真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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真田大豆が極めて不正確で面倒くさい独り言をひたすら綴り、ややもすれば自ら恥を晒していくブログだにゃんわん!話半分に読んでね!

▼2024年10月1日

『きみの色』

 私真田の人生で極めて重大な局面のひとつが強烈に共鳴した、従って物凄く大好きな映画!

 

■非言語的な美意識が言語的な解釈を退け、原初的な豊かさに溢れる稀代の鑑賞体験

 予てから私真田は、作品に込められたテーマ性、これを謳う作家自身への諧謔、脚本力、そして、これらに必然と伴ってこそ初めて唯一無二の意味を帯びる、映像と音響による総合的な演出、技術、この構造性、こんな評価尺度の優先順位で映画を鑑賞し、更に、気に入った作品に関しては、この初印象を可能な限り克明に記録し、これを後に自ら読み返す事に様々な意義を見出してきた。同様に、『きみの色』に関しても本稿を書き残そうと奮闘するが、さて、これがなかなか難しい。この理由は単純で、鑑賞者としての私真田の感性が、評価対象たる『きみの色』に、ほとんど追いつけていない、乗り切れていない、みたいな、この圧倒的な隔絶の感が否めないからだ。

 同様の理由で、未だ感想を書きたくても書けないままの私的超大傑作といった位置付けの映画は他にも少なからず存在し、この筆頭として『誘拐犯(The Way Of The Gun)』を挙げる(※飽くまで『きみの色』とは全く違う作風)。では何故、私真田は、自らの感性との圧倒的な隔絶を印象付ける『誘拐犯』や『きみの色』を尚も好きでいられるかと言えば、これら両傑作は共通して、私真田の内の、極めて本能に近いとも言うべき原初的な感性の領域を、更に計り知れぬ遥か奥底の次元から刺激してやまない、こういった力に溢れかえっているからだ。勿論、映画とは、一般的に鑑賞者の本能的な感性を少なからず刺激する大衆娯楽には違いないが、私真田がここで言わんとする『誘拐犯』や『きみの色』のプリミティブな力とは、他の次元と全く異なるし、むしろこれによる圧倒的な隔絶の感こそが私真田の両大傑作に対する初印象の言語化を、飽くまで心地よく阻んでいるという訳だ。

 尚も余談となるが、『誘拐犯』に関しては、例えば、次の様な言語的な解釈が、飽くまで表面的には可能だ。すなわち、新大陸の荒涼とした砂漠地帯を舞台に誘拐された妊婦を救出するという大筋に於ける死と生のコントラストという大枠がまずあって、更に、誘拐犯の男性二人組の破滅的な同性愛嗜好と、非合法なやり口の代理出産も厭わず子供を求める大富豪の夫婦の本能とのコントラストがあり、しかし更に、いざ妊娠した赤ん坊に情が移り決して手放そうとしない代理母の母性的な本能と、非合法な代理出産の報酬や身代金の出どころを司法当局に嗅ぎ付かれる事を恐れ、闇社会の傭兵に赤ん坊のみ奪還させ代理母は口封じで処分させようとする大富豪の打算、これらのコントラストも加わり、更に、信心に目覚め始め仲間を思いやるチンピラの敗北と、歴戦を生き残るも老い先長くなく仲間の死に心を煩わせる余裕すら無い老傭兵らの勝利とのコントラストも重なり、更に極め付きに、結局は大富豪の妻が既に故人となった傭兵とかつて幾度も重ねた性交渉によって、代理母に頼らずとも妊娠に及んじゃったというちゃぶ台返しの結末、これによって、いわば“近代の顔をした野生”、この善悪を超越した一種の“法則”こそがこの作品の根源的なテーマとして示される。しかし、私真田にとっては『誘拐犯』の魅力の本質は、そういったテーマ性を遥かに凌駕して、もはや言語的な解釈の一切を陳腐化させる程の映像表現の奇跡的な成功にある。役者のキャスティング、表情、演技、撮影ロケの気象条件、銃撃戦の迫力、痛覚やのどの渇きを伝えるガラス片や汗への巧みな照明等々、具体的に何がどうといちいち説明しきれない程に全てが“近代を偽装する野生”そのものとしてフィルム上で踊り狂い続ける、こんな感じ。ほら、陳腐になっちゃう(笑)。

