ユーモアの感度は人によって異なる。



 ユーモアがまったく通じない、または好まない人という人は少数で、ある程度のユーモアはコミュニケーションの潤滑油となりうる。



 ユーモアはお国柄や社会的地位、品位にも比例する。



 欧米、特にイギリスの上流階級は「皮肉」こそ機知に富んだユーモアだという自負があるようだ。



 相手の発言に対していかに気の利いた受け答えができるかが淑女・紳士の嗜みとされてきた。



 コミュニケーションにおいて積極的・開放的な欧米の気風ともいえる。






 日本で同じような真似をすると「茶化している」と受け取られ、気分を害されるかもしれない。



 だから日本では主語のない「駄洒落」という言葉遊びで、人を傷つけないユーモアがDNAレベルで受け継がれてきた。



 学校の先生は授業で駄洒落をよく使った。



「645年——蒸し米で祝う〝大化の改新〟だ、いいか!」

「1549年——以後よく来たな〝ザビエルさん〟なんてな!」



 おもに歴史の年号を駄洒落(語呂合わせ)で強調した。



 緊張がふとほぐれた瞬間にこそ「笑い」が起こる、とは寺田寅彦の説。



 たしかに無味乾燥の授業中——ふだん苦虫をかみつぶしたような教員がつまらない駄洒落をボソッと言うだけで、駄洒落であっても場の空気が緩めば、脳に新鮮な空気が入るというもの。



 だが一方で、

「冗談が通じないのは困ったものです。

 冗談しか通じないのは考えものです」

 という言葉もある。



 駄洒落や冗談も使いすぎるとロ◯ソニンと同じく副作用があるから注意が必要だろう。





 社会的に当たり前のことかもしれないが、私はセクハラ発言をしたことがない。



 私も男だから女性に興味がない訳ではない。



 だがユーモアが「相手本位」なのに対し、セクハラは「自己の興味・関心を充足させるために、何の落ち度もない被害女性の羞恥心を増幅させる言動を繰り返した極めて悪質かつ卑劣な犯情」といえる。



 同じ男として、

「市中引き回しのうえ、打ち首獄門」

 を申し渡したくなる。



 「本能」と「欲望」と「下心」に〝美意識〟はない。



 ユーモアには「美意識」と「品性」が必須だと信じている。



 「美意識」と「品性」は対人関係で良い〝距離感〟を構築する要素にも加えられる。



 「美意識」と「品性」を保つため——ひいては淑女・紳士になるためには、ときとして我慢や抑制も必要だろう。



「凍鶴(いてづる)や

 いぶし銀とは

 つらきもの」

  ——オジンバラ公爵



 多くの方とユーモアの周波数が合うよう脳をマヌカハニーのようにしているが、なかなか一朝一夕にはいかずに試行錯誤している。



 「コーディネートは、こうでぃねぇと」

 のような本を図書館で借りてこようか(←駄洒落だし)。



 ••••••まだまだ修行が足りませぬ——。



 さてと、サト◯の切り餅を6個ほど焼いて、お雑煮のお昼にしよう。