「いいコーヒーサーバーがある職場はいい職場だと、昔の上司がよく言っていましたよ」
それは中原が上杉に対して発した言葉だ。着任して間もなく、ミーティング・ルームに通された時のことである。あの時はまだ政府施設がテロリストに襲撃されるだなんて思いもしなかった。新たな職場となる施設内部を案内してもらい、適当な説明を受けて、定時まで事務仕事をする。本格的な任務が与えられるはずはない。まずは職場に慣れることが新人の仕事。そう思っていた。もっとも中原の場合は内部調査という隠された任務が与えられていたので、一般事例よりは多少、忙しくなっていたかもしれないが……。
それでもこの状況は想定外だった。着任早々“ドア”使いに出し抜かれ、気付けばこの惨状だ。スパイの手引きがあったとは言え大失態である。見渡せば、打ち倒された強制執行チームが呻き声を漏らしているし、上杉も気を失ったまま。ミィも傷口から溢れるナノマシンで床を赤く染めておりピクリとも動かない。それらはすべて、事件の首謀者である野比元捜査官のしわざだった。
まだ耳の奥に残っている。ミィ捜査官の悲痛な訴えが……。
「こんな……こんなのってないよ……。ねえ……野比さん!」
その時、ミィはすがるような眼差しをかつてのパートナーに向けていた。しかし野比元捜査官は彼女の想いを冷淡に受け流す。野比元捜査官にとってミィの存在など、木々を揺らせるそよ風でしかないだろう。だから事実を受け止められず混乱する彼女に銃の引き金を引くことができた。突き放すことにも、裏切ることにもためらいはない。
……パンッ。まずは一発。さらに床に崩れ落ちたミィを氷のような瞳で見下し、こめかみのあたりにとどめの一発を撃ち込む。
野比元捜査官の丸眼鏡の奥から放たれる虚ろな眼差しには、深淵とも言うべき、深い、深い、井戸の底のような闇が見て取れた。重苦しい苦悩が垣間見え、目を合わせれば地獄に引きずり込まれるのではないかと錯覚してしまう。何を考えているか分からないし、理解しようとすれば、その者も“闇”に感染させられるだろう。まるで疫病だ。それだけ彼の心は病んでいた。
中原は拳を握りしめることしかできなかった。まさに、あっという間の出来事である。吸い込んだ息を吐き出す余裕もない。目の前に突然、野比元捜査官の顔が迫ったかと思うと、腹部に強烈な一撃を打ち込まれ、気付けば壁に叩きつけられていた。
そして朦朧とする意識の中で脳裏をよぎったのが、「いいコーヒーサーバーがある職場はいい職場だと、昔の上司がよく言っていましたよ」という会話だった。呑気な様子からは想像もつかない現実。一寸先は闇、とはよく言ったものだ。
中原が地面に這いつくばっている間、野比元捜査官は床に倒れ伏したミィの隣に膝をついて、その横顔をまじまじと見つめていた。そして自らが銃撃した部分を優しくなでてから、彼女が胸につけていたIDをむしり取る。
「……受け取れ、機密アクセス権レベル5のIDだ」
そう言って野比元捜査官は、無表情でミィのIDカードを“ドア”使いに投げ渡す。
……シュッ。空気を裂いて“ドア使い”に迫ったIDカードは彼の頬をかすめ、それから背後の壁に勢いよく突き刺さった。
「お、遅ぇんだよ!!」
甲高い声で悪態をつきながらも“ドア”使いはIDカードを壁から引き抜き、即座にセキュリティーボックスに通す。……ピッ。ロック解除。野比元捜査官はそれにも反応を示さない。止まっていた歯車を、指先でちょいと押すような感覚。すべてが事務的な態度だ。
「楠さん!!」
そんな中で真っ先に動いたのが中原だった。彼は野比元捜査官と“ドア”使いのやり取りを眼の隅で追いながら楠執行官に鋭い声を発する。すると頭を振って意識を引き戻しながら、ようやくの思いで楠が立ち上がった。
「任せていいんだな!?」