 ここで言う、野生、非言語、言語以前、或いは先史的な精神領域といった風なニュアンスこそが、上述した『誘拐犯』と『きみの色』との共通点だと、私真田は言いたい訳だ。

 以上を改めて述べ直すとこうだ。

 私真田にとって『きみの色』の最大の魅力は、これに込められた非言語的な美意識とでもいった風な題材や演出等の総体と、この突出にこそある。そして、こう評価する事は、冒頭に述べた、予てからの私真田独自の評価基準からかなり逸脱する異例の事態であり、この新鮮さは極めて心地良い。『きみの色』は、この映像&音響による総合的な演出の力が、本来ならこれを上位から規定する筈のテーマ性を逆転する形で、むしろ遥かに凌駕し突出しているといった印象を放っている。この様に、映画のつくりに於ける理性的な要素よりも情念的な要素が逆転して凌駕する場合、これに対する感想を言語化する事は極めて困難となる。何故なら、言語化とは一般化であり、主観的な感想をより客観的に装わせ、幾らかの不特定多数の読者にも伝わる態を取り繕う、いわば独善的な営為なのだが、そもそもの評価対象に於ける理性的な要素よりも情念的な要素が突出して勝っている分だけ、これに対する感想を取り繕わせる理性とか客観とかに共鳴するリソースを評価対象から探り当て辛くなってしまうからだ。

 従って、本来なら私真田は『きみの色』の感想を述べる事を、以上をもって放棄するところなのだが、本稿に限っては無理矢理にでも更なる言語化に執心し、可能な限り具体的な詳述を試みる。何故なら、私真田は、そういった原初的な表現をテーマの中心に据える映画『きみの色』とは、もはや作家が意図する外まで鑑賞者が感想を自由気ままに展開させ、これをもって実生活に於ける何らかの救済や前進への契機として活用してくれても一向に構わないし、むしろ歓迎するといった誘いと包容力に満ちていると理解するからだ(※当然それは、作家に対する無用な悪意を一切排除するという前提条件をしっかり踏まえた上での話だ)(※脚注01)。又、そうでなくとも、『きみの色』劇場パンフレットの監督インタビューのキーワードの一つたる「代入」に沿う形で、私真田が極めて私的に抱いた感想こそが、本稿の本題として最も適切だと確信するし、これを何が何でも書き残したいと考えるからでもある。従って、本稿の本題は、これまで無い位に著しく論理性を欠く形となるだろう。

※脚注01:

 この考え方はあながち間違いでなかったと、本稿執筆後に以下の動画によって確認が取れた。山田尚子監督の器の広さよ!

 

■『きみの色』の表象について

 だが、そんな本題に先立って、まずは『きみの色』に対する表面的な解釈について述べる。

 まず、物語の大筋。

 舞台は現代、長崎、全寮制でミッション系の女子高とこの周辺の街と離島。周りの価値観や歩調のずれを全く押し殺し、隠し続けなければならないなどと、この様に誰から言われたでもない強迫観念に、半ば自らはまってしまい、息苦しい日常を過ごす、この類の、今時にありがちな青春ならではの悩みを抱える女子高生の日暮トツ子が、同様の心境がより深刻で、保護者の祖母に内緒で不登校&バイトを決め込んでいた元同級生の作永きみと、更に、家業を継ぐために離島から塾通いしながらも音楽演奏への情熱も燻ぶらせていた男子高生の影平ルイと、このたまたまの成り行きで居合わせた両者から共感覚的に見出した“色”の相性を引き合わせる半ばキューピットとして立ち回ったが挙句、彼・彼女らはバンド仲間となる。しろねこ堂(バンド名)は、ルイの次年度の進学に伴う別れ、解散を控えながら、ひとまずメンバーそれぞれ思い思いの作詞、作曲、編曲の成果をオンラインで持ち寄り、そして演奏の練習を毎週日曜、ルイの実家がある離島の古教会で地道に続けていた。そこへ、女子高の教師のシスター日吉子が幾度も機転を利かせながらしろねこ堂の活動を支援し、やがては彼らに演奏発表の場として学園祭への参加を勧める。かくして、学園祭での演奏は見事に成功し、きみとルイはそれぞれ保護者との信頼関係をより強くする事も叶い、又、主人公トツ子は自らの“色”を見る事ができた。更に時は過ぎ、ルイが離島の実家から旅立つ門出を、トツ子ときみは港岸から大声で応援しながら見送った。おそらく、きみからルイへの一方通行でしかない遠距離恋愛が始まったと、この傷心をそばで理解するトツ子は、ルイを見送り終えたその場できみを半ば強引に引き寄せ、慰めるのだった。

