するのだ。そのために【彼女】は僕に3つの【オブジェクト】を託したのだから。
「ふふっ、笑いたければ笑えばいいよ。こんな気持ち、ひとり身のキミには分からないからね」
すると、「にゃあ」。今まで僕の足元でうずくまっていたはずの「彼」が、いつの間にか現れた「彼女」に頬をすり寄せながらこちらへ振り向いた。そしてまた「にゃあ」。不敵な笑みを残し、二匹仲良く夜闇の向こうへと消えていく。とても睦まじい様子で……。
…………。
…………。
さて、【彼女】からの合図は受け取った。いつものように仕事に出かけるんだ。【彼女】の期待に応えるために。
そして僕は【オブジェクト】を回収するため、唯一のヒントである赤い糸が指し示す方へと足を踏み出したーー。
<了>