楠の重低音の問いかけに中原が軽く頷く。合流した時に中原に感じた“新人らしからぬ雰囲気”は間違いではなかったか……。楠は感じながら「……よし」と頷き、「上杉続け!!」……自らを鼓舞するかのように勇ましい声を上げた。しかし上杉が意識を失ったままであることに気付くと、彼を即座に諦め、強制執行チームの部下とともに“ドア”使いが飛び込んだ昇降口へと駆けこんでいく。時は一刻を争うのだ。
残されたのは、一対一で対峙する中原と野比元捜査官。それに昏倒したままの上杉とミィだ。中原と野比元捜査官を邪魔するものはなく、しばしの沈黙が重苦しく両者にのしかかる。瞬きほんの2度程度のわずかな時間ではあったが、心臓が早鐘を打つほどのアドレナリンを分泌していた中原にとっては、数時間にも、数十時間にも思える空白だった。
「その目……」
沈黙を先に破ったのは野比元捜査官だ。彼は、両手のこぶしを握り締めたまま自分をギッと睨みつける中原に、「仲間が倒されたから憤っている、という訳ではなさそうだね」と優しい声で呟いた。しかし中原が強い視線を向けたまま答えないでいると、さらに「さすがは“ドッグマン”だ。仲間を見捨てることには慣れている。ほんの一握りの情も持ち合わせていないんだね」と続けた。
「……なぜ、ここにいる」
「やっと会話に応じてくれたね、中原真人捜査官」
再びの沈黙。そして今度は中原が先に口を開く。
「――本当にあんたが首謀者なのか?」
そこで野比元捜査官ははじめて表情を変えた。口元を小さく歪めて薄笑いを浮かべたのだ。そして唐突に告げる。「……骨川管理官、あとは頼む」と。
「管理官? ……管理官が、なんだって!?」
困惑する中原をそのままに、野比元捜査官は誰かの会話を模倣するかのようにブツブツと一人問答を続ける。
「……行くのかい? ――ああ、あいつには聞きたいことが山ほどあるからな。――駆け付けた頃にはもう姿を消してるかも……。――だから急ぐんだ」
そして、ニヤリ。野比元捜査官は中原の困惑などまるで意に介さず一方的に告げた。
「すべては最初から決まっていたんだよ、真人」
その頃、ミーティング・ルームでは剛田本部長が装備品をかき集めていた。居ても立ってもいられない感情は、マガジンの残弾を確認し、スライドを「ジャキッ」と引っ張る熟練の仕草からも容易に見て取れる。
「中原捜査官と野比元捜査官、いったい何を話しているんでしょうね?」
アナリストのひとりが壁のスクリーンを見上げながら声を漏らした。しかし剛田本部長は「作業に集中しろ」と取り合わない。すでに頭の中は、かつての同僚であり親友のことで占められているのだろう。その証拠に彼は一心不乱に装備品を腰に挿しながら、「スネ……いや、骨川管理官。あとは頼む」とわずかな動揺を見せた。
いくら小学校時代からの付き合いとは言え、職務中は愛称を使わない……その“ルール”さえ、この混乱した状況の中では消し飛んでいたのだろう。慌てて取り繕う様など、普段の泰然自若とした彼からは想像もつかない。
「……行くのかい?」
切り出したのは骨川管理官だ。
「ああ、あいつには聞きたいことが山ほどあるからな」
答えながら剛田本部長は予備のマガジンを掴む。
「駆け付けた頃にはもう姿を消してるかも……」
「だから急ぐんだ」
そこでようやく、剛田本部長は何かに気付いた様子で骨川管理官に振り向いた。
「……怖いのか?」
「だ……だって、ここを僕に仕切らせるだなんて! 僕に現場は不向きだよ……」
「そいつは永田町の評価だ、俺は違う」
そして骨川管理官の肩に、そのゴツゴツとした大きな手を乗せた。
「お前だから安心して任せられるんだ、自信を持て」
「で……でも……」
「いいな、あとは頼んだぜ……心の友よ」
そして剛田本部長はミーティング・ルームから飛び出していった。彼の広い背中を最初は心細い様子で見送っていた骨川管理官だったが、アナリストたちが自分に不安そうな視線を向けていることに気付くと、一度だけ溜息をついて心を整える。それから何かを呟き、口をキュッと結んだ。
「――官邸に繋いでください! 野次馬が騒ぎ出す前に、首相にひと働きしてもらいます!!」