 以上の大筋から見出せるテーマに関しては、山田尚子監督が公開前日のNHK番組のインタビューで語っていた様に、何かしらのスタートアップへの応援、賛歌であったり、或いは、周りと少し違うかもしれない自分を恐れない勇気への応援だったり、更にメタ的な次元に視点を移せば、監督自身の新境地開拓に伴った制作環境の転換に於ける、自らの歩みを生きて進めざるを得ない心象風景の昇華だったり、或いは、言葉を選びつつ察するところの、いわば鎮魂(歌)の時空を寓話的に演出する事だったりと、この様な解釈の幅で推し量れる。

 

■『きみの色』への「代入」が見せた、この非言語的な美意識の総体について

 以上を述べ終え、さて、本題。

 繰り返すが、以降の本題は、『きみの色』から私真田独自に見出した、より根源的な魅力としての、いわば非言語的な美意識の総体についての詳述だ。又、このアプローチは、劇中に描かれた教会建築の美術セルに重ねられたキャラセルの群れ、これに私真田自身を「代入」するという、この極めて私的で主観的な、鑑賞当時の心理状況の再現となる。

 まず言える事として、『きみの色』を鑑賞中の私真田の脳内を大幅に支配していた抽象と具体の混沌の光景の先には、おそらく次の要素が主として絡んでいたに違いない。

 

●私真田が住む近所の図書館、芸術館、市民会館、そして楽器奏者に防音部屋を貸すレンタルスペース等に共通する、いわば非言語空間を演出した建築デザイン、これがもたらす底知れぬ心の安らぎ。

●『銃・病原菌・鉄』 (ジャレド・ダイアモンド著)で述べられた、いわゆる“農耕仮説”についての下り。

●『建築はどうあるべきか』(ヴァルター・グロピウス著)で述べられた、近代西欧的な合理主義に蔓延る過剰な広告文化、これを批判する下り。

●『身ぶりと言葉』(アンドレ・ルロワ=グーラン著)が示す「先史学」という地平への憧憬。

●『音楽のための建築』(マイケル・フォーサイス著)で述べられた、音響エンクロージャとしての教会建築についての下り。

 

 以上に挙げた計5点の総和の9割以上を占めるのが、私真田の近所の公共施設の建築デザインからもたらされた“非言語空間”とも表現すべき直観と体験に関する記憶だ。これについては、おそらく物心ついた幼少期から幾度も日常的に体験してきてはいたものの、この建築空間に身を置く事によってもたらされる底知れぬ心の安らぎへの直観とは、しかし所詮は気のせいに過ぎず、これをわざわざ言語化して他人に説明しても無駄な事だと、その都度、永きに渡って意識の外へ捨て去ってきた事柄でもある。が、私真田はここ数か月弱を遡る極最近、とあるきっかけでその直感の正体が何かについて、徐々に言語化による再認識の道筋を僅かに得るに及んでいた。この言語化に直接、間接的に役立ったのが残りの4点で挙げた書籍で、とりわけ『音楽のための建築』こそは、後に私真田が『きみの色』を鑑賞する際に、その“非言語空間”への直感と体験に関する記憶を関連付けて想起させる上で最も役立った。又、大袈裟かもだが、それらに加えて最近、私真田が英語勉強を久しく再開した点も、“非言語空間”の底知れぬ心地良さへの直観をより敏感に意識させる助けになっていたのかもしれない。

