1月24日(土)曇
古い資料を引っ掻き回して
いると、書いたことすらも
当時の事さえも余り覚えて
いない物が出て来たり
します。
今日は、そのうちから、
文章内に39歳とあるので、
拙さが目につきつつも、
目をつむり、そのままを転載
致します。
そんな事があったんだと、
懐かしくも驚いてもいます。
8月4日から、新宿の
住友生命ビルの37階に
ある、コンピューター講座
スクールへ通い始めた。
1ヶ月8回で終了する初級
夜間コースである。
夜間とはいえ、6時の開講に
間に合わせるには、定時が
5時30分の、世田谷にある
会社を5時前には出なければ
ならない。
幸い、閑職に移った時で、
仕事にあまり支障はなく、
わがままを聞いて貰うことが
でき、現在まで4回までの
受講を終了した。
39歳という年齢に達して、
何を血迷ってコンピューター
などと、社員の中にはいぶ
かった人もいたと思う。
私自身、いくら好奇心が
強いとはいえ、自分の歩んだ
道程の中で、およそ白紙の
分野に、この年で手出しする
とは思いもよらなかった。
ただ、昨今のマイコンブーム
で、男性社員が話題にする
のを多少の興味で聞いては
いた。
そんな程度の薄い興味を、
実際に手で触れるという実行
に走らせたのは、何だったの
だろう。
私の勤務している会社は、
独特の経営方針を持ち、
能力の発揮は全く自由で
あると同時に、厳しい面も
ある。
それに耐えられない、つまり
自分に打ち勝つことの出来な
い社員は、数ヶ月で退社して
しまう。
従って内情は常に人手不足に
悩み、残された社員は必然的
に過重労働になってくる。
年配になって、その会社の
仕事内容には、不案内、無知
のまま入社した私は、試みに
Aの分野、Bの分野と、
3ヶ月位の単位で転換させ
られた。
人手不足もあって、Aの分野
に少しは長く従事したが、
AにもBにも適正があるとは
思えなかった。
と、いってすぐ首にする
ようなことはしない。
一応、何かその人に合った
分野はないかと検討して
くれるのである。
私の場合、幸か不幸か適正
云々より以前に、パートの
人が辞めてしまったりした
こともあって、まさに目前の
必要に迫られて、復数の
分野をこなさざるを得なく
なってしまった。
もっともただ1人の女性社員
ということもあって、入社時
からその傾向はあったが、
それがより明確になったので
ある。
自分の能力の無さを情けなく
思ったりしていた私には、
その復数の仕事が意外にも
大きな活力となった。
周りが、大変だろうと案ずる
のに反して、私の方は喜々と
していた。
復数の仕事というと大層な
仕事のようであるが、なんと
いうことはない、掃除から
始まって、あっちの仕事の
手伝い、こっちの仕事の
処理、その合い間には
植木の手入れもやれば、
社員食堂のお味噌汁も
作ったりという、ようするに
便利屋さんなのである。
こんなこと位、中小企業の
社員は少なからずやっている
ことであろう。
社員の中には、もっと専門
分野を担当してもらいたいと
いう意見もあったようだが、
どうも私のほうが、その
分野の精密さについてゆく
適性がないのだから仕方が
ない。
私としては、そのままで
充分に生き甲斐を感じて
いたのである。
役に立てる喜びにひたって
いたのである。
中でも、会社の新しい
パンフレットを作成する
事になったのは嬉しかった。
担当者は、中堅男性社員と
私だけだった。
私は、表紙の写真選びに、
外部の写真資料専門会社を
数回訪問し、ビデオ写真の
吹込みをしたりする作業は
楽しかった。
出来上がったパンフレットや
ビデオを見る時間は大きな
喜びだった。
7月のこと、それまでタブー
とされていた、若い女性社員
が、入社した。
会社が必要とする知識を
専門学校で学び、将来も
続けてゆきたいという、
キャリアウーマン志向の
女性であった。
そういう掌中の珠を、基礎か
ら正確に教え込んでゆきたい
と思うのは、会社側としては
当然のことである。
処理能力の速さと上手さは
あっても、緻密さに欠ける
同性の存在はむしろ無垢の
者に対しては害であるという
判断があった。
私は、今までの労力を
ねぎらわれ、しばらく休養
していたら良いということ
になり、事務処理のみが、
明確な仕事となった。
事務処理といっても、本社で
大本のことは処理するので、
営業所で発生する売上に
関する処理だけで良く、
2時間もあれば済んでしまう
ものである。
今まで、時間を追いかけて
過ごしていた私は、突如と
して時間を持て余すことに
なってしまった。
資料を整理しておいて欲しい
とも言われていたので、手が
けてみたが、今とりたてて
必要な内容のものでもなく、
のろのろとした時がいた
ずらに過ぎ、定刻を迎える
までの苦痛との闘いの毎日が
続いた。
発揮の場を失ったエネルギー
は、徐々に内にこもり始め
た。
そして、自分の会社における
存在の是非にまで思いが至り
憂鬱になるばかりだった。
社員ともあまり口をきかなく
なり、涙ぐむ陰湿な日が繰り
返され、ついには退社しよう
というところまでいって
しまった。
この時ほど、自分の年令を
現実としてうとましく思った
ことはない。
出来ることなら若返り、
第一歩から真に会社に必要な
知識を身につけ、出直したい
という思いに囚われ続けた。
そんな頃だった。
「マイコン時代」という本に
今のスクールの募集広告を
見出したのは。
深く考える余裕などは
無かった。
私としては、ともかく陰鬱な
日々から脱出し、自分の
エネルギーを放出した
かった。
受講を始めた
マイコンスクールは、私情
などおかまいなしに、進んで
いった。
嫌でも応でも眼の前の機械と
指導者の説明に全神経を
集中しなければならな
かった。
初回など緊張のあまり、
終了後軽い頭痛を覚えた。
スクールへ通うのと並行して
ある密教系の宗教者の著書に
接し、その説くところに
傾聴しつつ、いつしか私の
心は平衡をとりもどし、
徐々に以前の明るさと活気を
取り戻した。
今では、講座の内容を翌日の
朝礼で報告するのがちょっと
嬉しい誇りなのである。
思えば、中学時代の国語の
先生が、「これからは
コンピューターの時代
だから、算盤が不用に
なるぞ」と仰ったが、私は、
その言葉を鵜のみにして、
算盤を習得しないまま上京
した。
しかし、現実の社会は算盤が
必要であり、慌てて算盤塾に
通った苦い思い出もある。
今、若い男性社員に先駆けて
コンピューターに接するとは
思いも掛けないことだった。
これも、配置転換のもたらし
た、好機だったのでろう。
昭和56年8月
ずっと後年になり、3%の
消費税がスタートしました。
パーソナルコンピューターも
奨励され、政府からは、
コンピューター購入代金の
援助がありました。
その頃は別会社に勤務して
いましたが、あの経験の
お陰で、会社が購入した
パーソナルコンピューターも
なんとかいじることが
出来ました。
そして、3日がかりで、
消費税対策用の資料データを
入力したことを微かに
思い出します。