ミーティング・ルームの熱量がにわかに上昇していた頃、昇降口前では中原が野比元捜査官に睨みを効かせていた。依然として上杉は意識を失ったままだし、ミィも無残な姿を晒している。強制執行チームは楠が連れて行ったので、実質的には中原がたったひとりで野比元捜査官の前に立ちふさがっている状況だった。
「さて……」
野比元捜査官がおもむろに腕時計を見る。
「そろそろ剛田本部長がミーティング・ルームを飛び出す頃かな。何人か差し向けておいたから、到着まであと9分21秒は稼げる。……なるほど。因果を見通す力は苦痛しか与えてくれないと思っていたけど、時に便利なものだね……ねえ、真人」
そして漆黒のロングコートのポケットに両手を突っ込み、中原に向き直った。
「どうだい真人、ここのコーヒーは。いいコーヒーサーバーを使っているだろ?」
「……ああ、確かに。あんたが言ったとおりだったよ」
「どうした。久しぶりに会ったっていうのに、素っ気ないじゃないか」
「再会を喜ぶような仲じゃないだろ。……それよりあんた、また未来予知してたのか。急に支離滅裂なことを言ったり、あれだけあんたを慕っていたミィ捜査官を撃ち殺すもんだから、ついに狂ったかと思ったよ」
「見たくて見てるわけじゃないよ。それにミィは死んでない。AIの記憶容量をつかさどるサーキットを破壊しただけさ。そのうち本部長が交換部品を持って駆けつけてくる。……8分28秒後にね」
「まあいいさ。それで、先輩殿。なんで外に出てきた。こっちのことは僕に任せるんじゃなかったのか」
「それはキミが“我々の仕事”をしないからだよ。だから自分の目で地下保管庫の様子を見に来たのさ」
「最初から信じてなかったろ」
「お互い様じゃないかな。キミだってNファイルを手に入れて僕の粗探しを画策しているじゃないか。それも復讐のためにね。……だろ?」
相手を焼きつくすような中原の視線の前に、野比元捜査官はひとまず口を閉じる。そして声のトーンを一段落として続けた。
「これは先輩捜査官としての意見だが、キミはもっと他人を信用すべきだね。心を閉ざした人間には孤独しか訪れない。ミィ捜査官をもっと信用していいんだよ」
「……余計なお世話だ」
「やれやれ。それが“師匠”に対する態度かね」
「…………。それより、ここに来たのは説教するためじゃないだろ、要点を言え」
「そうだね……時間もないことだし、そろそろ本題に入ろうか。実はね、キミが調査しているスパイのことを知らせてあげようと思ったんだ」
「スパイ? 上杉執行官か」
「ああ、どうやら一年前の取り引きが原因らしい。彼はここに配属されたばかりの頃に銃撃戦で頭を撃ち抜かれてね、その時に失われた脳の機能を超科学オブジェクトの移植手術で補ったらしい。もちろん“闇”でだ。つまり彼は、自分の人生と仲間の命を天秤にかけたのさ」
「証拠は」
「キミなら簡単に見つけられる。……とにかく、これで余計なノイズに惑わされることなく“我々の仕事”がしやすくなったね。……あと6分58秒。ほかに聞きたいことはあるかい、中原真人くん?」
そしてまた薄笑みを浮かべる。
「……いや、失礼。笑ってすまない。ただ、キミの名前がなんだかおかしくてね。中原真人だって? 本名を名乗ればいいのに」
「“中原”が本名だ。それ以外はない」
「そう? 僕は本名の方が好きだけどね。キミだって内心、そう思ってるだろ、ねえ……野比くん」
ふたりのやり取りはそこまでだった。突然の銃声が会話を遮り、野比元捜査官の額に小指大の風穴を開けたからである。
糸が切れたマリオネットのように、唐突に崩れ落ちる野比元捜査官。
事態が飲み込めず、無防備のまま銃声がした方向に向き直る中原。
その視線の先には、両手でしっかりと銃を握った上杉が立っていた。
彼は昂奮した様子で野比元捜査官の骸に視線を落とすが、すぐに中原の動きを警戒して銃口をそちらへ向ける。そして緊張した面持ちで声を絞り出した。
「ど、どういうことですか中原さん、説明して下さい! あなたもテロリストの一味なんですか!?」
……つづく。