 以上について、更に順序立てて詳述する。

 私真田は数か月前、とあるイラストを描く上で必要だったロケハンの為に近所の高台まで自転車を走らせた。その場所からは、上述した公共施設の全てが一望でき、この瞬間、私真田の脳内で、それらの建築に共通する非言語的な閉鎖の雰囲気、これは恐怖ではなく安らぎをもたらす意味の静寂と闇であり、これによって外界からの合理と名打つ飽和情報の一切合切が視覚、聴覚、触覚の範囲で遮断され、人体への負荷が突如として軽減され、脳内の緊張が一気に弛緩するだけでなく、己が望む最小限にして最重要の欲望の的が、より克明に知覚できるようになるといった、このひたすら前向きに澄み切った快感、こういった体験の記憶がいっぺんに思い起こされた。この時、私真田は、果たしてこの雰囲気や直感とは、まずもって気のせいの類などではなく、又、この出所は、今いるこの場所や景色そのものというよりも、どうやらここから一望できる各建築から味わった体験に共通する、言語的な情報を極限まで遮断する機構にこそあるのではないかと、気づき始める。

 ところで話は若干前後し、最近英語を学び直しているのだが、これは日々何気なく、日本語によるTV番組やネットサイト等に、日に数十分から数時間の頻度で接触し、累積し続けるという、この恐るべき時間リソースの無駄を英語学習へと割り振り直せば、ゆくゆくは諦めかけていた英語による情報、論文、文学、民俗学レベルのアプローチや生活交流も可能となるといったモチベーションで再開された。このライフスタイルの変化は、私真田に日本語による有意義な情報と無駄な飽和情報とを益々敏感に見分けさせる助けとなった。更に、こういった英語学習の効果こそが、飽和情報そのものを遮断する建築の機構へと、私真田の注意を向かわしめたのではと考えられる。

 ここで、非言語空間を演出する建築機構などと表現しながら私真田が言わんとする事柄とは何か。例えば、その近所の図書館は、まずもって、膨大な蔵書の重量に耐えたり、日光の侵入を遮って蔵書の劣化を防いだりと、この為に外界からの情報が遮断される総構えを必然と誇るが、これと同時に、エントランスに一歩侵入しただけでは、蔵書の背表紙がひしめく書架や書籍タイトルの膨大な言語情報、この一切が伺えず、つまり、たとえ図書館の内部であっても言語情報の一切を遮断する空間が敢えて備えられているという事で、更にこの点は、上述した他の建造物にも共通し、果たして私真田は本稿でこれを非言語空間を演出する建築機構と呼んでいる。図書館に於いては、さしずめ、外界の飽和情報によって歪に疲弊した精神状態を、このエントランスが演出する非言語空間によって一旦リセットし、改めて蔵書の山に歩みを進めて欲しいといったホスピタリティが機能しているとでも言えよう。これは図書館だけでなく、芸術館のエントランスやコンサートホールにも、又、市民会館の巨大な吹き抜けを贅沢に演出したラウンジギャラリー(※最高の読書空間!)にも、端的に、心の安らぎとして確認できる。

 ここで、そもそも何故、私真田が、非言語空間だとか安らぎだとかをもたらす出所として、“自然”ではなく、敢えて“建築”、この人工物に見出す事を強調しなければならないかについての理由を確認しておきたい。これは、そもそも私真田が『きみの色』の根源的な魅力と関連して想起する趣旨が、決して、“自然回帰”とか近代文明への全否定とかを弄する極論ではないのであって、飽くまで自然と文明、或いは本能と理性、そして言語以前と言語以降、これらによる中庸を標榜しているからだ(※この前提として、人類は本能と理性のいずれも決して捨て去れないし、又、自然と近代文明のいずれとも決して無縁ではいられないという私真田独自の価値観がある)。つまり、ここで述べる“建築”とは、飽くまで建築思想上の理想のニュアンスが色濃いが、これを述べたのが『建築はどうあるべきか』だ。この引用箇所をわざわざ示さないが、私真田が本書を未だ半分しか読了していない時点でも、そこに一貫する思想性は、端的に、文明の未来は、過剰に肥大した近代西欧的な合理主義や広告文化の氾濫を是正し、自然と人とが本能と理性の狭間で得られる有形無形の豊かさを追求できる生存圏をデザインすべきだし、建築家とは、これを牽引し、行政や民間資本に精力的に掛け合う使命を帯びた職業だといったものだと分かる。又、本稿の文脈では、こういった建築思想を観念としてではなく、飽くまでこれに実感を先行させて真に理解する事こそが重要となる。おそらく、日本国内の各地方自治体による公共施設のほとんどに、同様の非言語空間が演出されている筈なので、私真田はここに身を置き、本能と理性の中庸といった心の安らぎを是非とも体感されるようお勧めするし、他でもない『きみの色』もその建築機構と同様の“非言語空間”的な効果を、アニメ作品の範疇で見事に包摂しているのかもしれないという、こりゃ、とんでもない話なのだ!

