性格的理論の個々の論理内容の一定群が、単に夫々の仕方に於て政治的制約を有つばかりではなく、それらが一定の論理形態に必然的にぞくする限りの[#「一定の論理形態に必然的にぞくする限りの」に傍点]個々の論理内容として、政治的に制約されると云うのである。そして更に注意すべきは、論理のこの政治的性格が、論理的[#「論理的」に傍点]なる内容の資格に於て活動するのであって、論理外の勢力として論理の外部から働きかけるのではない、という点である。もし政治的価値[#「政治的価値」に傍点]という言葉があるならば、政治的価値の最も代表的なるものと、論理的価値[#「論理的価値」に傍点]の最も現実的なるものとは、一つであるのである。実際、論理又理論が、常に批判的・止揚的であるのをその最も特有な生命とすることは、人々が一般に承認する処であろう。論理的なるものを審美的なるものに比較するならば、このことは明らかであるであろうから。処が歴史的社会の歴史的運動こそ、正に批判的・止揚的であるであろう。この運動は そして政治的なるものによって最も優越に段階づけられた。――それであるから今や、人々は例えば次のような紋切型の質疑を口にすべきではない。単に歴史的事実にしか過ぎない歴史的必然性[#「歴史的必然性」に傍点]から、如何にして凡そ価値[#「価値」に傍点]にぞくするもの――真理・自由等々――の規定を引き出し得るか、と。蓋し人々によれば、歴史的なるものは単に偶然的にしか過ぎず、価値的なるものは之に反して本質的・永遠的であると考えられる。