 更なるそもそも論だが、本能と理性の中庸などといった文明批判が必要な程に、果たして本当に現代の文明に於いて、理性は肥大していて、且つ、本能にも多少は頼ったり中庸を志向せねばならないなどと、こう理解できる余地が実在するのかと、この様な問いに応えるのが『銃・病原菌・鉄』の序盤で述べられた、いわゆる農耕仮説、つまりは農耕を発明し開始する事によって人類文明は野蛮さを飛躍的に増したと物語る文明史の提示であり、これは先史時代の人類が現在のニュージーランドの北側の島にまず流れ着いて、次に農耕社会が築かれ始めると同時に狩猟採集に固執する集団は南側の島に流れ、やがて北側の農耕文明は南側の狩猟採集の集団を圧倒的な軍事力によって支配下に置いてしまったといった考古学的な物語を交えて説明されている。この農耕仮説は、他方の狩猟仮説(※参考文献『人はなぜ殺すか 狩猟仮説と動物観の文明史』マット・カートミル著)と少なからず齟齬をきたすし、私真田はどちらかといえば農耕仮説により多くの説得力を見出す。更に言えば、ドイツ観念論的な進歩史観とこの始まりを決定づけたとされる“絶対者”、これと人類とを繋ぐとされる概念に他ならない“理性”ばかりを重視し、同時に本能を人より下等な自然界に蠢く罪などと見下して捉える、こういった近代西欧的な合理主義の価値観の礎に対して、未だ無頓着、無批判なままに、よって、片やSDG’sやら新人世やらと、どこまでも人類本位に偏り続けるが故の自業自得を省察できぬまま、ひたすら無謀に騒ぎ立てている大方の人類と、他方ではこれと無縁に生活する狩猟採集民や遊牧民や自然界の野性の生態系と、これらを比較した時に、果たしてどちらがより生存本能に忠実で賢い存在なのかと、この答えを下す事は簡単にも思えてしまう(※脚注02)。これと関連する位置付けとして紹介する事はかなり強引かもしれないが、『身ぶりと言葉』が序盤で述べる、西欧中心主義的な民族神話への妄信(※旧約聖書の創世記に於ける7日間の創世神話をガチの史実と頑なに信じる原理主義的な信仰)に基づく、人間自身への偏った理解だけではなく、これを補って是正する先史学も学ぶべきだとする訴えは、本能と理性の中庸、或いは非言語的な精神領域の美意識への標榜を想起しながら『きみの色』を鑑賞せざるを得なかった私真田にとって、常に大きく意識されている。

 そして、以上の事柄を『きみの色』と関連付けさせた最大の仲介者は、かつて読んだ『音楽のための建築』で述べられた音響エンクロージャとしての教会建築の系譜についてのイメージだったし、これと『きみの色』で描かれた古教会での演奏シーンとが漠然と重なった点こそが、私真田に於ける『きみの色』への「代入」の骨格とも言える。つまり、私真田は『きみの色』の古教会でのしろねこ堂の演奏シーンから、かつて実際に味わった非言語空間の底知れぬ安らぎを想起させられ、この根源的で非言語的なかつての実体験と共鳴した映画の力に心底打ちのめされたという事だ。

※脚注02:

 この前提としての、“本能”と“理性”の優劣比較に関する私真田独自の仮説について述べる。

 まず、古生物学上で語られる哺乳類の歴史は約2億3000万年。植物となれば約34億年。生物そのものとなれば約35億年。これに比べ、人類はたったの約500万年。ヒト属に限れば約200万年。ホモサピエンス種に限れば約40万年。更に、農耕の歴史は約1万年。仮に、人類が自身と自然とを分かつ特性とみなす“理性”、この萌芽を農耕文明の始まりに求めるなら、果たして、これだけ歴史の規模で圧倒される“理性”が“本能”よりも危機予測や抽象思考の能力として勝るなどと断定する事が極めて滑稽に思える。言語、数学、宗教、核兵器、核融合発電(※実用化の前途は未知数)、スマホ、これらが気候変動や地殻変動への適応力や生存力を決定的に高める様な所産でもない限り、“理性”が“本能”よりも勝るとする断定は、端的に人類本位の驕りだと思う。例えば、むしろ本能にこそ、人の理性では計り知れない程の桁違いの複雑系としての危機予測や抽象思考等の能力が備わっていないとも限らないといった空想、これを現時点の科学的な知見によって反証する事は不可能という話だ。少なくとも、古生物学的な時間スケールで幾度もの気候変動や地殻変動を搔い潜りつつ、進化生物学的な系統を貫いてきた生存の“本能”よりも、誕生からせいぜい数万年(※狩猟採集期を含んだとしても約700万年)にも満たない“理性”が、適応力、生存力、危機回避能力、これらの実績を比較評価する上で圧倒的に不利だ。

 只、以上が直ちに“理性”に対する全否定や絶対的な悲観を意味する訳ではない。言わんとする点は、まず、“本能”に対する“理性”の勘違いも甚だしい傲慢であり、次に、理性はこの未熟さを謙虚に自覚する事によって初めて、発展の前途を切り拓き得るという希望的観測だ。というのも、上述した様に、理性の萌芽を農耕の始まりに求める場合、人という種の全体としての危機予測や抽象思考の能力は、この発展途上に於いてはどこまでも農耕を営む上で必要とされたかつての名残りに制約されており、従って、少なくとも現在の人類の理性が知覚できる危機予測の範囲は、せいぜい四半世紀から、個体の最長寿命たる120年前後に限られ、これを超えて官民一体の投資事業が何ら打算も無く計画され、例えば数百年間隔の巨大地震発生や約10万年周期の気候変動に対応する防災強化等の結実に向かうといった、より賢明な集団意志の統合の実現には未だ至っていない。ましてや、多元的な気候風土に起因する宗教的なアイデンティティや正義をぶつけ合う戦争、この破滅的な営みを防ぎ、平和秩序を維持するという意味での危機予測、回避の能力すらも、依然、人類の理性からは見出せない(※因みに、野生に於ける本能は、決して必要以上に殺さない)。ところが、これを打開し得るきっかけとして、例えば合成生物学等による身体拡張の医療工学的な革新によって人の寿命が大幅に延びた場合、人類の“理性”に於ける危機予測や抽象思考の能力も大幅に発展し得ると考える。つまり、数百年先の天災や人災まで人間一人一人が我が身に降りかかる重大事としてより真剣に、より賢く考えられる様になるという事だ。但し、これがどこまでも希望的観測の域を出ない理由として、その発展の前提たる化石燃料が何時の時点かで枯渇し得るという不確実性も看過できない。仮に、化石燃料に代替できる又別の、加工採算がとれるエネルギー資源が発見されたり、或いは、核融合発電が実用化されたりと、これらが化石燃料の枯渇を待たずして実現すれば、人類文明の進歩は更に担保され得るが、逆に化石燃料が枯渇するだけの未来ともなれば、人類の文明ばかりか“理性”の前途も、おそらく発展どころか後退、退化に転ずるとすら考えられる。しかし、これは結果的に、人類が生存本能により従順となる転換点として、いわば歓迎すべき理性の退化とも解釈できるのかもしれない。言い換えれば、こんな事でもない限り、人類が核兵器を手放す未来は決して訪れないという話でもある。

 いずれにせよ、現在の人類がさも本能より優れたものの様に信じ込んでいる“理性”とは、かつて自然科学が厳密科学化するルネサンス期以前までは学問の主流だった西欧神学、この範疇に於いて、旧約神話的な原罪から人類を創世神の御前に再び舞い戻らせる権能とされた、このスコラ哲学的なロゴスの受容を祖とする系譜に連なる概念なのであって、つまりは生態系ヒエラルキーの頂点に人類を置くという神学的な断定の根拠、この旧態依然とした価値観の名残りに他ならないという、こういった思想史的な事実を踏まえれば、本脚注の仮説も全くの戯言とは言い切れないと思うのだ。

 

 ここで又、そもそも論を差し挟まなければならないが、私真田が近代西欧的な合理主義とこの思想的な礎としてのキリスト教的なリベラリズムの系譜を批判する趣旨と、他方で『きみの色』に例を見る様な、キリスト教的な習俗が題材に描かれる映画が、より本質的な思想性の表現を達成し得ると鑑賞者の立場で期待する事とは、論理的に全く矛盾しない。何故なら、まず、キリスト教であれ他の何に対してであれ、ありのままに実在する人々の生き様としての習俗を題材として採用し、この理論と具象とを共に取材し、美術設計し直してフィルム上で再現するという、この映画制作の営為そのものは、如何なるテーマ性や思想性に対しても決して相反せず、むしろこの説得力をより豊かに彩る無限の可能性や手段の一つに他ならないからだ。この例として、残酷な戦場シーンを扱いながら反戦を訴える映画の存在(『プライベート・ライアン』『ブラッド&ゴールド』他多数)や、隠れキリシタンへの残酷な弾圧シーンを扱いながら宗教や人間の本質を描く映画(『沈黙(スコセッシ版)』『ミッション』)の存在が挙がる。つまり、表現の自由に禁句(タブー)は無いという話だ。逆に、これに目くじらを立てる門切り型の発想とは、いわゆるファシズム的なプロパガンダしか許せない検閲官の陰湿さに通じると言えるし、少なくとも私真田の頭はそこまで不自由ではない(笑)。又、例えば、予てから本ブログで私真田が頻繁にアメリカを批判する内実が主にホワイトハウス批判と同義で、これは必ずしも全てのアメリカ人やアメリカ文化まで問答無用に批判している訳ではない事と同様に、本稿に於ける私真田のキリスト教批判、スコラ哲学批判、ドイツ観念論批判、ヘーゲル哲学に端を発する進歩史観の系譜に対する批判、これらの内実もやはり、この思想体系に裏打ちされる権力構造の当事者や企業や金融屋の謀略や、これにまんまと操られ続ける国粋主義、選民思想が絡む陳腐な部類のナショナリズムの“正義”に対する批判に限られており、つまり、これは決して、そんな権力構造とは無縁の庶民や異端者(※脚注03)の間で慎ましくも豊かに営まれ、受け継がれてきた類の“キリスト教”的な習俗に対してまで批判の矛先を向けたりはしない。ましてや、『きみの色』で描かれる長崎のミッション系の女子高っぽさという、この虚構上のリアリティこそは、キリスト教的な権力構造や謀略の側面とは基本的に無縁であり、且つ、シスター日吉子が「ニーバーの祈り」を引用したり告解の秘跡を提案したりと、飽くまで生徒の青春を慈しみ、応援してやるのに対して、トツ子はこれを遠慮し、代わりに、「先生も変える勇気を持たれては」と善意で意趣返しし、これが後の、学園祭ライブの盛況から少し離れた場所で日吉子も秘かに踊るという、つまりは「両者を見極める賢さ」を体現するオチに繋がるといった、この様な習俗の豊かさに溢れているし、とにかく私真田はこういう作家独自の理想に逞しく、地に足が着いたイマジネーションが大好きでたまらない。むしろ、以上の様な“キリスト教”を巡る功罪やダイナミズムをアンビバレントに直観させる『きみの色』の筋書き、ここにさり気なく仕組まれた“創造的破壊”の普遍性こそは、おそらくキリスト教文化圏の海外ファンに、より響き易いだろうとまで、私真田は思う。従って、本稿に同居する、いわば権威主義に偏重する側面としての“キリスト教”、これに対する批判と、『きみの色』の教会建築美術に重なるキャラセル群への「代入」といった私真田独自の享楽とは、決して論理的に矛盾せず、むしろ一貫する。

※脚注03:

 例えば、いわゆるグノーシスや、ホーソン著『緋文字』、ベルナノス著『田舎司祭の日記』、遠藤周作著『沈黙』『女の一生(2部作)』、映画『司祭』とこの脚本をノベライズした同邦題の小説等から、私真田は、いわゆる異端者と烙印された部類のキリスト者の精神性と同時に、“キリスト教”的な精神の神髄を演繹し、学ぶ。

 

■『きみの色』の原初的な魅力を支える演出と作画について

 本題の最後に、私真田が『きみの色』に図らずも「代入」させられ、又、非言語的な美意識にまつわる過去の実体験を想起させられた、この際に有機的に作用したであろう、極めてプリミティブな感性を刺激する演出の数々について、以下に思い返してみる。

 劇中の随所で見られる、キャラの眉間アップ時のディテールの書き込みと、これによる芝居。尚、これはほぼ眉間のしわの線を排除した上でなされていた。これはマジで斬新だと思った。これに加えて、まつ毛の曲線デザインも物凄く魅力的に作画監督されていた。サイエンスSARUの作画力、圧巻。

 きみのバイト先の古本屋でスーパー・アイスクリーム(仮)が誕生するシーン、ここでトツ子がきみとルイを引き合わせようとでっち上げたバンドメンバー募集の話がトントン拍子で決まってしまった事に自ら卒倒するというギャグ描写のテンポ感。風通し良く、軽やかに、ナルシズムと諧謔とが見事に調和していた。トツ子のキャラ造形、絶品。

 離島に初めて訪れる船上のトツ子ときみを港岸から出迎えるルイ、彼の無邪気なはしゃぎっぷりにみる作画の芝居や演出指示の熱量。ルイというキャラクターのリアリティを演出し、作画の芝居まで落とし込めた監督と作画スタッフの力量はマジ凄過ぎる。

 授業中に居眠りするトツ子が見た夢、太陽系の惑星の衛星軌道と、太陽系自体が銀河系内で辿る更に巨大な軌道とが掛け合わさって、いわゆる三体問題的に(?)目まぐるしく振る舞う様が迫ってきて、これに動揺し、自らの寝相で机に脚をぶつけ、目を覚ますシーン。「土天アーメン」誕生の瞬間。私真田は言葉を要さずに爆笑。

 学園祭ライブシーンで、奏者とオーディエンスの相互でグルーブが共有、増強されていく様を演出する、楽曲のアップテンポに合わせられたノリノリなカメラカット。見せて楽しませる相手、共に盛り上がれる相手、共に楽しんだ記憶を思い出したくなる相手、言葉は無くとも、そう想像させるに充分な眼差しが印象強いシーン。ところで、『水金地火木土天アーメン』他、しろねこ堂の楽曲、超絶大好き!!!

 学園祭ライブシーンが終わり、トツ子が学寮の中庭で幻想的にバレエダンスしながら、「私自身が見えてきた」みたいなモノローグを語るシーン。推し量られる、メタ的な心象風景。おそらく、これは直前のライブシーンに対するアンサーとして対照をなす、必然の塊。

 スタッフロール時の画面左端の古教会の窓辺をモチーフとしたアニメーションの終盤で、窓奥の空の定点撮影&早回しがストロボで再現され、ここで蠢く無数の夕焼け雲。これは単なるbookセルの密着マルチでも、或いはベタ塗の背景動画でもなく、画面手前に徐々に迫ってくるパースを加味した美術のアニメーション!この美術セルも、おそらくサイエンスSARUなら手描きでやり抜いてくるだろうと思わせる程の、『きみの色』全体としてのクオリティの偉大さ。マジ手描きだったら、いよいよヤベェ!

 スタッフロール後、土天アーメンのデモテープと縦長PV映像後の、港岸でトツ子がきみを引き寄せ抱きしめる一瞬のカット。そもそもトツ子もきみに対して百合感情あったし、ルイがいる間はずっと我慢してきたのかもしれないし、いやそうじゃなくて、ルイと別れるきみの悲しみを純粋に慰めてあげようって強い気持ちの表れだよ、きっと、等々、瞬時に言葉なく様々に想像を掻き立てる、これは『リズと青い鳥』でもあった、情念えぐられる超絶大大大好きなカット!